作成者アーカイブ: pastoreiji
1歴代誌 28章
「それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから――。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。」(20節)
「恐れてはならない」とダビデが言ったのは、ソロモンが恐れていたからだと思われます。どんな人でも指導的な立場を受け継ぐことには恐れが伴うものだと思います。ダビデは根拠なく言ったわけではありません。彼はその根拠を、こう言っています。
「神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから」。
全知全能の神が共にいるから、恐れる必要はないと言ったのです。神様は私たちを見放さず、見捨てず、完成させてくださるお方です。だから使徒パウロは言いました。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)
1歴代誌 27章
「ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」(23節)
当時の人口調査の理由は、兵士の数を数えるためです。ですから神様が人口調査を禁じた理由は、イスラエルの人々がマン・パワーに依存して、神様に頼らなくなることを危惧したからです。残念ながら、人は計算できる範囲内に生きていると、祈りがなおざりになっていく傾向があります。計算できますから、祈っても祈らなくても同じに見えてしまうのです。しかし、自分の頭で計算できない時、私たちは必死で祈ります。祈ることしかできないからです。いつも自分の計算できる範囲内に自分を置くならば、安定はするかもしれませんが、祈りがなおざりになって、霊的な部分が弱くなっていきます。計算することがすべて悪いわけではありません。しかし、計算することができない信仰の冒険の世界に挑戦する姿勢も大事です。
1歴代誌 26章
「このシェロミテと彼の兄弟たちは、ダビデ王と一族のかしらたち、および、千人隊の長、百人隊の長たち、将軍たちが聖別してささげた聖なるささげ物のすべての宝物倉をつかさどった。」(26節)
シェロミテと彼の兄弟たちは聖なる会計係りでした。ダビデ王や将軍など、国民の指導者が神様に捧げた物を管理する役でした。また、
「預言者サムエル、キシュの子サウル、ネルの子アブネル、ツェルヤの子ヨアブのささげ物、そのほかの著名人のささげ物を管理する責任がありました。」(28節LB)
コリント人への手紙第一にこういう箇所があります。
「私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」(4:1,2)
「忠実とは、それをゆだねた方の意志を尊び、それを生かすということである。しかし、それはただ失われないように保存するということではない。」
とちいろば先生が言うように、神の恵みを生かしていけますように。
今日は主の日、主に礼拝を捧げましょう。
1歴代誌 25章
「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。」(1節)
賛美しながら預言するということが、ダビデの時代に行われていたことは明らかです。それはつまり、賛美の中で神が語られるということを意味しています。立琴と十弦の琴とシンバル(ドラム?)とありますから、騒がしい音楽の中で神が語られたことが分かります。賛美の歌には二つの種類があります。神に直接歌う「垂直」の賛美と、預言的な神の言葉を人々に語る「水平」の賛美です。昔からこの両面が大切にされてきたことを心に留めることは大事なことだと思います。賛美を歌う時、神に直接歌うのですが、賛美の歌を通して神が語られることがあります。ですから礼拝の中で賛美の時間と言うのは大事な時間なのです。
1歴代誌 24章
「ナダブとアビフはその父に先立って死に、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めについた。」(2節)
ナダブとアビフに関しては、レビ記10章にこう記されています。
「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」(1,2節)
彼らは「異なった火」を捧げたために、先立って死んでしまったと言います。神から与えられた祭壇の火を用いる必要があったのにも関わらず、彼らは「異なった火」を捧げたのです。これは主に仕える者の襟を正します。
「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)
教職は、恐れをもって、主が与えられた聖書を教えています。
1歴代誌 23章
「立って朝ごとに主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。」(30節)
信仰生活の中において神に賛美を捧げることはとても大切なことです。賛美を捧げるは日曜日の礼拝だけの話ではありません。「朝ごとに」、「夕べにも」とあるように、日常的に賛美を捧げることを聖書は命じています。日常には、賛美を捧げるような気分ではない時もあります。しかし、賛美を捧げることに私たちの気分は関係ありません。神が賛美を受けるのにふさわしいお方だから、私たちは神に賛美を捧げます。賛美のCDを日常的にかけることによって、賛美を捧げる時間を確保する方法もあります。歌う気分になれなくても、賛美のCDを聴きながら、いつのまにかに賛美の世界に引き上げられることもあります。賛美には不思議な力があります。神が賛美を住まいとされると言われていることを心に留めたいと思います。
1歴代誌 22章
「見なさい。私は困難な中にも主の家のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した。また、青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。それに、木材と石材も用意した。あなたが、これらにもっと加えてほしい。」(14節)
ダビデは何の問題もなく神殿建築のための資金を用意したわけではありません。「困難な中にも」と言います。マケドニヤにあるピリピの教会も、「困難な中にも」主のために捧げた教会です。パウロは言います。
「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(Ⅱコリント8:2)
そんなピリピの教会に、神は一つの約束を与えられました。
「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
「そこまでしなくても」という世界に、主は必ず報いてくださいます。
1歴代誌 21章
「しかし、ダビデ王はオルナンに言った。『いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。』」(24節)
ダビデは王でしたが、祭壇を建てるためにオルナンから土地を搾取することはしませんでした。さらにオルナンから「すべてを差し上げます。」と言われたのにも関わらず、ダビデは自分が十分な金額を支払って買いたいと主張しました。オルナンから買わなければ、それはダビデの捧げ物ではなく、オルナンの捧げ物になるからだと言いました。このダビデの姿勢は神への捧げ物に関して私たちに大切なことを伝えていると思います。ダビデは神に捧げ物をすることを特権だと考えていたことは確かです。ダビデは神から何かを得ることよりも、神に捧げることに心を留めていました。
1歴代誌 20章
「彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。」(7節)
現代における旧約聖書解釈の難しい点は、今日の箇所のような血なまぐさい箇所です。人の命が軽視されているように感じてしまいます。当時の歴史的文脈もありますが、旧約聖書は旧約だという理解も大切です。「旧」が意味することは「古い」ということで、つまり「新約」からの理解が必要ということです。新約聖書にはこう書いてあります。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)。
私たちをそしっているのは、人ではなく、悪魔、悪霊です。私たちは敵を間違えてはいけません。聖書は注意します。
「もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」(ガラ5:15LB)