pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

民数記 20章

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」(8節)

荒野を旅するイスラエルの民が水を求めたのは、今回で二度目でした。一度目は岩を打って水を出すように命じられ、モーセは従いました。しかし、今回は命じるだけでいいと言われたのに、モーセは従わずに、前回と同じように打ってしまいました。モーセはこの失敗で、約束の地に入ることが許されませんでした。指導者たちは格別厳しいさばきを受けることを心に留めるべきだと思います。(ヤコブ3:1)しかし、ここにはさらに大きな問題がありました。Ⅰコリント10章に、

「その岩とはキリストです。」

と解説されています。キリストは生ける水を私たちに与えるため、一度、十字架で打たれました。今は打たなくても口で告白すれば(ローマ10:10)生ける水は与えられます。モーセはそのことを象徴することに失敗しました。

民数記 19章

「しかしその祭司は夕方まで汚れる。」(7節)

きよめる儀式にたずさわる祭司もまた汚れると聖書は言います。きよめるために、自分が汚れると言うのです。イエス・キリストは、神の御子なのに、私たちをきよめるためにあの十字架ですべての汚れを受けられました。聖書は言います。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9)

榎本保郎師(ちいろば先生)はこう言っています。

「私たちの貧しさ、けがれ、罪のいっさいを引き受け、私たちを富ませ、きよめ、あがなうためにこそ、主は飼い葉おけにまで来たりたもうたのである。」

民数記 18章

「そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。」(1節)

大祭司は、聖所に関わるすべての責任を負わなければなりませんでした。私たちの大祭司はイエス・キリストだと聖書は言います。

「大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(ヘブル3:1)

イエス・キリストは私たちの責任を負ってあの十字架の上で死んでくださいました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ53:4)

イエス様はまた、教会の責任をも負っておられます。

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1:22)

イエス・キリストが教会に関わるすべての責任を負っておられることを覚えることは、私たちの力になります。

民数記 17章

「その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。」(8節)

16章でモーセとアロンのリーダーシップがチャレンジされます。

「でしゃばるのはいいかげんにしてほしい。お二人の説教はもうたくさんだ。たいした人物でもないくせに。おれたちだって、神様に選ばれた者じゃないか。神様はおれたちみんなの神様だ。お二人だけが特別に偉いのだろうか。そんなに威張りくさる権利がどこにあるんだっ。」(16:3LB)

今日の箇所で、神は、アロンが神から立てられた器である事の証明として、アロンの杖から、芽が出、つぼみをだし、花をつけ、アーモンドの実を結ばせました。神の民を導くために神が指導者を立てられます。誰が指導者になるべきか自分が一番よく知っていると傲慢にならずに、謙遜に歩むことができますように。今日は主の日。主を第一にしましょう。

民数記 15章

「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。」(38-40節)

新約聖書に十二年間長血をわずらっている女性の話が出てきます。彼女はイエス様の「着物のふさにさわった」(マタイ9:20)と聖書は言いますが、彼女がさわったふさとは今日の箇所で神を思い起こすためにつけるように命じられたふさでした。彼女は単に衣のふさに触ったというわけではなく、自分勝手にやりたいことをやることをやめ、生ける神を思い起こし従う決心が込められていました。

民数記 16章

「モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。」(28節)

コラたちはモーセとアロンとに逆らいました。ねたみがその理由だったと思われます。実際、彼らはモーセたちをこう責めました。

「でしゃばるのもいいかげんにしてほしい。お二人の説教はもうたくさんだ。たいした人物でもないくせに。おれたちだって、神様に選ばれたものじゃないか。神様はおれたちみんなの神様だ。」(3節LB)

プロテスタント教会の特徴の一つは万人祭司主義です。これは、誰でも神にイエス様のみ名によって直接祈れるということです。しかし、時として万人牧師と誤解してしまうことがあります。教会の頭であるキリストは各々の教会に教職者という霊的な指導者を与えられていることを尊重することは大切なことです。

民数記 14章

「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」(11節)

約束の地を前にして、神に信頼しようとせずに「エジプトに帰る」と叫ぶ民に神は言いました。

「この者たちはいつまでわたしをばかにするのか。あれだけ奇蹟を見ても、まだわたしを信じないのか。」(11節LB)

民主主義の危険な側面は、多数の意見が必ずしも正しいとは限らないということです。偵察に行った一二人のうち、カレブとヨシュアだけが信仰の目をもって「できる」と主張しました。しかし、この世的な目をもって「無理だ」と主張した多数派に負け、イスラエルの人々は神に打たれ滅ぼされる危機に瀕します。結果、多数派の一〇人は神に罰せられました。

「人々を不安にし、神様に背くようにそそのかした十人のスパイが、まず神様に罰せられて死にました。」(36,37節LB)

民数記 13章

「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。』しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。『私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。』彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。『私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。」(30‐32節)

偵察に行った12人のうち、10人は約束の地を悪く言いました。彼らは自分たちよりも強い人たちがいるから無理だと言いました。神の約束を忘れ、ただ、自分たちの状況しか見えていませんでした。しかし、カレブは違いました。彼は神が約束したから、神が共にいるから「大丈夫、やれば必ずできる。」(30節LB)と言いました。カレブは神の栄光を見ました。私たちは信仰が求められています。

民数記 12章

「彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(2,3節)

神はすべての人に語られています。しかし、神は牧師、伝道師、宣教師と言った教職者を特に用いて語られています。教職者はモーセのように、謙遜であるべきで、自分を宣伝するべきではありません。だから聖書が言います。

「与えられた仕事を忠実に果たしている牧師は、それに見合う報酬を受け、心から尊敬されるべきです。説教と教育の両方に熱心に励んでいる牧師の場合は、特にそうでなければなりません。」(Ⅰテモテ5:17LB)

私たちは、教会のサイズ(たとえどんなに小さな教会でも)や教団教派の区別なく(自分の所属教会でなくても)、神に忠実に仕えている教職者たちに対して尊敬心をもつことは大切なことです。

民数記 11章

「主はモーセに答えられた。『主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』」(23節)

イスラエルの民は荒野で、マナと言う特別な食べ物で神に養ってもらっていたのに、肉が食べたいと不平を言い出しました。すると神は、一ヶ月間、食べ飽きるほどの肉を与えることを約束しました。しかし、それはモーセにとっては驚くような内容でした。なぜなら、彼らがもっていた家畜ではまかなうことができないほどの人数がイスラエルにいたからです。そんなモーセに神は言いました。

「黙れっ!いつからわたしはそんなに弱くなったのか。わたしの言うことが本当かどうか、今にわかる。」(23節LB)

聖書の神は全能の神です。神に不可能なことは一つもありません。人に出来ないことも、神に出来ないことはありません。