pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

詩篇 123篇

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)

今日は主の日、礼拝を捧げる日です。礼拝は、神に目を上げることから始まります。神は天の御座に着いておられます。すべての上におられます。信仰の人は、神を見上げます。見下げたりしません。もちろん、神の御子、イエス・キリストは仕える者となられました。しかし、それは私たちが神を利用できるという意味ではありません。神は、人が自分の快適さを保つために命令できるようなしもべではありません。もし、神を理解したいならば、私たちは目を上げる必要があります。権威の場所、聖書のみことばを見上げる必要があります。立ち位置を間違えないように気をつける必要があります。神は神であり、創造者です。人は人であり、被造物の一つです。驚くことは、そんな私たちを神は心にかけ、愛されているということです。週の初めの日、まず、神に目を上げることから始めましょう。

詩篇 122篇

「エルサレムの平和のために祈れ。『お前を愛する人々が栄えるように。』」(6節)

これは、ダビデによる都上りの詩篇です。エルサレムは、イスラエルの人々にとって国の中心であると同時に、精神的なよりどころでもありました。なぜならそこには神殿があり、神殿は神様の臨在の象徴であったからです。彼らはそこで神様を礼拝し、賛美をささげ、祈りをささげていました。エルサレムの重要性は時代が移り変わったいまでも変わることがありません。現在のエルサレムには、いたるところに戦争の傷跡、弾痕が残っています。神様の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思う時に、私たちの心を絞めつけます。エルサレム(神様の臨在の象徴)の平和(シャローム)のために祈りたいと思います。また、神様の臨在の象徴という意味では、自分が所属する地方教会もそれに当たります。地方教会はこの世の希望です。祈りましょう!

詩篇 121篇

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)

 私たちが必要なとき、神様はいつもそこにおられます。いつでも私が呼ぶとき、神様は答えることができます。神様はまどろむことも、眠ることもないのです。人間は神にはなれません。すべての必要に人は答えることはできません。人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。ですから、私たちは神様に期待する必要があります。自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神様を求めましょう。詩人は、山に向かって目を上げました。目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、「私の助けはどこからくるのだろうか」とつぶやかずにいられない心境。誰が助けてくれるのだろうか?そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神様に心を向けます。目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはありえません。ならば、神様には、その問題をも解決することができるのです!

詩篇 120篇

 「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。」(1節)

 詩篇120篇から134篇は、「都上りの歌」と呼ばれ、祭りの時などにエルサレムに向かう中で歌われました。120篇は、神の都から一番離れたところからはじまります。私たちが生きている日常の中で、主の臨在を渇望する姿が記されています。

「平和を愛する私に、彼らは挑戦的で、そのどなり声に私の声もかき消されてしまいます。」(7節LB)

時々、そんな詩人の気持ちが分かるのではないでしょうか。毎週日曜日、私たちは日常から離れて、神の臨在を求めて教会に集います。そして、神の臨在は確かに教会の中にあります。

「教会は、キリスト様の体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリスト様の霊が満ちあふれる場所です。」(エペソ1:23LB)

「主よ、教会がいつもあなたの臨在で満たされていますように。あなたの平和で満ちあふれていますように。」

詩篇 119篇

「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」(68節)

詩篇119篇は、いろは歌になっています。ヘブル語のアルファベットにそって、神のみことばの大切さを歌っているのです。サタンは、「神のみことば」の力を知っていますから、私たちが「神のみことば」に対する信頼を揺るがそうとします。「神のみことば」が私たちに信仰を与え、「神のみことば」が私たちにいのちを与えます。「神のみことば」が力がある理由、それは、このことばを語られる神が今生きておられ、力があるからです。時の権力者の言語録にさえ力があるのです。なおのこと、生ける神のことばには力があります。このお方は、いつくしみ深く、いつくしみを施されるとあります。口語訳では「あなたは善にして善を行われます。」新共同訳では「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」このお方のみことばを求めようではないでしょうか!

