ヨハネ 12:37-50

「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」(12:50)

父なる神の命令は永遠のいのちで、イエス様も、同じように「永遠のいのち」を話していると言います。

それは、また、イエス・キリストを信じる者たちもまた、同じように「永遠のいのち」を話すようにということです。

私たちは人々に、「永遠のいのちの言葉」、「来るべき時代の言葉」、「信仰の言葉」を語っているでしょうか。

父なる神の命令は「永遠のいのち」です。

主は私たちに「永遠のいのちのことば」、「来るべき時代の言葉」、「信仰のことば」を、誰かに語って欲しいと願っています。

人は、「永遠のいのちのことば」、「来るべき時代の言葉」、「信仰のことば」を聞く必要があります。

「永遠のいのちのことば」、「来るべき時代の言葉」、「信仰のことば」を、誰かに語ることができますように。

ヨハネ 12:20-36

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)

イエス様のポイントは明確です。

新しい命を他の人に与える前に、イエス様の命を犠牲にする必要があったということです。

この24節の原則は、広く適用できることをイエス様は告げています。

25節をメッセージ訳では、このように訳しています。

「同じように、ただ、命にしがみついている人は、その命を滅ぼします。しかし、もしあなたが無謀な愛で命を手放すなら、あなたは永遠に、本物の、そして永遠の命を手に入れることができます。」

イエス様の十字架の死は「無謀な愛」(reckless love)でした。

驚くことは、イエス様は私たちに「同じように」「無謀な愛」に生きるようにと語っていることです。

自己保身の生き方ではなく、「無謀な愛」に生きるなら、「本物の、そして永遠の命を手に入れることができます」と言います。

ヨハネ 12:12-19

「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(12:15)

この箇所はゼカリヤ書9:9からの引用です。

聖書は「あなたの王を見てみてください」と言います。

「私たちの王、イエス様は、軍馬ではなく、ろばの子に乗っているのが分かりますか」と。

マカバイの時のように「今こそ、蜂起して、ローマ帝国から自由を勝ち取ろう!」と叫ぶ群衆に、「あなたの王をよく見てください」と言います。

「イエス様が乗っているのは軍馬ではない。ろばの子だ。」と。

ゼカリヤ書の預言は続けてこう語られます。

「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」(9:10)

私たちが見るように言われている王は「平和の君」です。

剣ではなく、愛で勝利された王です。

私たちの罪の身代わりとなって十字架で死ぬことによって勝利された王です。

ヨハネ 12:1-11

「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(12:3)

イエス様は、すべての教会が、賛美の香油の香りでいっぱいの場所になって欲しいと願っておられます。

それは、イエス様への賛美で教会を満たすということです。

ただ単に歌を歌うということではありません。

マリアは自分がもてる最高のものをイエス様に捧げました。

私たちも、自分がもてる最高のものをイエス様に捧げることが求められています。

なぜなら、イエス様は「ふさわしい方」だからです。

このイエス様の貴さ、イエス様の価値を見失ってしまうならば、伝道も、奉仕も、教会生活も、虚しいものとなってしまいます。

賛美の歌を歌うのは、イエス様が「賛美を受けるにふさわしい方」と認識するからです。

イエス様は、私たちの全てを捧げるのに値するお方です。

ヨハネ 11:45-57

「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。」(11:47)

イエス様に批判的だった祭司長たちもパリサイ人たちも、イエス様が多くのしるしを行っていることを知っていました。

しかし、彼らはイエス様を信じられませんでした。

聖書はその理由をこのように解説しています。

「どうして彼らはそれを見逃したのでしょうか。なぜなら、神を信頼する代わりに、彼らが主導権を握ったからです。彼らは、自分たちがしていることに夢中になっていたのです。彼らは自分の「神プロジェクト」に没頭するあまり、目の前にいる神に気づかなかったのです。」(ローマ9:32MSG)

