コロサイ 2:1-15

「私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。」(2:2)

パウロが、このコロサイ人への手紙を書いた理由の一つは、コロサイのクリスチャンたちが、励ましを受けるためでした。

私たちは、みな、励ましが必要です。

教会は互いに励ましあうために存在しています。

聖書は言います。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:25)

また、パウロがこの箇所で言いたいことは、神の奥義、隠された計画は、イエス・キリストであるということです。

キリスト教はキリストです。

聖書は単なる人生のハンド・ブックではなく、神の啓示です。

イエス・キリストを知ることです。

いも3種

なかなか寒くならなかったので石油ストーブも出番がなく、大好きな焼き芋を作ることができませんでしたが、ここにきてようやく冬らしい気温となり喜んでいます。

シルクスイート、紅はるか、紅あずまの3種の芋をスタンバイ。

日本にはおよそ40種類のサツマイモがあるそうなので、ききサツマイモなんてやったら楽しそうですね。

そしてサツマイモといえばいきなり団子!

今年もクリスマスマーケット(12月16日午後2時から本郷台駅前広場にて)で販売します。

HOPもブースを出してコーヒーを出す予定ですしステージでは栄シャロームのワーシップチームがバンドで、またトリオでクリスマスキャロルを歌う予定でこちらも絶賛練習中。

PAの担当も栄シャロームです。

限られた人数で精一杯頑張るという感じです。

わたしも何か手伝えるよーという方がいたら教えてください。

みんなの体調が守られるようお祈りください。

そして栄区の方々にそれぞれの働きを通して神様の愛と恵みが流れて行きますように、お祈りくださいね。

事故やトラブルからも守られ、祝福いっぱいの1日となりますように!

(小山晶子牧師婦人) 

コロサイ 1:21-29

「私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」(1:25,26)

パウロは教会を「キリストのからだ」(24節)と言いました。

イエス・キリストがこの世界で、見える形でご自身を現しているのは教会だからです。

ですから、見えない教会(普遍的な教会)だけでなく、見える教会(地域教会)の存在は大切です。

地域教会は世界の希望です。

教会が世界の希望である理由は「神のことばを余すところなく伝えるためです」。

神のことばには力があります。

聖書六六巻、創世記から黙示録まで、余すところなく伝えていくのは教会の役割です。

私たちは、神のことばで、この地を満たす使命があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

コロサイ 1:9-20

「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」(1:15)

キリスト教は『イエス・キリストについて』です。

15–20節は「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会で歌われていた讃美歌だと考えられています。

イエス・キリストがどのようなお方か、神がこのお方を通して何をなされたかが歌われています。

御子は、見えない神のかたち」という意味は、神がどういう方かを知りたければ、聖書を開いて、イエス様のことについて調べれば、父なる神がどういう方か知ることができるということです。

神のご性質(キャラクター)は完全にイエス・キリストの中に啓示されています。

聖書が教える神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

すべての造られたものより先に生まれた方」をメッセージ訳ではこう訳しています。

私たちはこの御子を見て、創造されたすべてのものに神の本来の目的があることを知ります。」

コロサイ 1:1-8

「コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。」(1:2)

コロサイはエペソの南にある都市で、温泉地でした。

パウロはコロサイの町には行ったことがありませんでした。

忠実な兄弟たち」はイエス・キリストを信じている仲間たちと訳せます。

要するに、同じイエス・キリストを信じている仲間という意識からパウロはこの手紙を書いているということです。

私たちも、イエス・キリストを信じている仲間たちが、全世界にいることを覚え、互いに祈りあい、支えあう必要があります。

宮平師はこの箇所をこのように解説しています。

「キリスト者はコロサイにいようと、その他のどの地にいようと、常に『キリストの内にいる』ことがキリスト者の証として最も重要なことである。」

キリスト者とは、どこにいても『キリストの内にいる』ことです。

ゼパニヤ 3:9-20

「わたしはあなたのただ中に、へりくだった、貧しい民を残す。彼らは主の名に身を避ける。」(3:12)

