マルコ 3:20-35

「しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(3:29)

イエス様がなされていた病気のいやし、悪霊の追い出しというのは、神の国が到来していることのしるしでした。

「強い者の家」とは、この世におけるサタンの支配のことです。

「強い者を縛りあげる」とは、サタンに対する勝利を示す表現です。

イエス様が悪霊を追い出していることは、まさに、この世におけるサタンの支配は終わり、神の王権支配が始まったということです。

だからこそ、「神の国の到来」のしるしを、悪魔の業だと宗教指導者たちが群衆を誘導しようとしたことに対して、イエス様は、強く言われたのだと思われます。

これこそ、「永遠に赦されない罪」だと。

ちょうど、医者が「いのちを救う手術」を執行することを提示しているのに、「あれは、残虐な殺人だ」と誘導しようとしているのと同じことだからです。

こころのざわめき

元旦礼拝後、皆さんを見送りちょうど片付けがひと段落した頃だったでしょうか。

カタカタと何かか動く音、ゆらゆらと揺れるハンガー。

あれ?なんとなく地面も揺れてるような気がする、、、いつものトラックの揺れとは違う感覚に地震だと気づきましたが、日本海側でまさかこんな大地震が起こっているとは思いもしませんでした。

今もなおライフラインの途絶えた場所で過ごしておられる方々のことを考えると言葉もありません。

HOPの理事である梶山先生は石川県輪島市の出身です。

数日前、救援物資を届けると共に連絡が取れない親戚の方々の安否確認のため現地に向かったことを知りました。

いまなお余震が続く現地での活動が守られることを祈るばかりです。

このような状況を踏まえ、今月の宣教献金は今回の地震で被害を受けた教会や現地での支援活動、物資調達のための献金とさせていただきたいと思います。

こころのざわめきはまだまだおさまりそうにありませんが、神様がこの国を憐れみ、希望の光で照らしてくださることをみんなで心を合わせて祈りたいと思います。

(小山晶子牧師婦人)

マルコ 3:7-19

「彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(3:15)

悪霊につかれると人は人間らしさを失います。

「悪霊を追い出す権威」とは、人間らしさの回復をもたらす権威です。

神は人を「神のかたち」(imago dei)に造られました。

しかし、人は「自分が神」かのようにふるまうことによって「人間らしさ」を失いました。

「私がこの世の中心」、「自分が良ければいいんだ」という個人主義。

「大切なのは物質だけ」という物質主義。

「私たちは神だ」というニューエイジ。

これらは人間らしさを失っている状態です。

「神のかたち」の回復とは人間らしさの回復です。

「人間らしさ」は神を神として認識する、神に創造された被造物であるという自覚から始まります。

弟子たちに与えられた権威とは「神の国」の権威です。

イエス・キリストの十字架の御業を宣べ伝えることによって行使される権威です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 2:23-3:6

「ですから、人の子は安息日にも主です。」(2:28)

イエス様のポイントは、イエス様ご自身の「権威」についてです。

「人の子」とは、当時のユダヤ人たちが認識していたダニエル書七章に出てくる「メシア」のことです。

「人の子」が来て王座につく、それが神の国のはじまりのしるしということです。

イエス様はどんな人も「安息日の主」だと言ったのではありません。

「人の子」、「メシア」が「主」、すなわち、権威ある「統治者」だと言われたのです。

まさに、人類を抑圧するどんな規定よりも、イエス様は権威があると言われたのです。

イエス様の言動、その背後にあるのは、「わたしこそメシアである」という宣言です。

「人の子は安息日にも主です。」と言われた真意は、聖書の神は「絵にかいた餅ではない」ということです。

イエス・キリストは今も生きて働かれています。

私たちの弱さをご存じで、私たちの祈り、叫びを聞いてくださり、応えてくださるということです。

マルコ 2:3-22

「イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」(2:14)

レビは有料道路の料金所のようにローマ帝国のために通行税を徴収していました。

ですから、レビは、収税所に座り、通行税だけではなく、人々の怒り、不満も、受け取らざるをえませんでした。

しかし、そこに、イエス様が来られました。

イエス様はレビを、やさしいまなざしで見つめ、「わたしについて来なさい。」と言ったのです。

レビを、ゴミのようではなく、「一人の人」として扱ってくれたのは、イエス様がはじめてだったかもしれません。

この世がどんなに私たちの存在を否定しても、イエス様は、私たち一人一人を、高価で貴い、大切な存在だと言われます。

嫌われ者のレビに、「わたしについて来なさい。」と言われたイエス様は、私たち一人一人を、大切な存在としてお声をかけてくださるお方です。

マルコ 2:1-12

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」(2:5)