「主よ、みことばを感謝します。」

詩篇 118篇

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」(24節)

「設けられた」と訳された言葉は、「作る、行なう」という意味が原文にあります。ですから、英語の聖書では、「主が作られた日」と訳し、新共同訳聖書では、「今日こそ主の御業の日。」と訳しています。どちらも素晴らしい訳だと思います。今日と言う日を、神様が私たちが楽しみ喜ぶために作られたと意識するならば、今日と言う日をどのように過ごすでしょうか?今日という日に、神が何か素晴らしいことを用意されていると、今日と言う日を喜ぶことができるならば、今日と言う一日を最高に生きることができるのではないでしょうか。また、今日は神の御業の日というのはどうでしょうか?今日、神様が素晴らしいことを行なってくださると、信じ、期待し、始めることは聖書的です。「この日は、主がつくられた!」「この日は、主の御業の日だ!」と信仰の宣言をもって一日を始めていこうではないでしょうか!

詩篇 117篇

「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。その恵みは、私たちに大きく、そのまことはとこしえに至る。ハレルヤ。」(1‐2節)

 2節をLBでこう訳しています。

「私たちを目に入れても痛くないほど思ってくださる神様に、心変わりはありません。神様をほめたたえなさい。」

神様がどれほど私たちを思っておられるかは、ご自身の御子、イエス・キリストを与えるほどだと聖書は言います。それは、私たちの理解をすでに超えています。「恵み」と訳された言葉は「真実」(faithfulness)とも訳される言葉ですが、神は真実を尽くしてくださるお方です。使徒パウロは、このように表現しています。

「しかしたとえ、信仰をなくしたかと思えるほど私たちが弱くなっても、キリストは真実(faithfulness)を貫き、私たちを助けてくださいます。私たちは主の一部分になっているので、切り捨てられることはないのです。そして、主はいつも約束を果たしてくださいます。」(Ⅱテモテ2:13LB)

詩篇 116篇

「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。」(12節)

 この詩人は順風満帆に人生を送ってきたわけではありません。この個所の前後には彼の体験してきた試練や悩み、時には死を意識しなければならなかった出来事に言及されています。

『失意に沈んでいたころの私は、「もうだめだ。死ぬに決まっている。回りの人間は気休めを言ってくれているのだ」と思い悩んでいました。』(10、11節LB)

詩人はそんな中で、神様が注いでくださった恵みの数々を数え、何をお返しすることができるだろうかと考えます。そして、彼は人々が集まる神の宮に集い、神を礼拝することによって、主にお返しします。神が求めているのは「礼拝者」だとイエス様は言われました。(ヨハネ4章参照)

今日は主の日、主が注いでくださった恵みを思い出し、共に賛美と礼拝を神様にお返ししましょう!

単ペン大会 プレ・ユース大会

6月16日の第三礼拝の時間(18時から)は、単ペン大会、プレ・ユース大会として中山有太師が賛美とメッセージを導かれます!

中山有太師は、プレイズステーションのリーダーであり、東北中央教会の音楽主事であり、現在、若者の働きに用いられている素晴らしい神の器です。

もちろん、若者でなくても、参加可能です。ご参加ください!

第一と第二のメッセージも、中山有太師が行います。

詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(1節)

ある日、妻が通っていた神学校にドイツから大きなパイプオルガンが運ばれてきました。ドイツで一度組み立てた後、解体して二カ月かけてまたチャペルで組み立てるという気の遠くなるような作業の果てに素晴らしいパイプオルガンが完成しました。その後、パイプオルガンのはじめての演奏会がおこなわれました。次々に迫力のある演奏が披露され、最後に外国人演奏家が音を奏で始めました。決して派手な演奏ではありませんでしたが、胸を打つ、心に迫る演奏にチャペルは割れんばかりの拍手がわきおこりました。その時、彼は人差し指を口に当てました。そしてその手でチャペル前方に掲げられた十字架を指し示したのです。すべての栄光を主にという彼の姿はそこにいた人たちの心に深く刻まれました。Soli Deo Gloria!