pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

マタイ24:1-31

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(4,5節)

「自分こそ再来のメシア(キリスト)だ」と自称する人は、すべて偽りです。イエス様は明確に、自称メシアに惑わされないように気を付けるように警告しました。二世紀に、自分こそユダヤ民族を救うメシアだと自称したバル・コクバに惑わされた人々は第二次ユダヤ戦争を起こしました。その結果、エルサレムは完全に廃墟となりました。ユダヤ人はエルサレムに入ることも禁じられました。また、時のローマ皇帝によってユダヤの名称は廃され、現代まで続くパレスチナとなりました。

『私こそキリストだ。』と言う人に惑わされてはいけません。

たらこについての微考察

わたしはたらこが大好きです。
もともと両親が九州出身ということもあり、辛子明太子が親せきから送られてくることも多かったので普通よりは魚卵が食卓に上る回数が多かったのではと思うのですが、炊き立てのご飯とたらこがあれば他は何もいらないと思うほど好きです。昨晩、そんなたらこを白米にのせて食べながらふと思いました。最初にたらこを塩漬けにしようと思ったのは誰なんだろう?魚卵は世界中に様々な保存方法を発展させて食されています。調べたところ、日本では江戸時代前期にはたらこに酢をかけて食していたとのこと。とにもかくにも先人たちに感謝です。神様から豊かな知恵と食への欲求を与えられ、今日のさまざまな料理があるのですね。私たちを喜ばせ、楽しませてくださる神様に与えられた今日という日を喜びと感謝をもって過ごしていきたいものです。
(小山晶子牧師婦人)

マタイ23:1-39

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(11節)

8節で「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。」の「先生」と訳された単語は「ラビ」です。ユダヤ人の教師に対する尊称です。ヘブル語の語源は「私の偉大な者」(私の偉い人)です。ですからイエス様は、「偉大な者」(偉い人)と呼ばれてはいけませんと言われたのです。そうすると十一節でイエス様がどうしてこう言われたかが分かります。もちろん、ここでイエス様が注意しているのは地位争いです。残念ながら教会の歴史を振り返る時に、イエス様のこの忠告を見て見ぬふりをしてきた感があります。キリスト教会に偉い人はイエス・キリストだけです。みなキリストにある兄弟姉妹です。私たちにとって権威ある教えは、キリストの教えだけです。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ22:15-46

「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(32節)

「神はかつてアブラハムの神だった」とは聖書は言いません。「アブラハムの神」と言うように、アブラハムの存在は消滅していません。つまり、アブラハムのいのちは今も神の御手の中にあり、やがて復活することが前提となっています。この信仰に生きる時、私たちのこの地上での生き方は自然と変化します。リック・ウォーレン師はこう言います。

「永遠を意識するようになると、価値観が一変します。時間やお金を賢く使うようになり、名声や富、業績やファッション、はやりの考え方などは、もはやどうでもよいものになるでしょう。」「重要だと思っていた多くの活動、目標、そして頭を悩ます問題でさえ、取るに足りない、小さなことに思えてくるかもしれません。神に近づけば近づくほど、すべてのことは小さく見えてくるものなのです。」

マタイ21:33-22:14

「だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」(22:9)

神はすべての人を招かれています。私たちは大通りに行って、出会った者をみな招くように遣わされています。しかし、招かれた者はそのままで良いとは言いません。「礼服」を着ることが条件とされています。聖書は言います。

「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ61:10)

つまり、礼服とは神が私たちに着せてくださる救いの衣のことです。誰でも着ることができるように、イエス・キリストがカルバリの十字架で用意してくださった衣のことです。「礼服」を着るとは、イエス・キリストを自分の救い主、主として信じ、受け入れることです。

マタイ21:18-32

「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(32節)

イエス様のユダヤ教指導者に対する言葉は辛辣です。ユダヤ教指導者たちは、ユダヤ教的敬虔さから締め出された取税人や遊女たちに劣るとイエス様は言いました。なぜなら、神のみこころを実際に行ったのは、律法を遵守していると自負していたユダヤ教指導者たちではなく、彼らが軽蔑していた人たちだったからです。バプテスマのヨハネの言葉を聞きながらも、ユダヤ教指導者たちは思い直すこともせず、拒否しました。その結果、彼らが見下していた人たちよりも劣る者となってしまったと言います。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)

マタイ21:1-17

「そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」(13,14節)

今日の箇所は「宮清め」と呼ばれます。パリサイ口伝律法は、盲人や足の不自由な人が神殿に立ち入ることを禁止していました。宮の中で売り買いしていた理由の一つは、身体障がい者が宮の中に入ってくることを妨げるためだったと思われます。事実、イエス様が宮の中で売り買いする者たちをみな追い出した時、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがイエス様のみもとにくることが出来、いやしを受けることができました。ダビデの子、メシヤは、神のみこころはすべての人が神の恵みの座に来て、祈り、いやしを受けることであることを示されました。

マタイ20:20-34

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(28節)

イエス・キリストの十字架の死には様々な意味が込められています。一つは、私たちの罪の身代わりとして、贖いの代価として死なれたということです。罪の報酬である死は、キリストの十字架によって支払われました。ですから、今、誰でもイエス・キリストを信じるだけで救われます。イエス様はまた、私たちのために死なれたのは、私たちに対する究極的なお手本でもあると言いました。神の御国の秩序は、仕える者になることによってもたらされます。神の御国では、権力や能力ではなく、仕える姿勢が優先されることを十字架は示します。仕えられるためではなく、仕えるために、私たちはこの地上に生かされています。

マタイ20:1-19

「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」(15節)

ぶどう園の日雇い労働者のたとえのポイントは、労働時間に応じて賃金を支払わないぶどう園の主人が

「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」

と問うところにあります。神様の寛大な恵みに気づくか、それとも業績重視の人間的見方に縛られて、神の主権までも犯そうとするのかという問いがあります。賃金は最後に来た者たちから支払われます。無意識に最初に来た者たちは最後に来た者たちを軽んじていたために、同じ扱いを受けたことに不満をもらします。

「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。」(12節)

イエス様の言葉が響いてきます。

「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。」(18:10新改訳二〇一七)

マタイ19:16-30

「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」」(19:26)

ひとりの富める青年がイエス様に尋ねました。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(16節)

イエス様は答えます。

「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」(17節)

イエス様が言いたかったことは、イエス様に従うことによってのみ、その戒めを守って本当に生きる道を知ることができると言うことです。しかし、彼は自分の力で財産を築いたという思いが強すぎて、神の恵みによって今があるという認識を受け入れることができず、悲しみながら立ち去りました。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(1コリント15:10新改訳2017)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

本日はギデオン・サンデー。聖書を配布するギデオン聖書協会の働きを覚えます。