ゼカリヤ書 11章

「見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。ああ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕とその右の目を打ち、その腕はなえ、その右の目は視力が衰える。」(16,17節)

ここに出てくる牧者は、この世の終わりに登場する偽キリストのことと言われます。キリストに反対するのではなく、イミテーションです。多くの人が偽キリストによって養われていると感じますが、実質的には何もありません。黙示録で「致命的な傷」(13章)を受けるとありますが、どんな傷かが記されています。片方の腕が使えなくなり、右の目が見えなくなる。キリストを信じる者は、彼を見る前に天にあげられますが、地上に残されて、この預言の成就を見ましたら、キリストを見上げてください。

ゼカリヤ書 10章

「後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。」(1節)

イスラエルには雨季が二回あります。はじめの雨季は一〇月から一二月にかけてで、これを「前の雨」(ヤコブ5:7口語訳参照)と呼んでいます。もう一つの雨季は四月から五月にかけてで、これを「後の雨」と呼んでいます。この両方の雨季がこの地域の作物の収穫にとても大きな影響をもたらします。「後の雨」は、終わりの日に聖霊が人々の上に下られることを意味していると考えられています。まさに、

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2:28)

旧約聖書の時代、聖霊は特定の人の上にのみ臨まれました。しかし、今、求めるすべての人に臨まれるという後の雨の時代に、私たちは生きています。ですから、この後の雨の時に、主に聖霊を求めましょう!

ゼカリヤ書 9章

「望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。」(12節)

キリストを信じる者は、キリストが再び来られる(再臨)という希望によって捕えられています。逃れられることはありません。いや、逃れたくありません。私たちが心から願っていることだからです。キリストが再び来られる時、苦しみも、悲しみも、戦いも終わります。キリストが平和と義をもって治められます。この希望に捕らわれている人に、神は倍返しを約束されています。たとえ今、損をしているように感じても、祝福が倍になって返ってくるというのです。私たちは希望が必要です。イエス・キリストのうちに希望をもつことができることは、幸いなことです。

ゼカリヤ書 8章

「万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」(23節)

この箇所はこの世の終わりにキリストが再び来られてから成就する預言の一つだと言われています。その日、もう中東問題はありません。同時に現代に生きる私たちにも意味があります。人々は、神がともにおられるということを聞いて、いっしょに行きたいとすそを堅くつかむと言います。キリスト教会の特徴は、

「教会はキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23新改訳2017)。

もし、人々が、神が教会に満ちておられるということを聞くならば、いっしょに行きたいとすそを堅くつかみ願うことでしょう。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ゼカリヤ書 7章

「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。」(5,6節)

イスラエルの人々は、ネブカデネザル王によって滅ぼされたことを覚えるために、第五の月に毎年断食していました。神殿が建て直されたので、「もうしなくてもいいですか」と尋ねると、神様が、「そもそもどうして断食しているのか」と問い正しました。神のためというよりも、「自分たちのためにしてきたのではないか」と。儀式化することの危険性は、意味を見失うということです。聖餐式も、キリストとの交わりを求めなければ、ただのパンとぶどうジュースにすぎません。神は「儀式を行うことで満足していないか?あなたの心はどこにあるのか?」と問われています。

ゼカリヤ書 6章

「あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。」(11‐13節)

ゼルバベルと共に指導的役割を担ったのが大祭司ヨシュアです。この箇所はメシア預言と呼ばれるもので、やがて大祭司ヨシュアのようにメシアが現れ、神殿を建て直すという預言です。ですから、当時の人はキリストが神殿を建て直すことを期待していました。神殿とは天と地が重なり合う場所であり、実は、キリストご自身が十字架の御業によって永遠の神殿となられました。キリストの教会が現代の神殿です。ですから、私たちはイスラエルの幕屋や神殿を建て直すことにではなく、キリストのからだを建て上げることに心を注ぐべきです。

ゼカリヤ書 5章

「そこで私は、私と話していた御使いに尋ねた。「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか。」彼は私に言った。「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ。」」(10,11節)

この箇所は、一般的に黙示録18章と関連するこの世の終わりに関する内容だと理解されています。「シヌアル」の地とはバビロンの地ということで、今のちょうど、イラクの地域を指します。ですから、多くの聖書学者たちは、今後、イラクがどう発展していくかに注目しています。また、バビロンの地とは、神に対抗してバベルの塔を建てた場所でもありますので、神に対抗する象徴と考える聖書学書もいます。特にエパ枡は、商業主義を指して、神よりも金をあがめることを意味していると理解されます。神に仕えるか、金に仕えるか、神に支配されるか、金に支配されるか、現代に生きる私たちにも問われています。

ゼカリヤ書 4章

「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(6節)

バビロン捕囚からエルサレムに帰って来た時のリーダーが、ゼルバベルです。彼はエルサレムを再建しようと努力しますが、邪魔が入ります。(エズラ4,5章参照)彼は、自分の力のなさに落ち込んだと思います。しかし、神はそんな彼に、

「あなたの力ではなく、聖霊によって成し遂げる」

と語り、彼はそれで立ち上がります。キリスト教会のはじまりも、まさに、この世的に言えば権力も能力もない、一握りの人々からはじまりました。しかし、聖霊なる神様が臨んでくださることによって、全世界へ広がっていきました。聖霊なる神様の力は、今も、求める人々に注がれます。そして、権力によらず、能力によらず、神の霊によるなりという世界を体験します。

ゼカリヤ書 3章

「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。『彼のよごれた服を脱がせよ。』そして彼はヨシュアに言った。『見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」(3,4節)

私たちはみなヨシュアのように、神の御前では、よごれた服を着ている者でした。神の御前では、私たちの正しさは、汚れた服のようだと聖書は言います。

「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)

誰一人、自分の努力によって神の基準に到達することはできません。しかし、キリストは私たちの汚れた服を脱がせて義の衣を着せるために十字架にかかって死んでくださいました。イエス・キリストを信じるということはまさに、ヨシュアが体験したように、汚れた服を脱がせてもらい、キリストの血潮で聖められた義の礼服を着せていただくことです。

ゼカリヤ書 2章

「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。―主の御告げ。―」(10節)

教会では、賛美の歌を神に捧げる時間をとても大切にしています。私たちが喜び歌い、神を楽しむ中で、神ご自身が私たちの所に来て、私たちのただ中に住むとおっしゃられるからです。もちろん、神が私たちのただ中に住まわれるから、神に喜び歌い、楽しむことができるという両面があります。いずれにせよ、神に喜び歌い、神を楽しむ時、私たちは神が私たちのただ中におられるという神の臨在を感じます。イスラエルの人々が荒野を旅するとき、その真ん中に神の臨在を現す幕屋があったように、約束の地の真ん中に神の臨在を現す神殿があったように、イエス・キリストを信じる者たちが集まる教会のただ中に、神の臨在が現されます。私たちが共に賛美の声を上げるその中に、神の臨在は現されます。