神は神であり、人が神になることはありません。

私たちが求められていることは、神を信頼することであり、自分の「神プロジェクト」に没頭することではありません。

イエス様が今も多くのしるしを行なっていることを信頼できますように。

ヨハネ 11:36-44

「イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」」(11:39)

マルタはいわゆる常識人で、石を取りのけるとどうなるか、よく分かっていました。

ある意味、取りのける必要があったのは、「常識」だったと言えるかもしれません。

そんなマルタに、イエス様は言いました。

「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40節)

つまり、神の栄光を見るためには、信仰をもって取りのけなければいけない石があると言ったのです。

イエス様が取りのけるようにおっしゃられている「石」はないでしょうか。

神の栄光を見るのを邪魔している石はないでしょうか。

それは、自分の中で作ってしまっている限界かもしれません。

この国に神の御国をもたらすために、イエス様が「取りのけなさい。」と言われる石があるのではないでしょうか。

この石は、祈りなくして取りのけることはできません。

遠州からっ風

先週JPFの大会に参加してきました。

アルファでお馴染みのニッキーガンベル先生が来られるとのことで、一年近く前から行きたいと願っていました。

初参加できて感謝!

あまりにも浮かれていたのか、今季一番の寒さだというのにダウンジャケットを家に忘れたのです。

会場の浜名湖周辺の風が強いこと強いこと。

湖面に無数の刀があるような模様ができていました。

加えて寒波の影響で気温も低く曇天だったので寒さのトリプルパンチです。

ソドムから逃げるロトの家族がひたすら前を向いて走ったように、わたしも駐車場から会場の入り口まで後ろを振り返らず全力で走り抜きました。

こんなに寒い経験をしたのは久しぶり。

ダウンを持ってこなかったことを心底後悔しました。

幸い会場は汗をかくほど(?)の暖かさでした。

良い環境の中でニッキー先生の穏やかで力強いメッセージに感激し、全国から参加した教職の方々と共に心を合わせて祈り、賛美し、無事帰ってきました。

調べてみたらあの強風は遠州からっ風と言い、季節風の影響で、南アルプスから海に向かって乾燥した風が吹き降りる、浜松の冬の風物詩なのだそうです。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 11:17-35

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(11:25,26)

「復活」は単なる「教理」、教えではなく、イエス様ご自身だと言われました。

「復活」は単なる未来の出来事ではなく、イエス様ご自身だと言われたのです。

私たちは教えではなく、今も生きて働いておられるイエス・キリストを信じるように語られています。

マルタはイエス様の「あなたは、このことを信じますか。」という言葉に応答します。

「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」(27節)

主は私たちにも同じ質問をされています。

単なる「教え」とか「教理」とかいうレベルの話ではなく、イエス・キリストを、よみがえられた「生ける神」として信じているかどうか。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 11:1-16

「姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」」(11:3)

ラザロが病気だったので、姉妹たちはイエス様にメッセージを送りました。

「あなたが愛しておられる者」は、友人愛を意味する「フィレオー」が使われています。

マルタもマリアも、イエス様がラザロのことを気にかけておられることを確信していました。

さらに聖書は言います。

「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(5節)

イエス様はラザロだけではなく、マルタとその姉妹マリアも、愛しておられたと言います。

ここでは、神の愛を意味するアガペーが使用されています。

私たちは、神さまに愛されていると確信をもって祈ることができます。

その根拠は、ひとり子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださったからです。

イエス様の十字架を見上げ、確信をもって祈りましょう!

ヨハネ 10:32-42

「しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(10:38)

イエス様が「わたしのわざを信じなさい」と言われた意味は、それがすごい奇跡だからということではなく、それが父なる神のわざだからということです。

イエス様が提供されるものは、父なる神が提供されるものです。

イエス様は約束されました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(28節)

イエス様が提供されるものは、永遠の命です。

来るべき時代のいのちです。

そして、それは、誰も奪い去ることはできないと言います。