pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

2テモテ 3章

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(14、15節)

聖書を学ぶことは大切なことです。自分で学び、確信したことは揺らぐことのない土台となっていきます。しかし、

「どの人たちからそれを学んだか」

ということも問われていることにも注目する必要があります。すぐ後の16節で、

「聖書はすべて、神の霊感によるもの」

とあるように

「聖書を神の言葉と信じている人」

から学ぶ必要があります。アルファのニッキー師はこう言います。

「聖書が神の霊感によって書かれたものであるという見解は、時代を超えて全世界の教会において、ほとんど普遍的なものです。」

2テモテ 2章

「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(21節)

聖書の時代にも、様々な「器」がありました。もちろん、その「器」を何に用いるかが重要でした。使徒パウロは、こんなことも言っています。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)

つまり、私たちは、神の臨在に用いられる器だと言うのです。神はご自身の臨在で私たちを満たし、神の恵みとあわれみが私たちを通して溢れ流れ出ることを願われています。パウロはこの箇所で、神の真理よりも自分の哲学を教えていた人たちに警告として語っています。私たちは神のみことばによって日々きよめられる必要があります。

2テモテ 1章

イースターおめでとうございます!

本日の礼拝は、イースター特別礼拝です。

よみがえられたイエス・キリストを共にお祝いしましょう!

主はよみがえられました!

「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」(10節)

今日はイースター、イエス・キリストが死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示された日です。イエス・キリストの復活は、死を超えた永遠の世界があることをこの世に示されました。ある時、イエス様はこんな質問をされました。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25,26)

永遠のいのちは、死を超えるいのちです。人は死亡率100%のはずですが、キリストを信じる者は、実は死にません。この世を去る時、それは死ではなく、引っ越しをするだけです。

復活の主に、礼拝をささげましょう!

ヨエル書 3章

「さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。」(14節)

 英語の聖書(NKJV)では、「さばきの谷」を「決断の谷」(the valley of decision)と訳しています。この箇所は、この世界の終わりに関する預言です。すべての人は、やがて、この「決断の谷」に自分がいることに気がつきます。イエス・キリストについていくのか、それとも、拒絶するのか。それは、私たち一人一人が決断しなければならないことです。

明日は、イースター、イエス・キリストの復活をお祝いする日です。

イエス・キリストは、確かによみがえられました。

心を尽くしてイエス・キリストを求める時は、今です。

聖霊なる神様に満たされることを求める時は、今です。

決断するのは今です。

「私は、イエスについていく決断をした。

もう振り返らない

(I have decided to follow Jesus. 

No turning back.)」

ヨエル書 2章

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(25節)

神様は私たちが失ったものを償ってくださる、回復してくださる神様です。ヨブは多くのものを失いましたが、最後にはこう記されています。

「主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」(ヨブ42:10口語訳)

また、イザヤ書にはこう記されています。

「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(イザヤ40:2)

私たちの人生には様々な試練が存在します。しかし、その試練の先には、試練の倍の祝福が待っています。神様は失われた年月を償われるだけでなく、その倍の祝福を与えてくださいます。

今日は聖金曜日(Good Friday)、イエス様が私たちのために十字架にかかられたことを覚える日です。金曜日、誰もが望みは断たれたと思いました。しかし、復活の日曜日が来たとき、実は、神の偉大な御業が行われていたことを知りました。

復活の日曜日は来ます。

復活の主に望みをおいていきましょう!

ヨエル 1章

「長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(2,3節)

ヨエルは当時のイスラエルの国がどんなに混乱している状態にあるかを指摘します。そして、彼らが直面していたイナゴの大群における飢饉には、意味があることを伝え、悔い改めを呼びかけています。それだけではなくヨエルは、これらの問題を後の世代にも語り伝えるように命じます。私たちは成功を語り伝えたいと思います。しかし聖書は、正直に私たちの失敗を、そして失敗から学んだことを、次世代に伝えていくことが大事だというのです。

今日は洗足木曜日。イエス様が弟子たちの足を洗い、互いに洗い合うように言われた意味を考えたいと思います。

ホセア 14章

「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。」(9節)

スポルジョンという牧師が、ある信徒の家を訪問したときに、彼の小屋の上にある風見に「神は愛なり」と書いてありました。それで、スポルジョン牧師は彼に尋ねました。「あなたは、神の愛が変わることがあると言いたいのですか。」彼は、こう答えました。「いいえ。私は風がどんな方向に吹こうとも、それでもなお神は愛であると言いたいんです。」これが、ホセア書のメッセージです。神の民は神を裏切りましたが、ホセアがゴメルをあきらめなかったように、神もご自身の民をあきらめていません。神はひとりも滅びることを望まず、立ち返るのを待っておられるのです。これが、私たちが知るべきことです。
「主よ、あなたの恵み、あなたのあわれみを感謝します。」

ホセア 13章

「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ。」と言った者たちは。」(10節)

偶像というのは、目に見える彫刻だけの話ではありません。まことの神よりも人に信頼するのならば、それもまた、その人にとって偶像となりえます。LBでは、この箇所をこう訳しています。

「この地の指導者はどこにいるのか。おまえは王や指導者を頼みにした。それなら、彼らに救ってもらうがいい。」

人は、人を救うことはできません。キリストだけが私たちを救うことができるのです。どんなに優れているように見える人でも、人である限り、本当の意味で人を救うことはできません。私たちは人に対して信仰をもつべきではありません。神に信仰をもつべきです。「ホザナ」の意味は、「どうか私を救ってください」です。救い主、イエス・キリストに、「ホザナ!」と叫びましょう。

ホセア12章

「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(6節)

 信仰生活の中でもっとも難しいことの一つが、神を待ち望むということだと思います。私たちは待つことが嫌いです。何とかして物事を自分の思い通りに動かしたいと思います。しかし、神様は「待ちなさい」とおっしゃられます。神様は、私たちとは違うカレンダーを持っています。ですから、私たちは継続的にこの御言葉を自分の心に言い聞かせる必要があります。

「絶えずあなたの神を待ち望め」

さらに、LBでは後半部分をこう記しています。

「いつも、神様から多くのものを期待せよ。」

私たちは落胆を避けるために、いつのまにか期待をしないようになります。人間が期待に添えないことは多々あります。しかし、神様は期待することができるお方です。いや、期待以上に応えて下さるお方です。