ローマ 10:5-11:10

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」(10:8)

パウロは申命記30:14

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

を解説しています。あなたの近くにある「みことば」とは、

「私たちの宣べ伝えている信仰のことばのこと」

だと言います。「あなたの口」にあるとは、

「あなたの口でイエスを主と告白」

するということ、「あなたの心にある」とは、

「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」

ということ。つまり、旧約聖書の律法で求められていた内容は、私たちの宣べ伝えている信仰のことばと同質であったと言うのです。ですから、申命記30章の真意こそ聖書のメッセージ(説教)なのです。

ローマ 9:22-10:4

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(10:4)

「終わらせた」という単語を、新改訳2017では「目指すもの」と訳しました。「テロス」という単語が使われていますが、徒競走の「ゴール」という意味があります。そのレースの完了という意味があります。ですから、「キリストが律法のテロス」という意味は、

「キリストが律法を完了した(成し遂げた)」

という意味があります。同時に、ゴールは、レースの目標地点であり、目的でもあります。ですから、「キリストが律法のテロス」という意味には、

「キリストが律法の目標、目的」

だったという意味もあります。ここで言う「律法」とは、神がイスラエルの民に与えた、イスラエルが神の民であるということを示す、神からの戒めのことであり、単純化するならば、「旧約聖書」のことです。旧約聖書が指し示していた内容が、イエス・キリストによって成就したということです。

ローマ 9:1-21

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(21節)

9章から11章まで、

「神のみことばが無効になったわけではありません。」(6節)

というテーマで、イスラエルについて言及されています。ローマ書の中心はこのセクションにあると多くの学者は言います。パウロは、神のイスラエルに対する扱いに関して、エレミヤ書18章に出てくる陶器師の比喩を用います。陶器師の力は破壊力ではなく、再生力です。器がどうであれ、陶器師は造り直す力があります。エレミヤの預言は、イスラエルへの裁きの預言ですが、同時に、悔い改めるなら災いを思い直すと言います。裁きが宣告されている中でも、神の民イスラエルに対する神の愛が継続していると言うのです。神のみことばが無効になることはありません。

ローマ 8:18-39

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(8:28)

前節を直訳すると、

「御霊が聖徒たちのために、神に対して、とりなしているからです。」

となります。ですから28節も

「聖霊がすべてのことを働かせて益としてくださる」

と訳すべきだと思います。今、キリストを信じる者は、聖霊の助けがあります。なんと祈っていいか分からない時、神のみこころにとどまれるように、聖霊がとりなしています。だから私たちは、聖霊が、すべてのことを共に働かせて善へと至らせるように働いてくださっていると確信します。聖霊の助けが必要であることを認め、膝を屈め祈りに導かれるならば、祈りの中で、聖霊が私たちを守り、すべてのことをプラスへとしてくださいます。患難は忍耐に、忍耐は練られた品性に、練られた品性は、希望に。この希望は失望に終わりません。

ローマ 8:1-17

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(11節)

教会は聖霊が住んでおられることに意味があります。ライト教授はこのように言います。

「聖霊と教会の務め。この二つは共に手を携えていく。別々に語ることはできない。いまより少し前の世代のクリスチャンは、新しい霊的体験に興奮した。そこから連想されるかも知れないことだが、神は、『ディズニーランドの一日』のような霊的楽しみを与えるために聖霊を与えているわけではない。…聖霊が与えられる目的は、イエスに従う者たちが次のようなニュースを携えて、全世界に出て行くためである。すなわち、イエスは主であり、悪の力に打ち勝ち、新しい世界が開かれる。…教会の務めも聖霊なしには果たされない。…神の霊なしに教会は教会ではあり得ない。」

不惑

この漢字、読めましたか?

いえ、読めたとしても意味をご存知でしたか?

「ふわく」と読むのですが、わたし、実はこの言葉を知らなかったんです。先週の朝のNHKニュースの中で40歳・Jリーグ一年目という方を取り上げていたのですがそのタイトルが「不惑」だったのです。くやしいので調べてみました。

①ものの考え方に迷いがないこと。

②(論語より)40歳のこと。

なるほど。勉強になりました。

知らないことって多いです。

「無知の知」というソクラテスの言葉にもあるように、自分は知らないということを自覚することは、学ぶ上でとても大切だと思います。小さいころから教会学校に通っていた私は聖書の話を先生よりも知っている!と錯覚し新人の先生をいじっていた嫌な感じの生徒でした。でも知識として知っていることと体験を伴った受肉した知識とには天と地ほどの差があることをこの歳になって痛いほど感じています。本当の意味で聖書の御言葉を知り、その中に生きていくものでありたいと願っています。

今週も暑さに負けず頑張りましょう!(小山晶子牧師夫人)

ローマ 7:7-25

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節)

「この私」をパウロと考えて、この七章の内容はパウロが救われる前の話か、それとも救われた後の話かという議論がなされてきました。ところが、シュテンダールが、「私」はパウロ自身のことではないと主張したことを通して新たな視点が開かれました。パウロ自身の葛藤を描いているのではなく、旧約聖書で扱われているイスラエル民族の葛藤だと言うのです。確かに、イスラエルの民の問題は罪でした。そう考えると、24節は旧約聖書の結論と言えます。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

そして、この問題の解決が25節。

「神に感謝!私たちの主のキリスト・イエスを通して!」(直訳)

今日は主の日。主イエス・キリストに感謝と賛美と礼拝を捧げましょう!

ローマ 6:15-7:6

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(6:17,18)

「伝えられた教えの規準」を直訳すると、「あなたがたが引き渡された教えの型」となります。つまり、神の教えの方が先にあって、そこに私たちの方が導かれていくということです。「教えの型」の「型」は、「刻印を打ちつけたあとにへこんだ型」という意味があります。これは、エゼキエル書36章に出てくる内容です。イエス・キリストを信じる者の心に聖霊が授けられているという意味は、「主の教えの型」がしっかり心に刻まれているということです。それで、聖霊に心から従うことによって、私たちは「義という新しい主人の奴隷」(18節LB)とされていきます。

「主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。」(Ⅱコリント3:18LB)

ローマ 6:1-14

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(6:3)

3節を直訳するとこうなります。

「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた私たちは皆、彼の死の中にバプテスマされたのです。」

クリスチャンになるためには水のバプテスマを受けます。キリストと共に死に、キリストと共によみがえることを意味します。初代教会の時代から、大切にされてきた儀式です。パウロは、儀式以上の意味を伝えています。キリストの死の中に、自分も入れられたのだと。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

ローマ 5:12-21

「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(5:21)

神の恵みの完全な統治は、まだ、これから、この世界の終わりにもたらされます。しかし、すでに、主イエス・キリストを通して、神の恵みの統治は始まっていて、私たちを永遠の命に導きます。新改訳二〇一七はこう訳しています。

「それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」

私たちが何をしたからではなく、イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架の御わざのゆえに、神の恵みの統治が、私たちの歩みを、滅びからいのちへと導いていきます。天国に行くことができるというだけではありません。神のみこころが天で行われているように、この地にも行われる、神の御国が現されるように導くのです。