ヨハネ 15:9-17

「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(15:15)

イエス様は弟子たちを「友と呼びました」。

「私はもはやあなたたちをしもべとは呼ばない。しもべは主人が何を考え、何を計画しているのか理解できないからだ。そうではなく、私は、私が父から聞いたすべてのことをあなたたちに打ち明けたので、あなたたちを友と呼んだのだ。」(MSG)

神が私たちに、何を考え、何を計画しているのか理解できるように、神が打ち明けたことが聖書に記されています。

そして、そのことを理解できるように、助け主、聖霊がイエス様を信じる者たちに与えられています。

私たちは「しもべ」としての信仰ではなく、「友」としての信仰を持つようにと言われていますが、聖書を読まなければ、「友」としての信仰を持つことはできません。

ヨハネ 15:1-8

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(15:5)

聖書が教えていることは、自分が枝であることを認めて、幹であるキリストを認めて、キリストから力をいただくということです。

大事なのはイエス・キリストにつながることです。

栄シャロームの開拓宣教師であるモラー先生はこのように言っています。

「まず第一に、キリストご自身に、そして次にキリストのからだ全体にどのようにつながっているのかをよりよく理解するために、信徒たちが成熟する機会を得ることは良いことです。」

枝は幹からしか栄養を受け取ることができません。

イエス・キリストを信じるというのは、まさに、枝が本来の幹につながるようなものです。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 14:25-31

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(14:27)

イエス様が与えると約束された「平安」は、ただの「平安」ではありません。

「わたしの平安」と、イエス様が所有している平安であることを強調しています。

LBでは、

「この世のはかない平安とは比べものになりません。」

と訳しています。

イエス様の時代の世界を支配していたのはローマ帝国でした。

皇帝アウグストの肖像画が刻印されたお金には、ラテン語で「平和」を意味する「PAX」という単語が刻印されていました。

ローマ帝国は武力によって、「当時の世界を平和にした」と自負していたのです。

民衆はローマ帝国が与えるパンとサーカスに酔いしれ、「ローマの平和」を享受していました。

イエス様は、そんなローマ帝国が与える「平和」とは違う「わたしの平和」を与えると約束されました。

ヨハネ 14:15-24

「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(14:15)

「守りなさい」ではなく「守るはずです」と、命令形ではなく未来形です。

イエス様を愛していることは、イエス様の戒めを守っていることで証明されるということです。

これは16節以下の聖霊様が与えられることとつながります。

エゼキエル書36章にこうあります。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」(36:27)

エゼキエル書は、イスラエルの民が神の戒めを守り行うことができず、その罪のゆえにバビロンに捕囚されていくことが記されています。

それで神は、神の霊を授けることで、民が神の戒めを守り行うようにすると言われました。

神の霊が与えられることと神の戒めを守り行うことは、切り離すことができないということです。

聖霊様が私たちの内におられるならば、神の戒めを守るはずであるという事です。

ヨハネ 14:1-14

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)

有名なトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」にこのように記されています。イエス様からの言葉として記されています。

「わたしについてきなさい。わたしは道、真理、いのちである。

道がなければ進めない。

真理がなければ知ることはない。

いのちがなければ、生きることはない。

わたしは、あなたがついてこなければならない道、

あなたが信じねばならない真理、

あなたが希望せねばならないいのちである。

わたしは神聖な道、

誤りのない真理、

終わりのないいのちである。

わたしはもっともまっすぐな道、

最高の真理、

真のいのち、

祝福されたいのち、

創られたのではないいのち。

もし、あなたがわたしの道をいつも守ってゆくなら、

あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にし、

あなたは永遠のいのちをつかむだろう。」(56.1)

ヨハネ 13:31-38

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(13:34,35)

使徒の働き13章に出てくるパウロとバルナバを遣わしたアンテオケ教会、その二代目牧師は、イグナティオスという人でした。

彼はアンテオケ教会の責任者として逮捕され、ローマに護送され、110年に殉教したと伝えられています。

そのイグナティオスがエペソの教会に宛てた手紙に、こんなことが記されています。

「はじまりは信仰、完成は愛」(eph.14:1)

信仰から始まるのですが、愛がゴールだと言います。

初めは信仰ですが、互いに愛し合うことによって成就すると言うのです。

キリストの愛は、私たちを駆り立てる愛だからです。(2コリント5:14)

ヨハネ 13:21-30

「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」(13:27)

メリル・テニーという学者は、この時がユダが裏切りを放棄する最後の機会だったと言います。

「自己中心的な衝動に身を任せたことで、サタンの支配への道が開かれた」と言います。

サタンの存在を理解することが難しいと言う人もいますが、この世界に起こる信じられないような凶悪犯罪の背後に、悪の力があることを否定することは難しいと思います。

サタンがアダムとエバをだましたように、人をだまして支配し、殺し、滅ぼそうとしています。

私たちは信仰に立って、イエス・キリストの御名によって、悪魔に対抗する必要があります。

「時は夜であった。」(30節)とありますように、世の光であるイエス様から離れるならば暗闇しかありません。

イエス様に留まることが大事です。

ヨハネ 13:12-20

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」(13:15)

イエス様は弟子たちの足を洗った後、「模範を示した」と言われました。

この出来事が模範だったことは確かです。

問題は、何の「模範」だったかということです。

イエス様は言われました。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)

つまり、イエス様が足を洗ったのは、神がどのようなお方かを示すイエス様の模範だったのです。

これは、神の御国の民として、神がどのようなお方かを示すために、「寛大に自分を与える愛」に生きるという模範です。

聖書は言います。

「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべき」(使徒20:35)

イエス様は確かにそう言われました。

「それを行うなら、あなたがたは幸いです。」(17節)

脱皮!

先週北海道の海岸に無数の毛蟹の殻が打ち上げられているというニュースを見て、しかもそれが脱皮した殻だということをしり「蟹も脱皮するんだ」ということを知らずに生きてきたことを恥じております。

ザリガニの脱皮は幾度となく見たことがあるのですが人生で蟹を飼うということはしたことがなかったため遅ればせながら水族館のタカアシガニ脱皮の動画を見てみました。

脱皮にかかった時間はなんと6時間だそうです。

力尽きて途中で死んでしまうこともあるそうで、文字通り命懸けで殻からの出てくるのです。

とても神秘的で感動しました。節足動物は全て脱皮するということで、実はうちのジェニー(カメ)も脱皮しながら大きくなっているのです。

スケルトンで脱皮がわかる蟹とは違いますがピンポン玉よりも小さかったジャニーが大人の手のひらよりも大きくなっている姿は神様の創造の素晴らしさを身近で感じる存在です。

私たちが目を向ければ神様の偉大さがそこここにあることに気が付きます。

先週の週報でかつ兄が書いていたように、まずは自分の手のひらを観察することから始めてみませんか? 

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 13:1-11

「ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」」(13:8)

イエス様はペテロに言いました。

「私があなたを洗わなければ、私がしていることの一員にはなれない」(MSG)

「イエス様がなされることに身を委ねることができなければ、神のご計画の一員になれない」ということです。

イエス様がなされることをいつも理解できるとは限りません。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」

とイエス様が言われたように、今は分からないということが多々あります。

しかし、イエス様を信頼して、イエス様がなされていることに身を委ねることができなければ、私たちは神の遠大な計画の一員となることはできません。

してもらうことは信頼の証です。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!