pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ 22:63-23:25

「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」(23:23)

イエス・キリストの十字架は、多数決によって決められました。ローマ帝国の権威をもってエルサレムの地域を治めていたピラトは、イエス・キリストに罪を認めず、釈放しようとしました。しかし、群集の声に彼は負けたのです。私たちは民主主義を美化しすぎて、その弱点を忘れないように気をつける必要があります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」という側面が民主主義にあります。多数がいつも正しいとは限りません。少数意見の方が正しいこともあります。私たちはマス・メディアによって作り出される多数派の意見に振り回されるのではなく、神の御言葉を優先するように気をつける必要があります。残念ながら教会の歴史は人間の主張が勝ち、混乱してきました。教会が人間の声ではなく、神の声が勝つ場所となりますようにお祈りください。

ルカ 22:39-62

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(42節)

イエス様は十字架にかかられる直前、ゲッセマネの園で祈られました。もし十字架以外に人が救われる方法があるならば、それに変更してくださいと。しかし、他に方法はありませんでした。使徒パウロは言います。

「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。」(ガラテヤ5:11)

十字架のつまずきは、十字架以外に救いの道はないということです。人は、自分のやり方でも救われるはずだと考えたいのです。他にも方法があると考えたいのです。しかし、他にも方法があるのならば、神の御子が十字架で苦しみ死ぬ必要はありませんでした。十字架だけが神のもとに行くことができる道です。

ルカ 22:1-38

「イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。」(22:10)

水がめを運んでいる男は、別に、天使が現れて水がめを運ぶように命じられたわけではないと思います。いつものように、自分が与えられた仕事を忠実に行っていただけだと思います。興味深いことは、神がそんな日常の仕事を用いられたということです。水がめを運んでいた人は、そんなことを意識さえしていなかったと思います。神は、私たちが行っている日常の仕事をも用いて神の栄光を現わされます。私たちが今日行う一挙手一投足が、神の栄光のために用いられるかもしれません。そのことを意識して、今日一日、与えられた仕事を誠実に行っていこうではないでしょうか。

リラ新CD発売!

リラ通算10枚目となる新しいアルバムCDが完成しました。帯には『グループ結成から25年。その歩みを振り返り、もう一度メンバー一人一人の思いを込めて今なお歌い継がれている初期の楽曲を中心に全曲再収録した記念アルバム』ひえー!25年!!びっくりです。そんなに時間がたったなんて。今回、最初期の曲を録り直す中で何度も泣きそうになりました。苦しかった時、孤独だと思っていた時、居場所がないと感じていた時、イエス様はいつもともにいてくださったことを改めて感じたからです。『この道は一つ』という私自身大好きな曲も収録されているのですが、あの頃の私と同じ歳になった息子がバイオリンでこの曲をCDの中で奏でていることが何とも不思議な感覚で、聴きながら泣けてきてしまいました。神様の変わらない真実の愛の中で私たちが生かされていて、主に信頼する者は決して失望させられることがないことをこのアルバムを通して多くの方々に感じていただけることを祈っています。栄光在主。(小山晶子牧師婦人)

ルカ 21:5-38

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(21:34)

日々の生活の中で、イエス様を見失う時、私たちの心はこの世の煩いのために沈み込んでしまうということがあると思います。イエス様から目を離してしまう時、生活の思い煩いで押しつぶされている自分を見ることがあると思います。そんな時に、突然、携挙は起こると言います。それでイエス様は忠告します。

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(36節)

その日が、いつ起こっても良いように、私たちはいつも目を覚まして祈る姿勢が必要です。思い煩いを主に委ねて、祈り続ける姿勢が必要です。
今日は主の日。目を覚まして、共に、主に礼拝を捧げましょう!

ルカ 20:27-21:4

「また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。」(21:2)

イエス様は

「献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた」(1節・新改訳2017)

とあります。献金はしてもしなくてもいいものではありません。私たちが捧げる姿をイエス様は見ておられます。レプタ銅貨は、最小単位の銅貨で一日分の労賃の一二八分の一に相当します。(レプタ銅貨二枚は128円ぐらい?) ちいろば先生はこんなことを言っています。

「献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくる感謝でなければならない。(中略)この寡婦の献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰の告白であったから尊い。」

「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

とおっしゃられる主は、私たちの信仰をご覧になっています。

ルカ 19:45-20:26

「こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」(46節)

これはエルサレム神殿の異邦人の庭と呼ばれる場所が舞台です。もともと異邦人の庭は、神殿に入ることのできない外国人が礼拝を捧げるための場として設けられていましたが、当時この場所では神殿に捧げるものが簡単に用意できるようにと、祭司主導で商売が行われ、とても外国人が礼拝できるような状況ではありませんでした。もっとも、それは商業的な理由と言うよりも国粋主義的な理由がありました。実は、「強盗」と訳された単語も「革命ゲリラ」という意味があり、イエス様のポイントが民族主義だったことを垣間見ることができます。祭司たちは外国人が神殿に来て祈れないようにしたのです。イエス様が引用されたイザヤ書には明確にこう記されています。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(56:7)

ルカ 19:11-44

「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(44節)

イエス様はエルサレムが滅びることを預言しました。事実、七〇年にエルサレムはローマ軍によって滅ぼされます。その原因は、人々が

「神の訪れの時を知らなかったからだ」

と言います。どうして、人々は神の訪れの時を認識できなかったのでしょうか?それは、彼らの期待していたものと違ったからです。彼らが描いていたメシア像は、ダビデのように軍事的にローマ(異邦人)の支配からイスラエルを解放してくれる救い主でした。しかし、イエス様は私たちの罪のために十字架にかかることによって、罪と死の力から解放する救い主でした。イエス様は武力による解放ではなく、愛による解放を説きました。敵に復讐するのではなく、愛するように説きました。憎しみに囚われているならば、神の訪れの時を認識することはできません。イエス・キリストにある解放を体験することができますように。

ルカ 18:31-19:10

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(19:10)

エリコの町の人は皆、ザアカイを嫌っていました。なぜなら、

「彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」(2節)

からです。取税人は、ユダヤ人のためではなく、ヘロデ王かローマ帝国のために税金を集めていたので、嫌われていました。取税人たちは、徴収する税金を割り増しして利益を得ていたので、ザアカイが金持ちであることに不快感を覚えていました。しかし、イエス様はそんなザアカイに声をかけました。

「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」(6節)

イエス様を自分の人生の主として歓迎する人の人生は変えられます。イエス様第一とする時、人生の優先順位は変えられます。本当の救いは、王なるイエス様を歓迎することから始まります。イエス様の使命は、ただ苦しみ、十字架で死ぬだけではなく、そのことを通して、失われた人を捜して救うことです。

ルカ 18:1-30

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」(18:1)

イエス様が弟子たちに教えたことの一つは、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことでした。あきらめずに祈り続けることを教えたのはイエス様でした。ヘブル書にもこう記されています。

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救いだすことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7新改訳2017)

もっとも、聞きいれられた究極的な祈りとは、

「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)

という祈りのことかと思います。あきらめずに祈り続ける中で、私たちの祈りの方が変えられることがあります。失望せずに祈り続けることによって、聖霊なる神様が私たちの心に働いてくださいます。ですから、祈り続ける必要があります。