pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ダニエル 9章

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(18節)

ダニエル書9章のダニエルの祈りは、私たちの祈りの模範の一つです。彼が自分の国のため、同胞のために祈る姿勢を、私たちは学ぶ必要があると思います。彼は私たちが神様に祈り求めるのは、
「私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」
と告白します。LBではこう訳しています。
「助けていただく値打ちがあると思うから、お願いしているのではありません。私たちのどうしようもない罪にもかかわらず、神様はあわれみに満ちたお方でいらっしゃるので、お願いしているのです。」
私たちはただ、イエス・キリストの真実のゆえに、イエスの御名の中で祈ります。

ダニエル 8章

「この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。」(8節)

ダニエルは、再び、これから後に起こることに関する夢を見ました。

「私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。」(5節)

この西からやってきた雄やぎは、アレキサンダー大王を指していると考えられます。彼は、まさに、権力の絶頂で死んでしまいます。そして、その王国は、四つに分けられました。あまりにもこの預言が的確なので、学者たちは、これはダニエルではなく、後世の人がこの預言を書いたのではとさえ言っています。神のみことばは的確であり、神がするとおっしゃられたことは、必ず行われます。今日は主の日。主に賛美と礼拝を捧げ、変わることのない神のみことばに耳を傾けていきましょう!

※ 本日の主日礼拝は、小山晶子牧師夫人がメッセージをとりつがれます!

ダニエル 7章

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(13、14節)

「年を経た方」とは父なる神、「人の子のような方」とは子なる神、イエス・キリストです。ここでは、このダニエルの時代の後に現われる四人の王と帝国を、四匹の動物で象徴していると言われます。獅子のような動物はバビロン帝国、熊はペルシャ帝国、豹はアレキサンダー大王のギリシア、そして、最後の獣が象徴しているのはローマ帝国だと考えられます。大事なことは、これらの王の主権は一時的で、過ぎ去り、その国は滅んだということです。しかし、神の主権は永遠で、神の御国は滅びることはありません。

ダニエル 6章

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(10節)

「習慣は第二の天性」と言われますが、ダニエルは、いつも神の前に祈り、感謝していました。この時、ダニエルは88歳ぐらいだったと言われます。彼は、何があっても、この習慣を止めることはしませんでした。なぜなら神との関係こそが、彼の人生の強さであり、安定の基だったからです。たとえそれが死を意味しても、彼はこの習慣を隠すことさえありませんでした。ある牧師は、一日15分で人生は変わると言います。5分聖書を読み、5分読んだ箇所を黙想し、5分祈る。このような聖なる習慣を身につけることは、私たちの力となります。この後、ダニエルはライオンの穴に投げ込まれますが、奇跡的な守りを体験します。聖書はその理由をこう記しています。

「彼が神に信頼していたからである。」(23節)

ダニエル 5章

「それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。」(23節)

ネブカデネザル王の息子が大宴会をしている様子から5章は始まります。彼は、父親がエルサレムの神殿から奪い取ってきた金の器でぶどう酒を飲み、大騒ぎをしていました。そのとき人間の手が現れ、壁に文字を書きましたが、それを解き明かす人がいなかったので再びダニエルが王の前に呼ばれました。王は

「あなたのうちに神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。」

と言います。

聞いていたのに、まことの神を求めようとしなかったということがありませんように。

ダニエル 4章

「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」(34節)
 
ネブカデネザル王は一時期、理性を失っていました。彼が

「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(30節)

と傲慢になっていたところ、神は彼から理性を取り去り、彼は動物のようになってしまいました。

一定の期間が終わり、彼が天に目を上げ、神がすべてを治めているという事実を認識した時、理性が戻りました。

もし、私たちが自分が成し遂げたこと、自分に栄光を帰そうとするならば、それらが私たちをおかしくさせます。

しかし、もし、私たちの目を天に向け、ただ神を礼拝し、賛美するならば、理性は戻ってきます。

ダニエル 3章

そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」(24,25節)
 
 神は時として私たちを火のような試練の中を通ることを許されます。ペテロの手紙第一には、

「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(4:12共)

とあります。しかし、このヘブル人たちのように何の害も受けません。火は、私たちを縛る縄を焼くだけです。

もっとも素晴らしい祝福は、第四の者の存在です。受肉前のキリストだと言われます。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が共におられます。

ダニエル 2章

「それから、ダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた。彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」(17‐19節)

 ダニエルは、自分も自分の同僚たちも殺されるということを知りました。命の危険は迫り、何か行動を起こさなければならない状況でした。ダニエルは同僚のところに行き、共に、祈りました。彼らは特別に教育を受けた、賢い人たちでした。彼らは知っていました。問題の中で一番賢い行動は、祈るということであることを。事実、神は彼らの祈りに答え、ダニエルに啓示を与えられます。ダニエルが私たちに伝えているメッセージはこれです。

「パニックになってはいけません。祈りなさい。」

 

※ 本日14時より大和カルバリーチャペルにてブルックリンタバナクル教会のジム・シンバラ先生の特別リバイバル聖会があります!

ダニエル 1章

「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」(17節)
 
少年たちに与えられた能力が、どこから来たかを覚えることは重要なことだと思います。私たちの能力は、すべて神様から来ます。身につけるための努力をする必要がないという意味ではありません。しかし、身につけることができるその環境でさえも神様が与えてくださったと考えるならば、傲慢になることはできないのではないでしょうか。(神様が与えてくださった環境を感謝して、神の栄光のためにその能力を身につけるために努力することは大切なことです。)もし、神からの賜物だと認識することができれば、神にお返しするという意識は当然のことと思います。与えられた能力を、神の栄光のために用いているでしょうか。すべての栄光を神に捧げるため、神は私たちに能力を与えてくださいます。

今日は主の日。主に捧げていきましょう!

エゼキエル 48章

「町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。」」(35節)
 
エゼキエル書の預言は、この新しいエルサレムの町の一番素晴らしい点を指し示すことで閉じられています。それは、「主はここにおられる。」ということです。使徒ヨハネも、この新しいエルサレムに関してこのように述べています。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3,4)
聖書の言う「天国」は「極楽」ではなく、この「主はここにおられる。」という現実です。ですから、イエス・キリストを信じることによって、すでに、この現実は始まります。そして、最終的に新しいエルサレムももたらされ、この預言は成就します。