ゼパニヤの「主の日」は、へりくだった残りの者こそが、新しい時代の担い手となると告げています。

主の審判を乗り越えた「残りの者」は、もはや自分により頼むおごり高ぶる者ではないからです。

西満師はこのように言います。

「残れる者とは、『へりくだった』者であり、『寄るべのない』(弱い、貧しい、低いの意)民で、彼らはただ主ヤハウェにのみ身を避けるのです。逆に言うならば、『高ぶり』こそ罪の根源であり、彼らは富や知恵などの自己の力に頼り、外国との同盟に頼ったりするのです。」

「主の日」は自分ではなく神に信頼する者にとっては神の愛に感動する日になります。

「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(17節)

ゼパニヤ 3:1-8

「わたしは言った。『あなたはただ、わたしを恐れ、戒めを受け入れよ。そうすれば、わたしがこの都をどれほど罰しても、その住まいは断ち切られない。確かに彼らは、繰り返してあらゆる悪事を行ったが。』」(3:7)

イスラエルの問題、それは傲慢でした。預言者は言います。

「呼びかけを聞こうともせず、戒めを受け入れようともせず、主に拠り頼まず、神に近づこうともしない。」(2節)

「おごり高ぶって、神の声にさえ耳を貸そうとしない。」(LB)

ことがあらゆる罪の根源です。

自分が神のようになって、自分が絶対になると、人は誰の言葉も聞こうとしなくなります。

恐ろしいことは、時代を超えて、文化を超えて、今も神の言葉として語り続ける聖書の言葉よりも、自分の方が賢いと考えてしまう愚かさです。

聖書は警告します。

「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(1コリント8:2)

ゼパニヤ 2:4-15

「これは彼らの高慢のためだ。彼らが万軍の主の民をそしり、これに向かって高ぶったからだ。」(2:10)

「主の日」の神の審判はイスラエルだけでなく、その周辺国にも預言されます。

その理由を十節でこのように記します。

「これは彼らの高慢のためだ」。

聖書は言います。

「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。」(1ペテロ5:5)

ですから、「主の日」は謙遜にさせられる日とも言えます。

自分に絶望し、神に白旗を上げる日です。

私たちは、対岸の火事のように考えるべきではありません。

なぜなら、私たちも皆、へりくだって、神に白旗を上げ、神が必要であることを認める必要があるからです。

私たちは、自分は関係ないと考えるべきではありません。

「主の日」は、「御怒りを受けるべき」日でした。

しかし、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことによって、「その日」は「救いの日」となりました。

ゼパニヤ 1:14-2:3

「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。」(2:3)

ゼパニヤ書の中心メッセージは「主の日」です。

それは「裁きの日」です。

それは、「主の大いなる日」(十四節)、

「その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。」(十五、十六節)、

「主の激しい怒りの日」(十八節)、

「主の怒りの日」(二・二)、

「主の怒りの日」(二・三)。

このように、神がその民にくだす審判の時のことです。

ゼパニヤ書で神の審判は、軍事攻撃によってもたらされるエルサレムの滅亡として描かれています。

このような状況で預言者は民に三つのことを求めるように勧めます。

それは

①主ご自身、

②義、

③柔和さ。

主を求め、正しいことを行う謙遜な者を神は憐れまれます。

感謝礼拝2023

きょうは十一月最後の日曜日。

今年もみなさんと一緒に主の恵みを覚える感謝礼拝をお捧げできることを嬉しく思います。

どんな一年でしたか?

わたしはとにかく忙しかった!

という印象が強い一年でした。

コロナの影響から少しずつ解放されて行えることが増え、教会の動きもコロナ前に近くなったことで日常を取り戻しつつあると同時に、リラが結成30周年の記念の年ということでレコーディングやコンサート活動、それに伴う話し合いや準備など 目まぐるしい日々でした。

まさに一日一生、その日その日を精一杯生きたという感じです。

祈り支えていただき本当にありがとうございました。

その中でも特に感謝だったのは、父が6月に洗礼を受けたことです。

クリスチャンだった祖父の祈りが結実した瞬間に立ち会うことができたことは、神様からいただいた特別ボーナスだったと思います。

私たちの想いや計画をはるかに超えた主の御業を、リアルタイムで見せていただきました。

数えきれない恵の中で生かされたことを感謝しつつ、このサンクスギビング・デイに主に心からの礼拝をお捧げしたいと思います。

(小山晶子牧師婦人)