箴言 18:1-24

「主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護される。」(18:10)

堅固なやぐら」と訳された言葉を、LBでは「絶対安全なとりで」、新共同訳では「力の塔」と訳しています。

古代社会では、城壁の中に、都市を作りました。

そして、その城壁の側に、見張りのために、高い塔を作りました。

その塔から、遠くを見ることができました。

敵が近づいてくることもたやすく見ることができました。

戦いが起こったとき、塔はとても有益でした。

塔に向かって、槍を投げても、簡単には届くことはありませんでした。

しかし、塔から槍を投げるなら、地上の敵には脅威となりました。

ですから、危険が迫った時、塔は避難することができる場所としては最適でした。

私たちも「力の塔」があります。

人生の戦いの中で、私たちが走っていくことができる避け所があります。

私たちの避け所は主の御名です。

箴言 17:13-28

「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。」(17:22)

笑いは健康に良いと言われます。

あまりにも何ごともまじめに考えすぎると病気になってしまいます。

どこかで、神の御手にすべてを委ねて、喜びに満たされる必要があります。

「心が陽気になれば体も健康になり、気がふさげば病気になります。」(LB)

自分自身のことも笑えるようになる必要があります。

笑いは、ワークアウトのようなもので、私たちのたましいを訓練し、健康に保ちます。

聖書は私たちに「喜ぶ」ことを教えます。

「喜び」は私たちの選択です。

ヘレン・ケラーは言いました。

「私は、キリストにあって幸せです。」

日々、キリストにある幸いを告白することは、とてもいい健康法です。

箴言 17:1-12

「貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。」(17:5)

貧しい人に対する態度は、神に対する私たちの態度を反映すると言います。

神が人を創られたと本気で信じているならば、どんな人であっても嘲ることはできません。

被造物を嘲ることは、造られた創造主を嘲ることになるからです。

ですから、聖書は言います。

「神は人の不幸を喜ぶ者を罰します。」(5節LB)

神は自分だけではなく、すべての人を創られました。

神は私たちが愛に生きることを願われています。

「愛のある人は人の過ちを水に流し、いつまでもこだわる者は親友までも失います。」(9節LB)

「いったん火のついた争いごとは、なかなかおさまりません。だから、初めから争いはしないことです。」(14節LB)

新約聖書では、使徒パウロがこのように言っています。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ロマ12:18)

箴言 16:20-33

「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。」(16:24)

聖書は言葉の大切さを語ります。

「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。」(LB)

ですから、聖書の御言葉に通じることを聖書は勧めます。

「みことばによく通じた者は幸いを見出す。主に拠り頼む者は幸いである。」(20節)

日々、聖書の御言葉を読み、祈り、黙想し、御言葉を心に蓄える人は祝福されます。

また、

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(25節)

とあるように、私たちは自分の経験や悟りに頼らないように気をつける必要があります。

「親切なことば」は恵み深いことばとも訳せます。聖書は言います。

「友よ、創造的に生きよう。もし誰かが罪に陥ったなら、許す心をもってその人を回復させ、批判的なコメントは自分のために取っておくことだ。その日のうちにあなたがその赦しが必要になるかもしれないから。」(ガラテヤ6:1MSG)

箴言 16:1-19

「主が人の行いを喜ぶとき、敵さえもその人と和らがせる。」(16:7)

メッセージ訳ではこのように訳しています。

「神があなたの人生を祝福するならば、敵でさえもあなたと握手するようになる。」

一般的に、私たちが出会う二〇%の人は無条件で私たちの意見を肯定し、好意を持つと言われます。

しかし、二〇%の人は無条件に私たちの意見に反対し、嫌うと言われます。

残りの六〇%の人は、どちらにもなり得ると言います。

それで、すべての人に好かれようとすると、私たちは傷つくことになると言うわけです。

聖書は、だから、人の顔を見るのではなく、神の御顔を仰ぐように勧めます。

「主を喜ばせようとすれば、その人の最大の敵も、主が味方に変えてくれます。」(LB)

