pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 64章

 「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」(4節)

LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。

「世界が始まって以来、私たちの神様のように、待ち望む者にすばらしいことをしてくださる方は、ほかにありません。」

使徒パウロはまさにこの箇所を引用してこう言っています。

「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」(Ⅰコリント2:9)

神を愛する者、待ち望む者に、神は見たことも、聞いたこともない、思い浮かぶこともない素晴らしいことをされると約束しています。神は、

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

です。

「主よ、あなたに期待します!」

イザヤ 63章

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(9節)

私たちが苦しむとき、神様はいつもいっしょに苦しまれています。

「足跡」という詩があります。

 

「ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。

一つはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。

そこには一つの足跡しかなかった。

わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。(中略)

主は、ささやかれた。

『わたしの大切な子よ。

わたしはあなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

足跡が一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた。』」

イザヤ 62章

「あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」(4-5節)

耳を疑うような内容ですが、聖書に「主の喜びがあなたにあり」、「あなたの神はあなたを喜ぶ。」とあるように、神様にとって私たちの存在は喜びです。そもそも神様は私たちの弱さや欠けではなく、キリストの中で完成された者として私たちを見ておられます。サタンは私たちが価値の無い者だと嘘を言います。神様が気にも留めないような存在だと嘘を言います。サタンの嘘ではなく、神の声を聞きましょう。

イザヤ 61章

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」(1節)

キリストがこの地上で一番最初に説教するのに用いたテキストがこの箇所でした。キリストが来られた理由、それは、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すためだと言います。「貧しい」とは、物質的な貧しさのことではなく、「神が必要だ」と認めている人を指しています。キリストは、自己満足していた当時の宗教家に厳しい態度を取られました。キリストは、飢え渇きのある人に良い知らせを伝えに来られました。その体である教会も、飢え渇く人々に福音を伝えていくことが大切です。キリストはまた、心の傷ついた者をいやすために来られたと言いました。キリストだけが、本当の意味で心を癒すことができます。その体である教会も、キリストが働かれやすい環境を提供することが大切です。

イザヤ 59章

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(16節)

預言者は言いました。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)

しかし、この箇所で、神様はイスラエルの国のためにとりなしの祈りの手を挙げる人を見つけることができなかったと言います。しかし、だからといって神様の働きが失われるわけではありません。希望はあります。神様ご自身が介入されると約束されます。

「神様はこう告げます。『これが彼らへの約束だ。わたしの霊は決して彼らから離れない。彼らは正しいことを望み、悪を憎むようになる。彼らだけでなく、子々孫々、永遠にそのようになる。』」(21節LB)

 「主よ、ご介入してください。」

イザヤ 58章

「わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」(5節)

当時の人々は、表面的には断食までして、敬虔そうに振舞っていました。しかし、神様はそんな表面的な行為よりも、神の民としての具体的な行動を求めます。

「あなたのすべきことは、弱い者いじめをやめ、でっち上げの告発をしたり、悪質なうわさを流したりするのをやめることだけです。飢えた者に食べさせ、困っている者を助けなさい。そうすれば、あなたの光は暗やみの中から輝き渡り、あなたを取り囲む暗やみは真昼のように明るくなります。」(9,10節LB)

神様をごまかすことはできません。ですから、詩人は祈りました。

「ああ神様。私の心を探り、その内面を調べ上げてください。もし、あなたを悲しませるようなものがあるなら、教えてください。そうして、永遠のいのちへの道からそれないようにお導きください。」(詩139:23,24LB)

イザヤ 57章

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(15節)

LBでは後半部分をこう訳しています。

「わたしは謙そんな人を生き返らせ、悔い改めた人に新たな勇気を起こさせる。」

聖書の言う「謙そん」は自己卑下とは違います。自分をかわいそうに思うことではなく、自分は神が必要な存在であると認めることです。自分は有限な被造物であり、無限な創造者ではないと認めることです。神を神として認めることです。自分中心(自己実現)の人生から神中心(神実現)の人生に方向転換(悔い改め)する時に、神様は私たちに新たな勇気を起こされます。

「創造主なる神様、あなたが必要です。私を新しくしてください。」

イザヤ 56章

「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7節)

聖書の神は特定の人の神ではなく、すべての人の神です。神は言われます。

「わたしの祝福は、神を信じる外国人にも及ぶ。彼らは二の次にされるなどと考えてはならない。」(3節LB)

神の目には人種差別はありません。新約聖書にもこう書いてあります。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28新共同訳)

今、キリスト教会は、「すべての民の祈りの家」です。キリストにあってあらゆる人が一つになって主を賛美し祈る姿こそ、教会があるべき姿だからです。この祈りの家で、神は私たちを楽しませてくださいます。

イザヤ 55章

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(6節)

 ある時、イエス様がこう言われました。

「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(ヨハネ9:4,5)

使徒パウロは、

「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)

と呼びましたが、今という時に、主を呼び求めることが大切です。私たちは、今という時に一人でも多くの人が主を呼び求めることができるように、主イエス・キリストを指し示す必要があります。聖書は言います。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(Ⅱペテロ3:9,10)

イザヤ 54章

「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。―主の御告げ。―」」(17節)

LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「しかし、やがて来る日には、おまえに向けられたどんな武器も役に立たなくなり、法廷でどんな偽証が並べ立てられても、おまえは正しいと認められるようになる。これが、主のしもべの特権であり、わたしからの祝福だ。こう神様はお語りになります。」

まさに、これが「義認」と呼ばれるものであり、イエス・キリストを信じる者に与えられた約束です。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

「イエス様、あなたの約束を感謝します。」