箴言 13:13-25

「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」(13:20)

どこにいるか、誰の話を聞くかは、私たちの人生に影響を与えます。

だから聖書は言います。

「知恵ある人のそばにいれば知恵ある人になり、悪人のそばにいれば悪に染まります。」(LB)

ですから、自分を過信せずに、信仰の共同体である教会に属することを聖書は勧めています。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:25)

教会も人の集まりであり、完全ではありません。

しかし、キリストのからだです。

聖書の御言葉を中心とした集まりである限り、そこには知恵があります。

なぜなら、神の御言葉が私たちに知恵を与えてくださるからです。

そして、聖霊なる神様が教師となって教えてくださいます。

箴言 13:1-12

「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。」(13:10)

多くの人の問題は「高ぶり」です。

LBではこのように訳しています。

「自分に自信がありすぎる人は、なかなか主張を曲げません。素直に忠告を聞く人は賢くなります。」

神よりも自分が賢くなってしまうと、謙遜に他者からの忠告に耳を傾けることができなくなってしまいます。

その結果、どんな忠告も、ただ争いが生じるだけになってしまいます。

何よりも私たちが耳を傾けなければならないのは、聖書のみことばです。

聖書は言います。

「みことばをおろそかにすると苦しい目に会い、みことばに従えば成功します。」(13節LB)

聖書の知恵はこれです。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)

私たちは謙遜になって、互いのために祈り合い、励まし合う必要があります。

箴言 12:17-28

「悪を企む者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。」(12:20)

「平和を図る人」は「シャローム・カウンセラー」と訳せます。

イエス様は

「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5:9)

と言われましたが、平和はつくるものです。

私たち一人一人が「シャローム・カウンセラー」となって、この地に平和をつくる者となっていく必要があります。

具体的に、「シャローム・カウンセラー」は、その言葉に注意します。

「批評好きは人を傷つけますが、知恵ある人のことばは慰め、いやします。」(18節LB)

「どんなに沈んでいる人も、励ましのひと言で心が軽くなります。」(25節LB)

今、多くの人が不安と心配で、沈んでいると思います。

シャローム・カウンセラー」として、今日、誰かに「励ましのひと言」、「親切なことば」を発することができますように。

一昨日は

お疲れ様でした。

4年ぶりのオープンチャーチをまずは無事開催できたことが嬉しかったです。

ご協力くださり本当にありがとうございました!

初めましての方や香港カフェにきてくださった方、みなさんのご友人の方々。

個人的にはお隣さんをはじめご近所の方々が来てくださったことは教会が地域に受け入れられてきている証拠かなと思い感謝でした。

また、「きょうの今日までここが教会だと知らなかったよ!」と驚いた様子で立ち寄ってくださった方もいらっしゃいました。

また来てくださるといいなあ。

2023年もあと2ヶ月を切りました。

神様がこの一年導いてくださっていることをしっかりと全うすることができるよう、聖霊さまの助けを求めつつ歩んでいきたいと願います。

それぞれの持ち場で今週も主の愛を流していくことができますように。

来週はこれもまた何年ぶりでしょうか、野島公園でバーベキューを行う予定です。

健爾兄とはこれでしばしのお別れとなりますので、笑顔で見送ることができればと思います。
(小山晶子牧師婦人)

箴言 12:1-16

「人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。」(12:3)

イエス様は言われました。

「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)

この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。

しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。

悪いことをしていて、人生が安定することはありません。

たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。

しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがあります。ですから聖書は言います。

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言 11:16-31

「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。」(11:25)

リビングバイブルでは今日の箇所をこう訳しています。

物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。

聖書に、こういう箇所もあります。

気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。

もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。

なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。

神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

箴言 11:1-15

「直ぐな人の祝福によって、町は高く上げられ、悪しき者の口によって、破壊される。」(11:11)

私たちの人生は、自分の家族や自分のコミュニティだけでなく、自分の町、自分の国にも影響を与えます。

11節をリビングバイブルではこう訳しています。

「神を信じる市民が良い影響を与えているうちは町は栄え、悪者たちによって道徳が腐敗すると、町はたちまち衰えます。」

具体的に箴言が教えることは、「人を中傷して回る者」(12節)は愚かです。

賢い人は不必要なことは話しません」(LB)と言います。

もちろん、それは今話題のSNSも含まれると思います。

信頼できる人はうわさ話を口にしません。」(13節LB)

いずれにせよ、

「人に親切にすると心が豊かになり、思いやりのないことをすると気持ちがすさみます。」(17節LB)

「悪いことをしてもうけた金はすぐになくなり、正しいことをして得た報酬はいつまでも残ります。」(18節LB)

箴言 10:17-32

「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。」(10:22)

自分が苦労して富を築き上げてきたと自負する人は、貧しい人は苦労が足りなかったから貧しいのだと見下げる傾向があります。

そして、自分が苦労して得た富だと自負しているので、その富を人と分かち合うことは考えません。

しかし、謙遜に、主が祝福してくださったがゆえに富を築けたと考える人は、分かち合うことを喜びとします。

主を恐れるがゆえに富を分配し、祝福の基となります。

そもそも神が私たちを祝福される理由は、私たちが祝福の基となるためです。

聖書は言います。

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

私たちは、神のすべての良きもの、神の祝福を受け継ぐために召されています。

箴言 10:1-16

「不義によって得た財宝は役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。」(10:2)

十章からは「ソロモンの箴言」とありますが、テーマに沿ってと言うよりは、ランダムに箴言が収集されています。

それぞれ、選択肢は明確です。

知恵か愚かさか、善か悪か、いのちか死か。

選択するのは私たちであり、選択に伴う結果があります。

2節をLBは、こう訳しています。

「悪いことをしてもうけた金はすぐになくなります。どこまでも正しく生きることが幸福のかぎです。」

その理由は3節にあります。

「正しく生きている人を、主は飢えさせません。悪人は、せっかくもうけた金を主に取り上げられます。」(LB)

これが霊的な原則です。

神はご覧になっておられます。

ですから、たとえ今、悪人がもうけているように見えたとしても、主に信頼し、正しく生きるように心がけましょう。

主は必ず祝福してくださいます。

エペソ 6:18-24

「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。」(6:24)

エペソ人への手紙は「不滅」(ἀφθαρσίᾳ)という単語で終わります。

新改訳では愛にかけて「朽ちることのない愛をもって」と訳しています。

ただ、原文では直前にあるイエス・キリストにかけるほうが自然に思えます。

「恵みが、私たちの主、不滅なイエス・キリストを愛するすべての人たちとともにあるように。」

イエス・キリストは永遠の主、滅びることなく、朽ちることのないお方です。

死もよみの力も、イエス・キリストを留めることはできませんでした。

イエス・キリストの支配は、永遠であり、イエス・キリストを信じて生きるとは、まさに、その永遠に生きることでもあります。

イエス・キリストは言われました。

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:35)