pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

Ⅱ歴代誌 6章

「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(18節)

聖書の神殿は、神を閉じ込められる場所という意味ではありません。神は時間や場所に限定できるお方ではないからです。ソロモンはそのことを自覚していました。ですからソロモンにとって神殿とは「祈りの家」でした。神殿に神を閉じ込めることはできませんが、神はご自身の臨在をその場所に現すことを選ばれました。教会も「祈りの家」です。教会の中に神を閉じ込めることはできませんが、神はご自身の臨在を教会の賛美と祈りの中に現してくださいます。ですから使徒パウロは言います。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

Ⅱ歴代誌 4章

「この金は混じりけのない純金であった」(21節)

神殿で用いられる用具は「混じりけのない純金」を用いて作ったと聖書は言います。中世の修道士たちは、まさにこの「混じりけのない純粋性」を求めて、この世と隔離した修道院で修練しました。しかし、この方法は行き詰まります。修道士だったマルチン・ルターは人間の努力で「混じりけのない純粋性」を手に入れることができないことを悟ります。ルターは聖書を深く学ぶ中で、ただ神の恵みによって、キリストだけが自分をきよめることができることを知ります。使徒パウロは、このように言います。「キリストがそうなさったのは、バプテスマ(洗礼)と神のことばで教会を洗いきよめ、きよく、汚れのないものとするためでした。」(エペソ5:26LB)神が用いられるきよい器になるためには、まず、キリストを信じて洗礼(バプテスマ)を受け、そして、神のことば、聖書のみことばを日々、心に留めることです。

Ⅱ歴代誌 3章

「それから彼は、青、紫、紅、および白亜麻布の垂れ幕を作り、その上にケルビムの模様を縫いつけた。」(14節)

 今日の箇所の垂れ幕は至聖所の入り口にかけられていました。至聖所には神の栄光がありました。この垂れ幕は人の手では裂くことができないほど分厚い幕だったと言われています。しかし、イエス・キリストが十字架にかかられ死んだ時、聖書はこう記しています。「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マタイ27:51)つまり、神様が「さあ、中に入っておいで!あなたたちはみんな、至聖所に招かれているんだよ。」と語られたのです。イエス・キリストの十字架の死によって、神様が上から下まで、人にはできない分厚い垂れ幕を破られました。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)「主よ、あなたの御前に行き、大胆に祈れることを感謝します。」

Ⅱ歴代誌 2章

「さて、ソロモンは主の名のための宮と自分の王国のための宮殿とを建てようと考えた。」(1節)

  旧約聖書における神殿は、新約聖書の光をあてると三種類の適用ができます。一つは、イエス・キリストのからだという理解です。「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(ヨハネ2:21)二つ目は、イエス・キリストを信じる者の、それぞれのからだという理解です。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(Ⅰコリント6:19)三つ目は、教会、キリストを信じる者たちの集まりという理解です。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)キリストのからだ、信徒の体、教会という光から「神殿」を黙想する時に、神様が私たちに何を語りたいかが見えてきます。いずれにせよ「建てあげる」姿勢が大事です。

Ⅱ歴代誌 1章

 「その夜、神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」(7節)

  聖書の神は私たちに「願え」とおっしゃられるお方です。しかし、アラジンのジーニーとは違います。私たちのしもべとなって願いをかなえてくれる都合のいい存在ではありません。神は神であり、私たちの願いをきかなければいけないという意味ではありません。しかし、神は「願え」とおっしゃってくださるお方、私たちの祈りに答えてくださるお方です。実際神様は、ソロモンの祈り以上に答えられました。「あなたが富をも、財宝をも(中略)求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」(11,12節)

Ⅰ歴代誌 29章

「そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したす
べてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげ
た。」(3節)

ダビデは「全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした」(2節)だけでな
く、喜びのあまりそれに加えて捧げたとあります。神様に捧げることは喜びで
す。私たちは受けるためにではなく、捧げるために生きています。29節にこう
書いてあります。「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物につい
て喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビ
デ王もまた、大いに喜んだ。」捧げることが喜びだと言う世界を体験するために
は、みずから進んで、自発的に捧げる姿勢を持つことが大事だと思います。です
から使徒パウロもこう言っています。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、
強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛し
てくださいます。」(Ⅱコリント9:7)

Ⅰ歴代誌 28章

「それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから――。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。」(20節)

 「恐れてはならない」とダビデが言ったのは、ソロモンが恐れていたからだと思われます。どんな人でも指導的な立場を受け継ぐことには恐れが伴うものだと思います。ダビデは根拠なく言ったわけではありません。彼はその根拠を、こう言っています。「神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから」。全知全能の神が共にいるから、恐れる必要はないと言ったのです。神様は私たちを見放さず、見捨てず、完成させてくださるお方です。だから使徒パウロは言いました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

Ⅰ歴代誌 27章

「ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」(23節)

当時の人口調査の理由は、兵士の数を数えるためです。ですから神様が人口調査を禁じた理由は、イスラエルの人々がマン・パワーに依存して、神様に頼らなくなることを危惧したからです。残念ながら、人は計算できる範囲内に生きていると、祈りがなおざりになっていく傾向があります。計算できますから、祈っても祈らなくても同じに見えてしまうのです。しかし、自分の頭で計算できない時、私たちは必死で祈ります。祈ることしかできないからです。いつも自分の計算できる範囲内に自分を置くならば、安定はするかもしれませんが、祈りがなおざりになって、霊的な部分が弱くなっていきます。計算することがすべて悪いわけではありません。しかし、計算することができない信仰の冒険の世界に挑戦する姿勢も大事です。

Ⅰ歴代誌 26章

「ヘブロン人のうち、エリヤは、その一族その家系によるヘブロン人のかしらであった。ダビデの治世の第四十年に、彼らは調べられ、そのとき彼らのうちにギルアデのヤゼルで勇士が見いだされた。」(31節)

  神様は私たちを見いだしてくださる神様です。たとえ群衆の中に埋もれていても、神様は放っておかれることはありません。イエス・キリストは言いました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)私たちは神様に見いだされ、神様が私たちを選んでくださったから、今、この聖書のみことばを読んでいます。ギデオンがそうであったように、そう感じないかもしれませんが、主は言われます。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(士6:12)