ルカ24:1-35

「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」」(24:32)

燃えるような心は、イエス・キリストとの人格的な関係の中で生まれてくるものです。イエス様に対する情熱を失っていると感じている時というのは、たいてい、イエス様との人格的な交わりの時間を失っている時でもあります。私たちはただ消費するためにこの世に生きているわけではありません。神は私たち一人一人を目的をもって造られました。しかし、神の使命に生きていくためには、神からの燃えるような思い、情熱(パッション)が必要です。それは、日々の神との関係から生まれてくるものです。神のみことばである聖書を読んでいる時に、聖霊なる神は語られ、私たちの心はうちに燃えるのです。
「主よ、私たちの心をもう一度燃え上がらせてください。あなたの情熱で私を燃やしてください。」

ルカ 23:26-56

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(23:34)

イエス様は、自分をあざけり、罵る人々を前にして、何も言い返すことはありませんでした。日本的には、「無念」という場面ですが、イエス様は違いました。それでもなお、目の前で罵声を浴びせるその人々を愛し、とりなしの祈りをされたのです。自分に対して、いいことをしてくれる人のために祈ることはそんなに難しいことではありません。しかし、自分を傷つける人のために、裁きが下るようにではなく、とりなしの祈りをするということは、とても難しいことだと思います。しかし、神の霊はそのような人々のために祈るように私たちを導き、力を与えてくださるお方です。なぜなら、まさにイエス様をあざけっていたのは私たちであり、イエス様の恵みのゆえに私たちは今があるからです。

CGNTV

小山英児牧師の説教がCGNTVビジョンタイムという番組で放映されています。

番組名: 小山英児牧師のビジョンタイム
放送開始日: 2018 年 4 月 17 日(一週間に一編ずつ放送)
■本番放送 毎週火曜日 朝10:40
■再放送 木曜日 昼 3:30、 金曜日 夜 10:20
視聴方法: 衛星放送(専用アンテナ)・インターネット LIVE 放送・モバイルアプリによる LIVE 放送
■インターネット: http://japan.cgntv.net ■アプリ(Apple):http://apple.co/1KKMnOA ■アプリ(Google play):http://bit.ly/1IiR7VL
映像アップロード:放送日の翌日以降にホームページへ映像がアップされます

ルカ 22:63-23:25

「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」(23:23)

イエス・キリストの十字架は、多数決によって決められました。ローマ帝国の権威をもってエルサレムの地域を治めていたピラトは、イエス・キリストに罪を認めず、釈放しようとしました。しかし、群集の声に彼は負けたのです。私たちは民主主義を美化しすぎて、その弱点を忘れないように気をつける必要があります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」という側面が民主主義にあります。多数がいつも正しいとは限りません。少数意見の方が正しいこともあります。私たちはマス・メディアによって作り出される多数派の意見に振り回されるのではなく、神の御言葉を優先するように気をつける必要があります。残念ながら教会の歴史は人間の主張が勝ち、混乱してきました。教会が人間の声ではなく、神の声が勝つ場所となりますようにお祈りください。

ルカ 22:39-62

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(42節)

イエス様は十字架にかかられる直前、ゲッセマネの園で祈られました。もし十字架以外に人が救われる方法があるならば、それに変更してくださいと。しかし、他に方法はありませんでした。使徒パウロは言います。

「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。」(ガラテヤ5:11)

十字架のつまずきは、十字架以外に救いの道はないということです。人は、自分のやり方でも救われるはずだと考えたいのです。他にも方法があると考えたいのです。しかし、他にも方法があるのならば、神の御子が十字架で苦しみ死ぬ必要はありませんでした。十字架だけが神のもとに行くことができる道です。

ルカ 22:1-38

「イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。」(22:10)

水がめを運んでいる男は、別に、天使が現れて水がめを運ぶように命じられたわけではないと思います。いつものように、自分が与えられた仕事を忠実に行っていただけだと思います。興味深いことは、神がそんな日常の仕事を用いられたということです。水がめを運んでいた人は、そんなことを意識さえしていなかったと思います。神は、私たちが行っている日常の仕事をも用いて神の栄光を現わされます。私たちが今日行う一挙手一投足が、神の栄光のために用いられるかもしれません。そのことを意識して、今日一日、与えられた仕事を誠実に行っていこうではないでしょうか。

リラ新CD発売!

リラ通算10枚目となる新しいアルバムCDが完成しました。帯には『グループ結成から25年。その歩みを振り返り、もう一度メンバー一人一人の思いを込めて今なお歌い継がれている初期の楽曲を中心に全曲再収録した記念アルバム』ひえー!25年!!びっくりです。そんなに時間がたったなんて。今回、最初期の曲を録り直す中で何度も泣きそうになりました。苦しかった時、孤独だと思っていた時、居場所がないと感じていた時、イエス様はいつもともにいてくださったことを改めて感じたからです。『この道は一つ』という私自身大好きな曲も収録されているのですが、あの頃の私と同じ歳になった息子がバイオリンでこの曲をCDの中で奏でていることが何とも不思議な感覚で、聴きながら泣けてきてしまいました。神様の変わらない真実の愛の中で私たちが生かされていて、主に信頼する者は決して失望させられることがないことをこのアルバムを通して多くの方々に感じていただけることを祈っています。栄光在主。(小山晶子牧師婦人)

ルカ 21:5-38

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(21:34)

日々の生活の中で、イエス様を見失う時、私たちの心はこの世の煩いのために沈み込んでしまうということがあると思います。イエス様から目を離してしまう時、生活の思い煩いで押しつぶされている自分を見ることがあると思います。そんな時に、突然、携挙は起こると言います。それでイエス様は忠告します。

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(36節)

その日が、いつ起こっても良いように、私たちはいつも目を覚まして祈る姿勢が必要です。思い煩いを主に委ねて、祈り続ける姿勢が必要です。
今日は主の日。目を覚まして、共に、主に礼拝を捧げましょう!

ルカ 20:27-21:4

「また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。」(21:2)

イエス様は

「献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた」(1節・新改訳2017)

とあります。献金はしてもしなくてもいいものではありません。私たちが捧げる姿をイエス様は見ておられます。レプタ銅貨は、最小単位の銅貨で一日分の労賃の一二八分の一に相当します。(レプタ銅貨二枚は128円ぐらい?) ちいろば先生はこんなことを言っています。

「献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくる感謝でなければならない。(中略)この寡婦の献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰の告白であったから尊い。」

「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

とおっしゃられる主は、私たちの信仰をご覧になっています。

ルカ 19:45-20:26

「こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」(46節)

これはエルサレム神殿の異邦人の庭と呼ばれる場所が舞台です。もともと異邦人の庭は、神殿に入ることのできない外国人が礼拝を捧げるための場として設けられていましたが、当時この場所では神殿に捧げるものが簡単に用意できるようにと、祭司主導で商売が行われ、とても外国人が礼拝できるような状況ではありませんでした。もっとも、それは商業的な理由と言うよりも国粋主義的な理由がありました。実は、「強盗」と訳された単語も「革命ゲリラ」という意味があり、イエス様のポイントが民族主義だったことを垣間見ることができます。祭司たちは外国人が神殿に来て祈れないようにしたのです。イエス様が引用されたイザヤ書には明確にこう記されています。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(56:7)