pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

エゼキエル 9章

「主は彼にこう仰せられた。『町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。』」(4節)

神は裁きを下される前に、エルサレムで行われるすべての罪悪のために泣き悲しむ者の額にしるしをつけられたと言います。これはまた、当時流行していた価値観ではなく、変わらない聖書の価値観に生きる人を指しているとも言えます。時代や文化の変化と共に、移ろいやすい価値観、道徳があります。しかし、聖書の価値観、道徳は、時代を超えて、何千年間も変わらずに、文化を超えて揺るがずに存在しています。そして、その時代の流行の価値観に流されない人々に、確実に祝福を最終的にもたらしています。しるしを付けられた人たちは守られました。どんな時も、聖書を自分の信仰と生活の唯一の規範として選択できますように。

エゼキエル 8章

「この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている。」(12節)

当時のイスラエルの指導者たちは、

「主は私たちを見ておられない」

と、人々を偶像礼拝へと導いていました。しかし神はエゼキエルに、神がしっかり見ておられることを示しました。私たちの神は見ておられる神です。17節を見ますと、神の心が引き裂かれていることを感じます。

「見たか。こんなひどい罪を犯して、国全体を偶像礼拝に導き、わたしを鼻であしらって・・・」(LB)

神が見捨てたわけではありません。人々が、神を見捨てて、偶像礼拝に落ちていってしまったのです。問題の中で、私たちはどこに助けを求めているでしょうか。神は、私たちが他の何かではなく、神ご自身を求めることを待っておられます。

エゼキエル 7章

「わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしがあなたがたを打っている主であることを知ろう。」(9節)

聖書の中で神の名前は、色々な表現で出てきます。創世記22章では、

「アドナイ・イルエ」(14節)「備え主」。

エレミヤ23章では、

「主は私たちの正義」。

さらに士師記においては、

「アドナイ・シャローム」(6:24)「平和の主」。

今日のエゼキエル書の箇所では、

「あなたがたを打つ主」

として記されています。「あなたがたを打つ主」というのは、あまり嬉しくない表現です。しかし、正義の神は罪を打たないわけにはいきません。ですから、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、あの十字架で打たれました。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

エゼキエル 6章

「彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」」(10節)

新共同訳ではこう訳しています。

「そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」

私たちの人生に、理由もなく問題が起こることはないと聖書は言います。私たちには理解できないことが多々ありますが、私たちの人生に起こる一つ一つの出来事に、意味があると聖書は言います。ヨセフは、彼を奴隷として売った兄たちに、こんなことを言います。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)

私たちの人生に理由もなく、また、神の許可なく何も起こらないということを受け止められますように。

エゼキエル 5章

「わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。」(13節)

神は私たちに熱心に語られているお方です。問題や試練にぶつからないと、なかなか私たちは気がつかない傾向がありますが、神は確かに私たちに熱心に語られています。試練の中で真剣に祈りつつ、聖書を読む中で、聖書のことばが生き生きと私たちの心に突き刺す時、私たちは確かに熱心に神が語られていることに気がつきます。だからといって、試練の時でなければ神は熱心に語られていないというわけではありません。祈りつつ、聖書に向き合っているならば、神が日々、熱心に語られていることに気がつくはずです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げ、熱心に語られている神のみことばに耳を傾けましょう!

エゼキエル 4章

「それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。」(7節)

LBでは最初の部分をこのように訳しています。

「エルサレムの包囲の様子を実演して見せるのだ。」

エゼキエルの預言の特徴は視覚に訴えるものでした。映像を言語化することが難しいように、エゼキエル書は難解です。プロテスタント教会は、神のメッセージを視覚化することに否定的でした。そのため、カトッリク教会で発展した美術なども、否定的に受け止めてきました。しかし、今日の箇所を素直に受け止めるならば、神のメッセージを伝えるために、視覚に訴えるもの、絵画や映像などのメディヤも積極的に活用していくことは、実は聖書的だと言えるのだと思います。福音を提示していくために、私たちはもっと創造的(クリエイティブ)であるべきです。考えてみると私たちはすでに今、十字架という映像を掲げています。

エゼキエル 3章

「その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」(4節)

キリスト教会の説教者は、

「わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」

という使命があります。いわゆる「いい話」を語ることが重要なのではなく、

「聖書の語っている通りに語る」

ことが命じられています。「聖書の語っている通りに」というのは表面的に書いてあることを語ればいいという意味ではありません。なぜなら私たちは皆、自分が理解できる枠組みの中で解釈する傾向があるからです。それで、文字通りと言いながら、自己流の解釈が起こります。「わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」という使命に生きるためには、その聖書のみことばの文脈を意識する必要があります。また、まことの著者である聖霊なる神様が意図していることを誤解しないために全体像を把握する必要があります。

エゼキエル 2章

「人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」(8節)

神が語られることを聞く姿勢はとても大事なことです。ここでは、聖書のみことばを聞き受け止めることが、食べる行為として表現されています。

「わたしがあなたに与えるものを食べよ。」

とあるように、聖書のみことばは神が私たちに与えるものです。私たちはこの聖書のみことばを、口を大きく開いて、日々食べようではないでしょうか。

「私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ」(3:2)

とありますように、私たちは口を開く、すなわち心を開いて聖書を読む必要があります。信仰は聞くことから始まります。聖書は言います。

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサム15:22)

エゼキエル 1章

「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」(28節)

預言者エゼキエルは主の栄光を見、主の声を聞きました。それは、使徒パウロも体験したことでした。

「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。」(使徒9:3,4)

エゼキエル書は主の栄光が神殿から離れ、再び戻ってくるということが預言されている書です。パウロの時代のユダヤ人たちは主の栄光はまだ戻ってきていないと考えていました。当然、パウロは尋ねます。

「主よ。あなたはどなたですか。」

すると、

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)

とお答えがありました。

イエス・キリストこそ生ける神の神殿、主の栄光です。

テトス 3章

「また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。」(2節)

聖書には明確にキリスト教会に集う人たちのあるべき態度を次のように教えています。

「人の悪口を言ったり、けんかをしたりせず、やさしい態度で、すべての人に礼儀正しく接するように教えなさい。」(LB)

意見の相違は避けられませんが、礼儀正しく接することはできます。イエス様も言われました。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35新共同訳)

しかし残念ながら教会の歴史を見ると争いがありました。私たちはあきらめずに、聖書のみことばに立ち返る必要があります。

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エペソ4:32)