「中風」(『脳出血などによる半身不随、手足のまひ等の症状』LB)の人の友人たちは、彼を癒したいという切なる思いと熱心さがありました。

彼らはイエス様のところへ運ぶために、イエス様がおられる辺りの屋根を剥がして穴をあけ、寝床をつりおろしました。

イエス様は、そんな彼らの信仰を見て、「罪の赦し」を宣言されました。

イエス様は表面的な解決ではなく、根本的な解決を与えられました。

イエス様は私たちの王として、私たちの人生全体を気にかけておられます。

肉体的な中風だけでなく霊的な中風も癒したいのです。

私たちの肉体だけでなく、私たちのたましいも健全にしたいのです。

私たちも同じ熱心さを持って、今年、家族、友人、知人をイエス様がおられるところへと運んでいこうではありませんか。

私たちは祈りをもって運んでいくことができます。

マルコ 1:35-45

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」(1:41)

「ツァラアト」(『皮膚が冒され、汚れているとされた当時の疾患』LB)に冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願しました。

「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」(40節)

「お心一つで」という意味は

「イエス様がそう願われるならば」、

「みこころならば」

という意味です。

この「ツァラアトに冒された人」の根底にあったのは、

「イエス・キリストにはできる。」

「私はイエス・キリストが必要だ。」

ということでした。

この信仰が求められています。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

神は求める以上に答えられるお方です。

彼はイエス様の手のぬくもりとからだの癒しを体験しました。

マルコ 1:16-34

「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」」(1:7)

イエス様の言葉は、神がアブラハムに言った言葉を連想させます。

「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

アブラハムも、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネと同じように、安定も安心も家も捨て置いて、言われたとおりにしました。

アブラハムは、父の家を出て、神が示す地へと向かったのです。

弟子たちの召命のストーリーはこのアブラハムのストーリーをほのめかしています。

つまり、ここでイエス様がなされたことは、

「『神』が新しいことをなされている」、

「神の民」を召されているということです。

アブラハムの子孫が、イスラエルの民となります。

神は私たちに信仰を求められるお方です。

信仰の一歩を踏み出すならば、神の偉大な御業を見ることになります。

マルコ 1:1-15

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(1:1)

当時の公用語であったギリシア語の「福音」の意味は「新しい皇帝が即位する知らせ」のことでした。

また、当時のローマの貨幣は、皇帝を「神の子」(DIVI F)と刻んでいました。

ですから、先が見えない迫害の中にいたキリスト教徒たちに「神の子の福音」と記したことに、大きな意味があります。

ローマ帝国の使者は「ティベリウスが皇帝に即位した。この方に忠誠を尽くしなさい」と告げました。

福音書はそれに対して「イエス・キリストがまことの王となられた。この方に忠誠を尽くしなさい」と告げます。

実際、当時のキリスト者たちはこう訴えられました。

「彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」(使徒17:7)

これはつまり、富と力がすべてというローマの支配に対して、信仰と希望と愛というキリストにある支配を告げ知らせていたということです。

大晦日

今年は珍しい。12月31日が日曜日なんて。

きょうが今年最後の日ですが、新しい年を迎える準備はもうできましたか。

この一年を振り返る時間もないままに新年を迎えるということがないようにしたいものですが、どんどん速くなってゆく時間の流れに少々戸惑っています。

この一年、何ができたんだろう。

神様の御心を第一に歩めただろうか。

振り返ろうとしても忘れてしまっていることも多くて。

しかも正直なところわたしの心は様々な状況の中で不安、恐れ、落ち込みの中にあります。

いつも喜び絶えず祈り全てに感謝することが難しい中で、葛藤しながら過ごしています。

こんな時は「聴くドラマ聖書」を流しながら詩篇77篇11節-12節を実践するのが一番。

『私は、主のみわざを思い起こそう。
 まことに、昔からの
 あなたの奇しいわざを
 思い起こそう。
 私は、あなたのなさった
すべてのことに思いを巡らし、
あなたのみわざを、
静かに考えよう。』

(小山晶子牧師婦人)