pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ヨハネ 21章

「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうですか。』イエスはペテロに言われた。『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(21、22節)

私たちはすぐ周りと比較してしまう傾向があります。ペテロもそうでした。彼はイエスから、彼の人生に迫害が待ち受けていることを告げられた時、「ヨハネはどうなのですか?」と尋ねました。イエスの答えは、「ヨハネにはヨハネの使命があるのだから、あなたはヨハネと自分を比べるのではなく、わたしにただ従ってきなさい」ということでした。これは信仰生活においてとても大事な姿勢です。「あの人がこうするから、私もこうしよう」、「あの人がこうしないから、私もしない」というのは、イエスが望まれている信仰姿勢ではありません。神との一対一の関係を築くことを求められています。

ヨハネ 20章

「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」(22節)

キリストの復活は「新しい神の週」が始まったことを証しています。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節)

という意味は、今までとはまったく異なった生き方のことです。今までの「やられたらやり返す」というような古い生き方ではなく、「愛と和解、癒しと希望」をもたらす新しい生き方のことです。イエスはこの新しい世界に生きるためには、聖霊が必要であることをよく知っていました。それで、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と言われました。イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の国に生きていくために、聖霊の力が必要です。それで初代教会から伝わる祈りは「聖霊様、来てください」です。今、聖霊に満たされるように祈りましょう。

ヨハネ 19章

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(30節)

「完了した。」という単語は、「完済した」という意味です。請求書に書く「支払済み」という単語です。請求書は、すでに処理されました。支払いは終わりました。イエスの十字架の御業は完璧でした。「完了した」というのはまた、「完成を告げられた」という意味もあります。創世記の二章で、神が天地万物を創造された後、このように記されています。

「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」(創世記2:2)

イエス・キリストの十字架の死は、神がなさっていた新しい創造のわざの完成でもありました。ですから、使徒パウロもこのように言います。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(新しい創造)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

ヨハネ 18章

「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」」(36節)

ピラトは当時のローマ帝国を代表しています。イエスは「神の国」を代表しています。イエスはピラトにこう言いました。

「わたしの国はこの世から出たものではありません。」(直訳)

イエスのポイントは、「神の国」というのは、ローマ帝国に代表される、「この世の力」を土台としたものではないということです。時として「この世の力」は、揺るぐことのないもののように見えてしまう時があります。しかし、ローマ帝国も崩壊したように、「この世の力」は絶対ではありません。しかし、キリストが十字架にかかられることによってもたらされた「神の国」は今も全世界へと広がり続けています。

ヨハネ 17章

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(20、21節)

17章は、十字架で死なれる直前にイエス様が祈られた祈りです。

「彼らのことばによってわたしを信じる人々」

とは、私たちのことです。イエス様が特に私たちのために祈られたのは、

「彼らがみな一つとなるため」

でした。

「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

とイエス様は言われました。もっとも一致するためには、「違い」を尊重する必要があります。

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」

と言われるように、多様性は重要です。

ヨハネ 16章

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(33節)

今日の箇所は十字架にかかられる直前のイエス様が、弟子たちに語られた最後の言葉だと言えると思います。異端の特徴の一つに、繁栄を過度に強調するということがあげられます。聖書は、祝福をもちろん語っていますが今日のイエス様の言葉を見るならば、この地上の歩みにおいては困難なことに直面することがあることを忘れてはいけません。うまくいっていないときは祝福されていないのだ、ということではなく、どのような状況に置かれても、神様の視点を持ってその御手にすべてをおゆだねすることが出来ることこそ、わたしたちキリスト者の最大の祝福だと思います。イエス様の勝利の中に、わたしたちは平安を見出すのではないでしょうか。

ヨハネ 15章

「わたしはぶどうの木で、あなた方は枝です。ひとがわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(5節)

教会にぶどうの木が植わってから12年目を迎えました。毎年、毎年、枯れてしまったように茶色くやせた枝から信じられないほどの生き生きとした緑の葉っぱが春の訪れとともに登場します。花が咲き、実がつき、その実が大きくなって熟すまでには長い時間がかかります。でも、木に枝がつながっている限り、その実は枯れることなく秋には美味しい葡萄となってわたしたちを楽しませてくれるのです。枝のもとに木に流れるいのちと栄養が注がれてくるように、わたしたちもイエス様にしっかりとつながって、その豊かないける水を注いでいただき、どんなに時間がかかっても収穫の日を迎えることのできる信仰の歩みをしていきたいと切に願います。

ヨハネ 14章

「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。」(27節)

聖霊なる神様について、イエス様はいくつか言及されています。この箇所を読むと、聖霊様は単なる「ちから」ではなく、人格を持ち、意思ある存在として明確に語られています。聖霊なる神様のお働きは様々ありますが、わたしたちを教え、聖書の御言葉を思い起こさせて下さるとはなんと素晴らしいことでしょうか。逆風の多い信仰生活において、聖霊様の存在を抜きにしては前進していくことは不可能です。なぜなら、イエス様はこうもおっしゃったからです。
『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』使徒の働き1:8

ヨハネ 11章

「しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことは出来なかったのか』という者もいた。」(37節)

先週、エジプトのキリスト教の一派コプト教会の信徒21人がリビアのイスラム国を名乗る者たちに殺されるという痛ましいニュースが報道されました。私自身、エジプトを以前訪れた際、コプト教会の中を案内していただき、ちょうど教会に来ていた信者の方の生まれたばかりの赤ん坊を抱かせてもらうという思い出もあって、今回のあまりにもひどい出来事に言葉もありません。なぜ、神様は彼らが殺されることに沈黙しておられるのだろう?と。今日の群衆の言葉のようにわたしの中に、未だ答えはありません。でも、25節のイエス様の言葉に一筋の明確な光を見出すのです。
『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』

ヨハネ 10章

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立っていきます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼についていきます。」(4節)

イエス様は27節で

『私の羊はわたしの声を聞き分けます。』

ともおっしゃいました。イエス様の声を聞き分けることは難しいことではありません。いつもその御声を聞いておけばいいのです。そうすれば、たとえ他の声が聞こえても迷うことはないはずです。しかし、どうして私たちはしばしば迷ってしまうのでしょうか?それは第一に他の様々な声と同じくらいの頻度でしかイエス様の声、すなわち聖書の言葉を聴いていない、大事にしていないということ、第二に、イエス様が何を語っておられるかを分かっていながら実行したくないという自分の思いのなかで葛藤しているということです。こんなとき、イエス様だったらどうするだろう?といつも信仰のアンテナをピンと張って歩みたいと思います。