2コリント 11:1-15

「私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。」(11:5)

「大使徒」と訳された単語は、「超大使徒様」と訳すことができますが、パウロの皮肉です。パウロがコリントの教会を去った後、パウロよりも印象的で人目を引く伝道者が来ました。人々はこの伝道者のカリスマ性に魅了されてしまいます。問題は、この人物が

「私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり」(4節)

したことです。手紙を読めば浮き彫りにされる異なった福音とは、十字架のない福音です。苦しみのないイエス様、ことばにならないうめきをもってとりなすことのない聖霊です。苦難のキリストを本気で信じるならば、その御跡に従うならば…パウロのように、「十字架なくして冠りなし」となります。「超大使徒様」はこれは「良い話」ではないと変えてしまったというわけです。しかし、教会は十字架の福音を語り続けなければなりません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2コリント 10:1-18

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(10:5)

今日の箇所を直訳しますと、こうなります。

「神の知識に反対するあらゆる高慢、そして、すべての思考を捕らえてキリストに従順するように連行する」。

この世界には様々な考え方がありますが、私たちは聖書的な信仰に自分の考え方を捕らえて連行する必要があります。自然に身につくというものでもありません。私たちはそのための道具が必要です。畑を耕すためには鋤が必要です。勉強をするためには本が必要です。料理をするためには鍋が必要です。祈るためには信仰が必要です。同じように、私たちの考え方を聖書的な信仰に捕らえて連行していくために、道具が必要です。教会に集うこと、聖書を読むこと、祈ること、聖書的な説教(メッセージ)に耳を傾けることなど、私たちは自分の考えを聖書的な考え方に連行する道具が必要です。

2コリント 9:6-15

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(9:10)

このみことばが意味することは、収穫は自分が蒔く種よりも多いということです。しかし、蒔くことをしなければ、収穫を体験することはできません。信仰の世界と言うのは、そのようなものです。理解できたら信じるというのではなく、信じていくときに理解することができます。ここでは、献金という文脈で語られています。献金の恵みは、大変な状況の中でも信仰をもってささげていくということを実践しなければ体験できない世界です。厳しい状況の中でも捧げて行くときに、まさに、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」という世界を体験します。よく言われることですが、一個のりんごの中にある種の数は数えられても、その種から生み出されていくりんごの数を数えることはできません。

2コリント 8:16-9:5

「それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。」(8:21)

献金は神に捧げられるものですが、その取り扱いをするのは人です。ですから、パウロは

「主の御前だけでなく、人々の前で正しくあるように心がけているのです。」(新改訳二〇一七)

と言います。教会の運営は、まず何よりも神の御前に正しくなければなりません。ただ、神のみこころを現すことができないような人間中心の運営になるならば、それはもう教会とは呼べません。しかし、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大であることを心がける必要があります。どう取り扱うかに関しては常に説明責任が伴います。いずれにせよ、献金は自発的なものであり、嫌々するものではありません。ですから、パウロはこう勧めます。

「惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。」(9:5新改訳二〇一七)

※ 神様のあわれみと特別な助けが、北海道にいらっしゃる皆様のうえにありますように、

2コリント 8:1-15

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)

この箇所でパウロが言う「神の恵み」とは「献金」のことです。ここでは特に「マケドニヤの諸教会に」とありますが、ピリピの教会のことです。

「多くの試練や困難のただ中にあったマケドニヤの諸教会が、ひどく貧しいにもかかわらず喜びに満ち、その結果、あふれるほど惜しみなく、他の人々に施すようになりました。」(2節LB)

パウロはピリピ書で彼らのことを言っています。

「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

経済的に困窮している人であっても献金を勧める理由は豊かな報いがあるからです。献金は人や組織ではなく、神に捧げるものだからです。ですから献金は私たちに与えられた神の恵みの世界です。

2コリント 7:2-16

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」(5,6節)

使徒パウロは、私たちとは違う屈強なスーパー・クリスチャンのように考えてしまいます。しかし、彼も、私たちと何も変わらない普通の人でした。不安を感じ、恐れを感じ、落ち込みました。しかし、

「その時、神様は意気消沈しているものを励まし、テトスの帰還によって元気づけてくださいました。」(LB)

とあります。聖書の神は、意気消沈しているものを励ますお方です。興味深いことは、「テトスの帰還によって」とあるように、神は人々を励ますために私たちを用いられるお方です。今日、神は私たちの存在を通して励まそうとしている人がおられます。今日、祈りつつ、誰かに励ましのことばを伝えてみませんか。

2コリント 6:3-7:1

「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」(3節)

パウロは自分が伝道の妨げ、周りの人々のつまずきにならないように気をつけてきたと言います。LBではこのように訳しています。

「私たちは自分たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、また、主を非難する口実に用いられないように気をつけています。」

私たちの行動が、だれかが主と出会うことを妨げるのならば、これほど悲しいことはありません。パウロのように細心の注意を払っていても誰かをつまずかせてしまうこともあります。しかし、パウロのような姿勢をもつことは大切なことだと思います。イエス様は、子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げようとした弟子たちの行動を怒ったとあります。イエス様との出会いを妨げるならばイエス様は必ず怒られます。多くの方が、主との出会いを体験できますように。

さくらももこさん

まだ遠距離恋愛中だった25年前、アメリカへ留学中の英児さんに送った唯一の本がさくらももこさんのエッセイ「もものかんづめ」。これを送られた英児さんはなぜこの本を私が送ってきたのか「?」だったそうですが、どんなにつらくてもこの本を読んだら絶対に笑える!と思ったのです。8月半ばに53歳で彼女が亡くなった、というニュースは彼女のエッセイや漫画をほぼすべて読んできた私にとって非常にショッキングな知らせでした。そんな話を息子にしていたら、アニメ「ちびまる子ちゃん」に『まるちゃん教会へ行く』という回がある、との情報を教えてくれました。さっそく見てみました。まるちゃんがブー太に誘われてお菓子目当てで教会に行くというお話。知らない賛美歌に戸惑ったり、朝起きるのがつらくて次の週は休んだり、初めて行った日に聖書をもらったり。きっと小学生のさくらさんが実際に礼拝に参加した時のいろいろな気持ちが詰め込まれたお話なのだと思います。まかれた種がどうか残っていますように。そんなことを思いながら見ていたら泣けてきてしまいました。 (小山晶子牧師夫人)

2コリント 5:11-6:2

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5:17)

「その人は新しく造られた者です」という意味は、「新しい創造」に属する存在となったということです。新改訳二〇一七では別訳として、

「そこには新しい創造があります」

と訳しています。つまり、キリストが再び来られて、すべてが新しくされるその日を待たずして、キリストの中にある人は、すでにその「新しい創造」とされているということです。ですから、後半部分を新改訳二〇一七では別訳としてこう訳しています。

「新しいものが到来しました。」

キリストを信じる者はこのことを再認識する必要があります。私たちは「新しい創造」に在る者であるということを。「新しい創造」に在る者として、聖霊に導かれて、神の栄光をこの地に輝かせることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2コリント 5:1-10

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(5:9,10)

すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判に使われる言葉です。この世で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!