「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する この神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働き ました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(10節) 使徒パウロは、「今あるは神の恵み」と告白しました。恵みとは、受けるにふさ わしくない者が受けることです。パウロは、自分が今存在し、自分が今携わって いることを考えた時、過去の自分を振り返って、自分にはふさわしくないことに 畏れを感じたのです。しかしパウロはそれで終らずに、そのことをよく理解して いたからこそ、神の恵みに感謝して、人一倍努力して神に仕えてきたと言いま す。ところが、それでも考えてみると、自分が努力できたことでさえも、神の恵 みであったことを悟ったと言うのです。自分の功績を証するのでなく、パウロの ように神の恵みに日々感謝して歩むことができますように。
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Ⅰコリント 14章
「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」(40節)
使徒パウロが、この14章で語っている内容は、40節にまとめられています。「何事も適切に秩序正しく行うようにしなさい。」(LB)コリント教会の問題は、極端で、混乱していたということです。教会の中で、誰もが好き勝手なことを言ったり、行ったりしたら大変なことになります。33節にこうあります。「神様は、無秩序や混乱の神ではなく、秩序と平和の神だからです。」(LB)。私たちの教会は、極端にならないように、バランスを大事にしています。教会の中だけでなく、様々な所でもこの原則を適用することができると思います。神様は秩序と平和の神ですから、どんなことにおいても、適切に秩序正しく行うことを心がけることは神様が喜ばれることです。自分が遣わされているその場所で、極端になって混乱をもたらせる者ではなく、秩序と平和をもたらすことができますように。
Ⅰコリント 13章
「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(3節)
Ⅰコリント13章は、「愛の章」と呼ばれ、よく結婚式で引用されます。「愛」というところに自分の名前を入れると、自分の愛のなさが痛いほど分かる箇所でもあります。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、どんなに献身的に慈善を行っても、結局、愛がなければ意味がないというのが聖書が教えている内容です。愛を語るのに、まず「寛容」(4節)があげられているのは興味深いと思います。「辛抱強い」という意味の言葉ですが、「寛容な心」がなければ結局意味がないということだと思います。大和の大川師が「本質以外は寛容であれ」と言っていますが、そのような寛容な心がなければ、何の役にも立たないと言っていることに、心を留めたいと思います。
「本質以外は寛容であることができますように。」
Ⅰコリント 12章
「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」(1節)
使徒パウロが「ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」と言っている箇所は、大体、今も世界の教会で混乱している内容です。今日の箇所以外に、イエス・キリストの再臨に関する箇所(Ⅰテサロニケ4:13)、イスラエルに関する箇所(ローマ11:25)で同じ表現が用いられています。「御霊の賜物」とは、聖霊なる神様が与えてくださる賜物、才能のことです。特にここでは、使徒パウロが超自然的な賜物に関して言及していますが、31節にこう記されています。「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」つまり、私たちは熱心に賜物が与えられるよう求める必要があるということです。自分の賜物は何かと考えるだけでなく、求めなさいと言うのです。そしてパウロは言います。「私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」「愛すること」はそれ以上に大事です。
Ⅰコリント 11章
「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」(21節)
教会は様々な人々が集まる場所であり、問題が起こるのもやむをえない場所でもあります。コリントの教会もそうでした。コリントの教会は食事会をもっていましたが、貧富の差から生じる愛のない行為が横行していました。この箇所でパウロは、教会における食事会の本当の目的を思い出すように言います。単に自分の食欲を満たすためならば、家で食べればいいとまで言うのです。大事なことは、キリストの愛、十字架型の生き方を実践することであり、互いを思いやることだと言うのです。イエス様は多くの人と共に食事をすることを楽しまれました。イエス様は自分の時間、食物を分かち合うことを楽しまれたのです。
「イエス様、どうか自分のことばかり考えるのではなく、分かち合う喜びを学べますように。」
Ⅰコリント 10章
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(31節)
ウエストミンスター小教理問答書という中に、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」とあります。私たちの人生の根本的な原則がここにあります。私たちは、神の栄光のために生きているのです。「神に栄光を帰す」、これが私たちの存在目的です。もし、何であれ神に栄光を帰すことができるのであれば、私たちは堅い岩の上に立っています。私たちが、人生の中で、すべきがすべきでないか悩んだときに、これが基準になると思います。「私はこのことを、神の栄光のためにできるだろうか?」
「主よ、たとえ他の事柄をつかむことができなくても、この真理だけはつかませてください。ただあなたの栄光のために一日一日を生きることができますように。」
5月の日曜日 MAY Sundays
6日 Ⅰコリント1章 「ばかげた話か、神の力か?」
小山英児牧師
9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式
13日Ⅰコリント9章 「文句を言うのをやめて、走り出そう!」
小山英児牧師
9時、10時半、18時
20日Ⅰコリント15章 「ムダではない」 小山英児牧師
9時、10時半
18時(英語礼拝 w/ジョンT宣教師)
(Worship Service in English with JohnT Worm at 6pm. 同時通訳あり)
27日(ペンテコステ)Ⅱコリント4章 「だから私たちはあきらめない」
小山英児牧師
9時、10時半
(18時からの礼拝は、鶴見でもたれる合同聖会に合流するためお休みします。)
Ⅰコリント 9章
「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも 救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。」(22,23節) 使徒パウロの願い、それは一人でも多くの人が、イエス・キリストに出会い、 救われることでした。LBではこの箇所をこう訳しています。「キリスト様のこと を話し、その人が救われるためには、私はどんな人に対しても、対等の立場に立 とうと心がけています。これは、良い知らせを伝えるためであり、また、キリス ト様に導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためでもあります。」彼は、 「私自身は同意していなくても、議論したりはしません。」(20節LB)と言 い、「『それは考えが足りない』などと指摘したりはしません」(22節LB)と 言います。彼は福音のためならなんでもすると言います。この魂に対する情熱が クリスチャンに必要なのだと思います。 「主よ、使徒パウロのような、魂に対する情熱を与えてください。」
Ⅰコリント 8章
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(1,2節)
ある牧師は、この箇所をこうまとめました。「自分は何でも知っているという人は、知らないということを知らない。」情報過多に生きる私たちの問題は、すぐに自分が何でも知っているかのように傲慢になってしまうことです。自分の意見、自分の判断がいつも正しいと思ってしまうのです。しかし、大事なのは愛だと聖書は言います。聖書は愛の優先性を教えています。その良い例が、当時の宗教学者とイエス様のコントラストです。当時の宗教指導者たちは、知識を優先させました。そして、知識をもっていなかった当時の人々を蔑みました。しかしイエス様は、(どんな人よりも知識がありましたが)愛を優先されました。
「主よ、あなたの愛で私を満たしてください。」
Ⅰコリント 7章
「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。」(32節)
イエス様は言われました。「・・・御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない・・・」(マタイ13:22共)世の思い煩いは、私たちの人生に実らない人生をもたらせます。それで聖書は何度も、「思い煩わないように」と言います。思い煩いが私たちの目をキリストから離させるからです。いろいろな思い煩いがありますが、31節にはこうあります。「この世の魅力的なものに接する機会の多い者たちは、その機会を正しく利用し、おぼれることがないようにしなさい。現在あるがままの世界は、やがて過ぎ去るからです。」(LB)キリストから目を離させるものに魅力を感じていないでしょうか?
「だから、スピードを落とさせたり、うしろへ引き戻そうとする力に目を光らせなさい。特に、足にうるさくまとわりついて、つまずかせようとする罪をふり捨てなさい。そして、神様の用意された特別のコースを忍耐して走り抜こうではありませんか。」(ヘブル12:1LB)