ヨハネ 8:31-59

「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(8:47)

神からかどうかは、神のことばに耳を傾けているかどうかで分かるとイエス様は言われます。自分中心か、神中心かで分かるということだと思います。日々、謙遜に神のみことばに耳を傾け、神のみことばに聞き従おうとしていることこそ、神からであることの証明だと言います。また、神はこう言われます。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:27)

神の霊、聖霊が授けられている証拠は、神の御言葉に聞き従って歩んでいるかどうかです。神のことば、聖書への飢え渇きは、神からであることの証明です。

ヨハネ 8:12-30

「そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」(8:28節新改訳二〇一七)

「あなたがたが人の子を上げたとき」とは、イエス様が十字架にかかられた時のことを指していると思われます。ただ、私たちがイエス様の御名を高く掲げる時とも考えられます。私たちがイエス様の御名をあがめ、讃えることを通して、イエス様こそまことの神であり、救い主であることを人々は知ることができるからです。そのことをよく理解していた使徒パウロはこう言います。

「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2:2)

イエス様の御名だけがあがめられますように。

おかあさん、ありがとう。

お母さんがいない人は、この世に一人もいません。全ての人にお母さんがいて、私たちは今ここに存在しています。今日は母の日。もうこの地上にお母さんがいないという方はたくさんおられると思いますが、命をかけてこの世に私たちを生み出してくださった「おかあさん」に感謝することはできると思います。
昨日次男が十七歳の誕生日を迎えました。母親としては次男が神様の導きを求め、御心の真ん中を歩む人生であるようにと願ってやみません。イエス様とおかあさんのマリヤとのやり取りは、聖書の中にいくつも出てきます。十二歳のイエス様が行方不明になった時、カナの婚礼の時、イエス様を連れ戻そうとした時、イエス様が十字架にかかられた時も。マリヤは息子でありメシヤであるイエス様のことをどのような思いで見守ってきたのかな?と思うことがあります。お母さんは子どもの幸せを願うもの。人間的に見ればマリヤは悲劇の母、ということでしょう。でもどのような困難も痛みも共に乗り越えた幸いな人生だったとも思うのです。(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 7:45-8:11

「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」」(8:7)

善悪を知る木の実を食べたアダムとエバの子孫である私たちは、自分の善悪で人を裁こうとします。自分があたかも神のように、絶対的正義を持っているかの如く、他者を責め立てようとします。しかし、神以外に正しい方はいません。神の御子、イエス様は驚くことに、この姦淫の現場で捉えられた女性にこう言いました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)

イエス様は罪のない者でしたが、私たちの罪をその身に負い、十字架にかかり死んでくださいました。イエス様は石を投げるよりもその罪を身代わりに背負ってくださいました。
今日は主の日であり母の日。すべての母に感謝し、主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 7:14-44

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」(7:37,38)

2節にあるように、これは仮庵の祭りです。この祭りは、シロアムの池から水を汲み、神殿まで持っていき、注ぎ、荒野で岩から水が出たことを覚えます。しかし、最終日は、約束の地に入ったことを覚えて、水を注ぎませんでした。その時に、イエス様は

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

と言われました。ヨハネはイエス様が言われた意味をこう解説しています。

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(39節)

約束の地は終わりではなく始まりです。神が私たちを聖霊で溢れされるのは、私たちを通して周りの人に祝福をもたらすためです。

ヨハネ 6:60-7:13

「すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」」(6:68,69)

群衆は、自分たちが望んでいるように答えてくれないイエス様を見限って、イエス様から離れて行きました。しかし、ペテロたちはイエス様から離れることはありませんでした。なぜなら、イエス様がいのちのことばを持っておられることを知っていたからだと言います。聖書をただ自分の利益のために利用しようとするだけの人は、やがて、離れて行きます。しかし、聖書を神のみことばであることを認め、信じ、従う者は、決して離れることはありません。

ヨハネ 6:25-59

「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)

出エジプト記3章で、神はご自身を、

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出3:14)

という名前で現わされました。

ヨハネ福音書では、このことを意識してイエス様が七つの

『わたしはある』

でご自身を現わされています。その第一番目が

「わたしがいのちのパンです。」

人々はイエス様に「モーセは天からのパンを彼らに与えた」(31節)ように、しるしを与えるように詰め寄りました。イエス様は、そもそも、モーセがマナを与えたわけではなく、神が与えたことを伝えます。そして、マナを食べた人たちも皆、死んだことを伝えます。そして、天からのまことのパンは、イエス様ご自身であることを示されます。イエス様を心に信じ迎える者だけが得ることができる永遠のいのちがしるしです。

ヨハネ 6:1-24

「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」(6:21)

前に進むことができなかった弟子たちの舟にイエス様が近づいてきました。彼らは、最初は恐れました。しかし、イエス様の

「わたしだ。恐れることはない。」

ということばを聞き、喜んでイエス様を舟に迎えました。すると、ほどなく目的の地に着いたと言います。時として、私たちも喜んでイエス様を迎え入れる、歓迎する祈りが必要であると思います。自分の人生に、家族に、教会に、職場に、学校に、イエス様、あなたを歓迎しますと、祈ろうではないでしょうか。

ヨハネ 5:31-47

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(39‐40節)

どんなに聖書を勉強しても、イエス様のもとに行かなければ本当の意味するところを知ることはできません。しかし、多くの聖書学者は、信仰を除外し、学問としてのみ研究しようとします。イエス様について証言している聖書を、イエス様抜きに理解しようとしても、理解することができないことは明らかです。聖書のみことばは、イエス・キリストのもとに来るために記されているのですから、イエス・キリストのもとに行かなければ、聖書が意味していることが分かるはずがありません。へりくだり、祈りつつ、イエス様のもとにいくことから、すべては始まります。

ヨハネ 5:16-30

「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」」(5:17)

イエス様は、父なる神様が今にいたるまで働いておられると言われました。確かに、

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)

とあります。神様の働きは二四時間三六五日です。そして、イエス様も同じように働いていると言います。しかし、私たちは神ではないので、二四時間三六五日働くことは不可能です。ただ、二四時間三六五日働かれている神様を、イエス様を指し示すことはできます。人にはできないことも、神にはできます。神様は今も、働かれています。