ヨブ記 1:1-3:26

「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(2:10)

ヨブ記のテーマは

「正しい人がどうして苦しむことがあるのか」

だけではありません。

「人が正しく生きようとする動機は何か」

ということです。サタンはご利益があるから人は正しく生きようとすると挑戦します。財産も健康も失ったヨブに、ヨブの妻は言います。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(9節)

しかしヨブは、妻をいさめ、罪を犯すようなことを口にしませんでした。彼の正しくあろうとした動機がご利益ではなかったからです。自分の人生の中で何か悪い事が起きた時、私たちは神を被告席に立たせ、いろいろと責めたてます。しかし、ヨブは違いました。すべてを神の御手にゆだね、神の主権を認めたのです。神が創造主であり主権者で、私たち人間は被造物であり、受け手側であることを認めたのです。神は神、人は人と。

創世記 49:1-50:26

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。』こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」(19‐21節)

ヨセフの兄弟たちは父の死後、彼らがヨセフにした悪のゆえに仕返しされるのではと恐れていました。しかし、ヨセフは兄弟たちを恨むどころか、神が悪を、良いことのための計らいとされた、神がマイナスをプラスにしてくださったと言いました。いつまでも恨みを持ち続け心を病むこともできます。ヨセフのように、いつも喜び、たえず祈り、すべてのことに感謝し、神がマイナスをプラスに変えてくださる世界を体験することもできます。私たちの神は、マイナスをプラスにしてくださる神です。

創世記 47:13-48:22

「それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(48:15)

ヤコブは、ヨセフの子供たちを祝福する祈りの中で、

「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」

と神を呼び、祝福しました。詩篇23篇に、

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

と記されています。ヤコブは体験からも、神が羊飼いであるならば、乏しいことはないということを知っていたので、そのように祈ったのだと思われます。イエス・キリストは言われました。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

イエス様は文字通り私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。そして死を打ち破り、よみがえられました。今も生きておられます。今、イエス様は私たちの良い羊飼いとなって導いてくださいます。

創世記 45:1-47:12

「ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。」(47:11)

パロがヤコブに「あなたの年は、幾つになりますか。」(8節)

と尋ねられた時、彼はこう返答しました。「

私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(9節・新改訳二〇一七)

ある聖書学者はこれは慣用句的な表現で、彼の本心と言うよりも謙遜にそう返答したのではと言います。しかし、確かに彼の人生はまさに波乱万丈でした。そんなヤコブの老後を待ち受けていたのは、「最も良い地」でした。神は、最終的に「最も良い地」に彼を導いたのです。神は最終的に私たちを必ず最も良い地に導いてくださいます。苦しみ多い人生に思えても、神の導きに従って生きていくならば、最終的には最も良い地に導かれます。

創世記 43:1-44:34

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(44:33)

聖書学者の服部師は、この箇所をこう解説しています。

「ヨセフが最終的に確認したかったこと、知りたかったことは、かつて自分を遠くへ売りとばした兄弟たちが、老いた父を中心に仲良く生きているかどうかということであった。すなわち、兄弟愛であった。」「ユダは、弟ベニヤミンを案じ、懇願するようにヨセフに迫って訴え、論じ、結論的には弟ベニヤミンの身代わりになってもよいからベニヤミンを年老いた父ヤコブのもとに帰らせてやってくれるようにとヨセフに求めるのである。」

聖書は言います。

「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)

神の国にはこのような兄弟愛が必要です。

創世記 41:41-42:38

「彼らは互いに言った。『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。』」(42:21,22)

罪責感は私たちの人生を狂わせます。心理学者によりますと、罪責感は罰を求めて自傷行為など私たちの身体に影響を与えると言います。聖書は罪責感が神との関係を壊して、神の御声を聞けなくさせ、神の臨在を感じなくさせると言います。ヨセフの兄弟たちは二〇年間、罪責感に悩まされ続けました。謝罪できるならば謝罪をし、弁償できることは弁償し、罪を清算し、和解することも大切なことです。いずれにせよ、まず、神に罪を告白することが大切です。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

マントヒヒ

みなとみらいにあるワールドポーターズについ最近イギリス発祥の大きなおもちゃ屋さんがオープンしました。赤が基調となっていて、見ているだけで楽しい新たな万歩計増スポットとなりそうです。お正月明けに歩きに行ったとき、福袋が販売されていることに気付きました。値段も手ごろで、しかもクマのぬいぐるみが必ず2つとtyのぬいぐるみ一つ入っているということで購入してみました!クマの方はとってもかわいかったのですが、tyの方はピンクの目に水色の口、鼻は赤くて首は黄色というなんとも不気味なマントヒヒ、、、。どうしてこういう配色にしたんだろう。正面に向けて飾るととても気持ち悪いのでとりあえず後ろ向きにしています。好みってホントに違うんだな、とこのマントヒヒを見て改めて思いました。これがいいと思って作った人がいるんですよね。自分の感覚や感性だけに固執せず、広い視野で物事を見ることをマントヒヒから教わった一月のある日。そのすべての源である神様の感性の豊かさ、深さは私には想像もできません。   (小山晶子牧師婦人)

創世記 40:1-41:40

「ヨセフはパロに答えて言った。『私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。』」(41:16)

神に用いられる人は神に栄光を帰す人です。神は確かに夢を解き明かす賜物をヨセフに与えました。しかし彼はそれは神の御業であることを理解していたので、自分の栄光にすることはしませんでした。ヨセフは自分ではなく神に栄光を帰したのです。バプテスマのヨハネは、人々が彼の所から離れてイエス様の所にいくのを心配した弟子たちにこう言いました。

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:27,30)

彼もまた、「私ではありません。」と、自分にではなく神に栄光を帰しました。

「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

創世記 38:1-39:23

「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(39:23)

ヨセフは無実の罪で捕えられ、監獄に入れられてしまいます。しかし、聖書は言います。

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(21節)

神は監獄の長がヨセフに好意をもつようにされたと言います。そして、ヨセフがすることは何をしても成功させてくださったと言います。聖書は明確にその理由を、主が彼と共にいたからだと言います。聖書の神は祝福の神です。人々からの好意を受けることができるようにしてくださるお方です。何をしても成功するようにしてくださるお方です。ヨセフと共におられた主は、今も、イエス・キリストを信じる者と共におられます。することなすこと、みな成功します。イエス様がご一緒ですから。