pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

申命記 4章

「そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。」(29節)

せっかくキリストを信じても、キリストから離れて悪魔の領地に再び捕らえられてしまう人がいます。チャック・スミス牧師は、「あなたがキリスト以外の願い、抱負、もしくは、あなたの心や人生にキリスト以外のものに優先順位の一番を譲ってしまう時、信仰から離れてしまう」と言います。すべてにおいて神を第一とする必要があります。神の場所に何かを置く時、人はキリストから離れてしまいます。しかし、まだ望みはあります。もう一度、心を尽くし、精神を尽くし、キリストを慕い求めるならば、キリストに会うことができます。神様はあわれみ深いお方であり、もう一度、あなたの人生に働いてくださいます。あなたを捨てず、滅ぼさず、忘れません。イエス・キリストを自分の心の王座に歓迎しましょう。

申命記 3章

「ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。」(27節)

榎本保郎師はこう記しています。

「モーセは神の強引な召しによって、その所から召し出され、四〇年の荒野の旅を経て今やっと神の約束の地を眼前に見るところまでたどりついたのである。その間、外からの敵、内からの反逆に襲われ、飢え、渇き、疫病に悩まされたにもかかわらず、彼は天の助けを得てやっとここに立つことができたのである。この彼が最後の願いとしてカナンの地に立たせてくださることを主に願ったのである。しかし、主はその祈りを聞きたまわなかった。主は彼に向かって『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない』と言われた。(中略)私たちは主から禁じられるまで祈ったことがあるだろうか。そこまで祈った人だけが、祈りの喜びを味わうことがゆるされるのである。」

主は祈りの世界に上るよう命じてます。

申命記 2章

「事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」(7節)

神はイスラエルの民に言いました。

「全くこの40年間、わたしが守り、祝福してやったからこそ、おまえたちは果てしもない荒野をさまよいながら、何不自由なく過ごせたのだ。」(7節LB)

荒野の40年間を総括した時、「何一つ欠けたものはなかった。」「何不自由なく過ごせた」とイスラエルの民は告白することができました。震災の時、原発のため故郷を追われ、避難生活を続けておられた福島の佐藤彰先生が、以前そのように証されていました。私たちはどうでしょうか?様々な試練や苦難の人生を総括した時に、「何一つ欠けたものはなかった。」「何不自由なく過ごせた」と告白することができるでしょうか?
今日は主の日。まず、主に礼拝を捧げましょう。

申命記 1章

「主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」(33節)

神がイスラエルの人々が滞在するのに最適な場所を先に立っていって捜され、導かれたとモーセは言います。神は私たちの人生の旅路においても同じようにされます。前もって私たちのために私たちにとって最適な場所を捜し、私たちの前を行かれ、そこに導いてくださいます。それだけではなく、私たちがその場所で生きていくために、私たち自身をも準備してくださいます。私たちが今おかれている場所、また状況は、神が私たちを最高の場所に導くために必要だからこそだということです。その道程にある荒野はつらいところです。しかし、夜は火のうちにあって私たちを温め、光を与え、昼は雲のうちに暑さを和らげ、みことばをもって道を示してくださいます。

民数記 36章

「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」(13節)

エリコに近いヨルダンのほとりというのは、約束の地に入る直前と言うことです。イスラエルの民が約束の地で気ままに生きて自滅していかないように、命令と定めを与えたと言います。神は私たちを愛し、私たちの人生を気にかけておられるお方ですから、私たちに命令と定めを与えてくださいます。人は残念ながら自分の思い通り、気ままに生きようとすると、破滅に向かってしまいます。もちろん神は私たちの自由意志は尊重してくださいます。しかし、私たちが豊かな人生を生きることができるように聖書を与えてくださっています。私たちは神が望んでおられること、神が命じられていることを聖書に尋ね求めることができます。聖書の中に豊かな人生の秘訣があります。

民数記 35章

「あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」(34節)

神はご自身が人々の真中に臨在するから、

「こんなことで汚したりしないよう、くれぐれも注意しなさい」(LB)

と言われました。教会もイエス様が真中にご臨在されている所です。ですから、私たちは不満や批判をぶつけ合って、キリストの教会を汚さないように気をつけることが大切です。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

初代教会の時代から、不満を抱くようなことがあったのだと思います。しかし、イエス様のゆえに赦し合うことが求められています。

「何よりも大切なことは、愛にあふれて生きることです。」(同14節LB)

民数記 34章

「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」(2節)

イスラエルの人たちはまだ、約束の地に入っていませんでしたが、神は境界線を引くように命じました。グローバル化の流れの中で、境界線という概念は否定的にとられやすいものだと思いますが、聖書的には大切な概念でもあります。境界線を引くことは、私たちの人生のためにも必要なことです。もし、境界線を引かずに生きようとしますと、周囲の人に操られてしまいます。聖書は言います。

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(使徒17:26)

すべてに時があり、自分が関わることができる範囲があります。ですから、周りに合わせるのではなく、神のみこころを求め、祈りつつ歩むことが大事になります。

民数記 33章

「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。」(2節)

33章には、「何々から旅立って何々に宿営した」という記録が3節から49節まで続きます。なぜ、神様はそんなことをいちいち記録するようにモーセに命じたのでしょうか。

第一に、この記録は私たちに神様が私たちの人生の全旅程をご存知であるということを伝えています。

そして第二に、この記録は、神様が必ず導いてくださるということを私たちに伝えています。神様は私たちの人生の全旅程をご存知であり、どこに宿営するかもご存知です。そして、どこに導くかもご存知です。神様は必ず私たちを約束の地に導き入れてくださいます。

ですから、たとえ理解できなくても、日々、すべてをご存知な神様に信頼し、ついていこうではないでしょうか。

民数記 32章

「また彼らは言った。『もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。』」(5節)

ガド族とルベン族は、ヨルダン川を渡る前の土地で十分だと言い、自分たちは約束の地を所有地としてはいらないと言いました。解釈が難しいところですが、彼らの主張は、肯定的ではないように思えます。神のご計画は将来と希望を与えるためのものですが、そのためには乗り越えなければならない試練があります。その手前で満足して、前進することをあきらめる誘惑の問題です。使徒パウロもこう言います。

「愛する皆さん。私は、まだその目標に達してはいません。ただこの一事に、全力を注いでいます。すなわち、過去に執着せず、前にあるものを望み見、ゴールに到着してほうびを得るために、一生懸命努力しているのです。」(ピリピ3:13,14LB)

民数記 31章

「モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念とした。」(54節)

旧約聖書の戦いに関する記事は難解です。新約聖書では

「戦う相手は、血や肉をもった人間ではなく、肉体のない者たちです。」(エペソ6:12LB)

とありますので、人間対人間の聖戦は、聖書のメッセージではありません。ミデヤン人は先の25章では、誘惑の象徴として出てきています。ですから、ここでは誘惑との戦いとして理解することができると思います。生きている限り、私たちは様々な戦いがあります。その戦いを乗り越えられたことを記念して捧げることは、意味があることだと思います。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ささげ物は、神の天幕に運び、戦勝の記念として、たいせつに保存することになりました。」

今日はイエス様が死に勝利して復活されたイースターです。