1列王記 2:1-12

「あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ。」(2:3)

ダビデは、主の道に歩むならば、

「何をしても、どこにいっても成功する」(聖書協会共同訳)

と言いました。

「成功」の定義は難しいのですが、神の御言葉は私たちが「成功」するためであり、神のみこころは私たちが「成功」することであることを聖書が私たちに告げます。

もっとも、ローマ書7章からこの箇所を理解するならば、律法は私たちの罪を示します。

そして、罪は私たちに死を意識させ、神に立ち返る必要があることを意識させます。

そして、ただ、神の霊によって主の道に生きることができる現実に導きます。

イエス・キリストの十字架の御業なくして、人は主の道に歩むことができないことを謙遜に認めることからはじまります。

1列王記 1:38-53

「また、王はこう言われました。『イスラエルの神、主がほめたたえられるように。主は今日、私の王座に就く者を与え、私がこの目で見るようにしてくださった。』」(1:48)

ダビデが神のために神殿を建てたいと願った時、神はダビデに一つの約束を与えました。

「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:16)

ソロモン王の即位を、ダビデはこの神の約束の成就として見たのだと思います。

ただ、この約束は、ダビデの子として生まれたイエス・キリストによって最終的に成就します。

このように、神のことばは永遠の視点とその時代の視点が重なり合っています。

ですから、私たちも永遠の視点と、その時代の視点の二つの地平線をもって聖書を理解する必要があります。

1列王記 1:28-37

「私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」(1:30)

ダビデ王は、人生の中で多くの失敗を犯しました。

愚かなことを何度もしてきました。

しかし、彼は神のことばに耳を傾けることができました。

神はダビデに言いました。

「見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。」(1歴22:9)

ダビデは神のみことばを思い出し、神のみことばに従って行動を起こしました。

神のみこころに最後まで従い続けるダビデの姿に、

「神の心にかなった者」(a man after God’s own heart)(使徒13:22)

と呼ばれた理由があるのだと思われます。

1列王記 1:11-27

「そこで、ナタンはソロモンの母バテ・シェバにこう言った。「われらの君ダビデが知らないうちに、ハギテの子アドニヤが王になったことを、あなたは聞いていないのですか。」(1:11)

ナタンは、ソロモンが王となることを預言した預言者です。(2サムエル12:25参照)

この時も、神から直接導きがあったのかもしれませんし、もしかしたら、神のみこころを知っている者として、みこころを行わないわけにはいかないと行動したのかもしれません。

イエス様は

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ6:10)

と祈るように教えられました。

それは、神のみこころをこの地で行う者として生きることを意味しています。

神のみこころがこの地でも行われるように、知恵を尽くして、協力していく姿勢を、私たちも学ぶ必要があります。

1列王記 1:1-10

「ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。」(1:5)

「野心を抱き」と訳された単語は、聖書協会共同訳が「思い上がり」と訳しているように、高ぶったという意味です。

サウル王も、ダビデ王も、神が選び、預言者サムエルを遣わして油を注ぎました。

ところがアドニヤは、神の御心を求めたのではなく、自分がふさわしいはずだと軍団長のヨアブと大祭司のエビヤタルと相談してことをはかります。

それには、預言者ナタンやダビデの勇士たちはくみしませんでした。

つまり、アドニヤの行動は、神の主権を侵す行動だったのです。

聖書は明確に言います。

「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:5,6)

血管の長さ

数週間前の教会学校の時間に、ひょんなことから人間の血管の長さはどれくらいかという話になりました。

改めて調べてみると1人の人間の血管(毛細血管も含めて)を繋ぎ合わせると実に10万キロメートル、つまり地球を二周半する長さだそうで、その距離をたった30秒で血液が一周しているのだということがわかりました。

まさに神業、これぞ神業。

わたしたちは頑張って自分で心臓のポンプを動かしているわけでもありません。

本当は生かされているのに、まるで自分たちで命をコントロールしているかのような表現に最近特に違和感を覚えます。

安楽死の合法化や、中絶を女性の当然の権利だと認めることなど、人権という心地よい言葉を使って本来は人が触るべきでない領域に踏み込んでゆく時代となり恐ろしさを感じています。

神は神であり人は人であるという大切な原則を見失う時、秩序が否定される風潮の現代において人はますます混乱していくことになるのだと思います。

聖書を信仰と生活の唯一の規範とするキリスト者にとって更に厳しい時代となることを覚悟しなければと感じる今日この頃です。

(小山晶子牧師婦人)

ルカ 24:1-12

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」(24:5)

主は確かによみがえられました。

イエス・キリストは完全な人となられ、歴史上の人物として存在しました。

それで、「信仰のキリスト」を削ぎ落とした「史的イエス」を探求する学者たちがいます。

しかし、イエス・キリストは完全な人間であったと同時に完全な神です。

そのように「信仰のキリスト」を削ぎ落としたら、「史的イエス」が明らかになるという発想自体が稚拙です。

「史的なイエス」は「信仰のキリスト」でもあったからです。

「ここにはおられません。よみがえられたのです。」

「主がお話になったことを思い出しなさい。」

と天使たちは諭します。

十字架につけられ、三日目によみがえられたイエス・キリストを捜すならば、今も生きて働いておられるイエス・キリストを見出すことができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ローマ 5:6-11

「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(5:6)

パウロの論理展開は、決して難しいものではありません。

6節でまず、土台的前提が語られます。

イエス・キリストは、不敬虔な者のため、死んでくださいました。

7節では、この前提に立って、論じられます。

たとえ、「値する」と思っていても、普通は、代わりに死ぬことはしません。

そして、8節で、結論が導き出されます。

ですから、イエス・キリストの死というのは、神の普通ではない愛の現れだったということです。

今から約二千年前、イエス・キリストが十字架にかけられ死んだということは歴史的事実です。

それが、「私たちのため」というところに重要なポイントがあります。

「私たちが逃れる道もなく、行き詰まっていた時、キリストはおいでになり、何のとりえもない、私たち罪人のために死んでくださいました。」(LB)

ルカ 23:44-56

「すると神殿の幕が真ん中から裂けた。」(23:45)

神殿には、聖所と至聖所の間を遮る分厚い幕がありました。

至聖所には大祭司だけが年に一度だけ入ることが許されていました。

そこには、契約の箱がありました。

その蓋は「恵みの座」と呼ばれます。

聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

神のひとり子、イエス様が人となって、私たちの間に住まわれ、私たちの罪のために十字架にかかり、死なれました。

その時、神殿の幕が裂けたということは、誰でもイエス様によって恵みの座に近づくことができるということです。

今日はそのことを覚えるGood Fridayです。

ルカ 23:33-43

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」」(23:34)

ライト教授はこんなことを言っています。

「イエスは、自分の本当の戦いの相手はローマではないと考えていた。(中略)神の力や愛と真っ向から対峙する真の敵とは、神の創造に敵対する力、死と破壊の力、告発する力、そして、全人類も全世界もすべてが腐敗し、朽ちつつあると叫ぶあの『告発者』であった。(中略)イエスの公生涯を通じて私たちが目にするのは、イエス自身が告発されている、ということだ。」

「告発者」をヘブル語で「サタン」と言います。

私たちはここに、イエス様が、人類全体に向けられた告発を一手に引き受け、その身に負ったことに気づく必要があります。

悪のすべての力と告発とをその身に受け止め、自分に対して悪の限りを尽くさせ、それによってその力を使い果たさせ、「告発者」を打ち負かしました。