すべての人に好かれることに心を向けて不安定になるのではなく、主を喜ばせることに心を向けて生きることが大切です。

そして立冬

急に寒くなりました。亀のジェニーの食欲も一気になくなり2週間前までTシャツを着ていたわたしも流石に長袖を着用しはじめました。

11月ももう半ば、立冬にふさわしい気温へと瞬間移動した感じがします。

すでに街はクリスマスの装いとなり、ツリーをそこここで見かけるようになりました。

きょうは第二礼拝後野島公園でバーベキューを予定していますが、風邪をひかないよう暖かい格好でお出かけくださいね。

考えると悲しいのであまり考えないようにしていましたが、とうとう健爾兄の旅立ち前最後の礼拝となりました。

同い年だったこともあり、長男の赤ちゃん時代の写真からずっと健ちゃんは一緒に写っているものが多くて、成長を見守ってきた者としては独り立ちしていく喜びと寂しさが入り混じっています。

神 共にいまして
行く道をまもり
天の御糧もて
力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神のまもり
汝が身を離れざれ

(小山晶子牧師婦人)

箴言 15:16-33

「正しい人の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪しき者の口は悪を吐き出す。」(15:28)

言葉は何でも思ったことを吐き出せばよいというものでありません。

聖書は言葉の大切さを指摘します。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

もちろん、そのためには、「よく考えてから話」(28節LB)すことを身に着ける必要があります。

メッセージ訳が、

祈りをこめた答えは、神に忠実な人々からくる。」

と訳しているように、私たちは祈りの中で、「よく考えてから」話す習慣を身につけることは大切です。

そのような神に忠実であろうとする人の祈りを主は聞かれます(29節)。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言 15:1-15

「穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。」(15:4)

「穏やかな舌」は直訳すると「癒しの舌」です。

「癒しをもたらす舌はいのちの木」と訳せます。

私たちのことばは人々の人生を変えます。

ですから、メッセージ訳はこのように訳しています。

「やさしいことばは、いやしと助け。痛烈なことばは、痛みと傷。」

ネットにおける誹謗中傷が問題となっていますが、私たちはいのちを与える言葉を使うことを気にかけるように聖書は言います。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

また、イエス・キリストは、このように警告します。

「わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。」(マタイ12:36)

箴言 14:17-35

「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」(14:27)

この世界が必要としていることは健全な神への恐れです。

神への恐れの欠如がこの世を不安定にし、混乱をもたらします。

自分を創られた神が生きておられ、やがて、神の御前に立つ時が来ることを認識するならば、人は自分の行動に責任を持つようになります。

LBはこう訳しています。

「主を恐れることはいのちの泉です。その水を飲めば生きる力がわいてきます。」

神に対する健全な恐れが、私たちに力を与えます。

神を恐れることは、いわゆる恐怖を抱くこととは違います。

なぜなら、聖書の神は愛なる神であり、私たちを愛し、私たちの罪のために御子イエス・キリストを与えてくださったお方だからです。

神を愛することと、神を健全に恐れることは矛盾しません。

箴言 14:1-16

「牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、豊かな収穫は牛の力による。」(14:4)

飼葉桶は、牛が使用しない限り汚れることはありません。

しかし、それでは飼葉桶の意味がありません。

たとえ飼葉桶がきれいでなくても、牛がそこに存在して使用していることに意味があります。

同じように、教会も人がいなければ問題は起きないかもしれませんが、人がいなければ教会の意味がありません。

たとえ理想的にきちんとできなくても、様々な人が教会に存在していることに意味があります。

様々な人がいることによって、より様々な人に福音を宣べ伝えることができるからです。

このようにして神の国は広げられていくからです。

また、同じように、私たちが生きている限り、問題がなくなることはありません。

しかし、それでも生きていくことに意味があります。

問題が問題ではありません。

すべてのマイナスは必ずプラスになります。