マタイ18:10-35

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(18:19,20)

一人で祈ることができないわけではありませんが、聖書は、共に心を一つにして祈ることを勧めています。信仰生活は気を付けないと独りよがりのものになりかねません。自分だけが正しいと思いあがることは危険なことです。常に、謙遜に他者から学ぶ姿勢が必要です。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

とイエス様はおっしゃられました。イエス様がおられる場所は、謙遜に、祈り合う共同体です。

マタイ17:14-18:9

「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」(18:5)

キリスト教会にとって子どもへの配慮は頭なるイエス様の命令として心に留める必要があります。何よりも子どもたちの背後には天使がいると言います。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(18:10)

子どもたちを歓迎する時、私たちはキリストを歓迎していることを心に留めたいと思います。

マタイ16:21-17:13

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」(16:23)

「人のことを思っている」と訳された「人」は複数形なので、岩波訳では

「人間のことがら」

と訳しています。つまり、イエス様はペテロの発言は、イエス様のことを気にかけているものではなく、人間的なものだと言います。ペテロの発言の背後には当時のユダヤ教の熱烈な政治的メシア(キリスト)像があります。反乱軍の指導者となるような人物が、そんな不吉なことを言っていてはダメじゃないですかと。軍事的メシヤ像、これが「サタン」が導こうとした方向でした。イエス様は言われます。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊がいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)

マタイ16:1-20

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(18節)

ペテロの

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)

という信仰告白は、神様から直接的に与えられた啓示だとイエス様は言います。そして、この啓示の上に、イエス様は、イエス様の教会を建てると言われました。イエス様は、今も生きて働かれている神の御子であり、イエス様の教会はイエス様が建て上げられているということを私たちは認識する必要があります。教会は単なるコミュニティ・サークルではありません。「わたしはわたしの教会を建てます」とおっしゃられる生ける神イエス・キリストが頭である限り、教会に打ち勝てるものはありません。

マタイ15:10-39

「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(28節)

イエス様のカナン人の女の人に対する言葉には人種差別的発言を感じます。

「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(26節)

イエス様はどうしてそのようなことを言われたのでしょうか。

イエス様と共にいたユダヤ人たちは、イエス様と同じ思いだったことでしょう。

彼らにとってユダヤ人以外の異邦人は「小犬」のようなものだったことでしょう。

「よく言った!」

と思ったことでしょう。

しかし、それに対する彼女の発言、そして、彼女の信仰告白をほめるイエス様の姿に彼らは言葉を失ったことでしょう。

そして、彼らは知ったことでしょう。

人は信仰によって救われるということを。

マタイ14:22-15:9

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」(15:3)

「言い伝え」とイエス様が指摘したのは成文律法(モーセ五書)とは別に後のユダヤ教の基盤となった口伝律法のことです。ユダヤ教のラビたちは、イスラエルと異邦人を区別するために、書かれた聖書と口伝のミシュナを神様はモーセに与えたと教えました。しかし、イエス様ははっきり言いました。

「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」(9節)

「先祖たちの言い伝え」はその時代には意味があったとしても、時と共に見直す必要があるものです。伝統主義は、気を付けないと神の戒めを破ることになります。私たちは聖書のみに立ち、刷新され続けなければなりません。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ14:1-21

「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」」(1,2節)

国主ヘロデとは、ヘロデ大王の息子で、三九年までガリラヤ地方を治めていたヘロデ・アンティパスです。バプテスマのヨハネはただ神様だけを恐れて生きていました。しかし、権力者のヘロデは、群衆を恐れ(5節)、列席の人々の目を恐れ(9節)て、ヨハネを殺害します。そのため、ずっと自分がしたことに対する後悔の念に縛られ続けます。(2節)神様だけを恐れ、神様のみこころに生きようとする人を神様は捜しています。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16:9)

マタイ13:36-58

「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(45,46節)

本当に価値があるものを知るならば、それ以外のものは色あせてしまいます。神の御国の素晴らしさを味わったのであれば、同じように、それ以外のものは色あせてしまうものとなるはずです。使徒パウロも言いました。

「主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。」(ピリピ3:8LB)

マタイ13:18-35

「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(31,32節)

からし種は本当に小さい種です。しかし、大きな木になります。神の国の働きも、本当に小さな働きのように見えます。しかし、必ず生長します。ですから、神の国のためのどんな小さな働きも私たちは軽視すべきではありません。神様は言われます。

「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。」(ゼカリヤ4:10)

私たちが参与している神の国の働きは、今は目立たない、小さく、隠されたような始まりかもしれませんが、必ず実を結びます。その時の栄光と偉大さは、現在の小さな存在から想像もつかないものとなります。

マタイ12:46-13:17

「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」(13:16)

こうして神様のみことばを読むことができる幸いを私たちは当然のことのように思うべきではありません。イエス・キリストがこの地に生まれ、私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられたことの幸いを当たり前のように思ってはいけません。使徒パウロは、

「イエス・キリストは律法を完成(成就)しました」(ローマ10:4)

と言いましたが、イエス・キリストの福音に生きることができる私たちは、預言者や義人よりも祝福された者です。また、こうして教会に属すことができ、共に礼拝を捧げる神の家族が与えられ、共に聖書を読むことが出来る幸いに心を留めたいと思います。