使徒 1:23-2:21

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」(2:1)

「五旬節」が原文のギリシア語でペンテコステになります。ペンテコステの特徴は、「皆が同じ場所に集まっていた」(新改訳二〇一七)。二〇世紀初頭にアメリカ、ロサンジェルスのアズサ・ストリートで起きた出来事もまさにこれでした。黒人も白人もアジア人も、男性も女性も皆が同じ場所に集まり、聖霊に満たされる体験をしました。今も、世界各地でリバイバルと呼ばれる現象が起きる時はいつも、教団教派の壁を越え、民族主義の壁も越え、キリストにあって同じ場所に集まって、神様の素晴らしい御業を体験しています。「大事なことはキリストの御名がこの日本で崇められることである」と六〇年ほど前にオランダの神学者は日本の教会に訴えました。私たちもその日を夢見て、本質は一致、本質以外は寛容、すべてのことは愛をもって協力し合っていくことができますように。

ひめゆりの塔

今回の沖縄滞在の折、ずっと行きたいと思っていたひめゆりの塔を訪れることができました。幼いころ彼女たちを題材にした映画を見たことがあり、様々な場面が私の脳裏に鮮明に焼き付いていました。実際に使われていた沖縄陸軍病院第3外科豪は入り口をのぞき込んでも真っ暗で、皆がはしごを使って上り下りしていたことを知り愕然としました。米軍が沖縄に上陸し、戦局は悪化の一途を辿り、現在ひめゆりの塔が建っている第3外科豪は終戦間近の6月19日朝の攻撃で96名のうち89名が死亡しました。沖縄戦での日本の死者は12万人以上。アメリカ軍の死者は2万人以上。洗脳教育の恐ろしさ、リーダーの責任の重さを今まで以上に感じる機会となりました。不完全な私たち人間が、クリスチャンが、どうすれば地の塩・世の光としてこの世界の希望となることができるのか。沖縄戦での数々の証言を資料館で読みながらイエス様にのみ希望があることを、イエス様にしか希望はないことを心に刻む、静かな祈りの時間となりました。
(小山晶子牧師夫人)

使徒 1:1-22

「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていた・・・」(15節)

聖霊が臨んで初代教会が誕生する直前、百二十名ほどの人が一緒に集まって祈っていました。教会はそこからはじまりました。私たちの教会では、この箇所から百二十名礼拝を祈り求めています。百二十名ほどの人たちが礼拝に集まり、共に祈り、賛美し、礼拝を捧げていく中で、神様が必ず素晴らしいことをなされると信じます。集まることに意味があることは次のイエス様の言葉からも明らかです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

今日は主の日です。共に集まり、主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 21:1-25

「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうですか。』イエスはペテロに言われた。『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(21,22節)

私たちはすぐ周りと比較してしまう傾向があります。ペテロもそうでした。彼はイエスから、彼の人生に迫害が待ち受けていることを告げられた時、「ヨハネはどうなのですか?」と尋ねました。イエスの答えは、「ヨハネにはヨハネの使命があるのだから、あなたはヨハネと自分を比べるのではなく、わたしにただ従ってきなさい」ということでした。これは信仰生活においてとても大事な姿勢です。「あの人がこうするから、私もこうしよう」、「あの人がこうしないから、私もしない」というのは、イエスが望まれている信仰姿勢ではありません。神との一対一の関係を築くことを求められています。

ヨハネ 20:10-31

「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」(22節)

キリストの復活は「新しい神の週」が始まったことを証しています。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節)

という意味は、今までとはまったく異なった生き方のことです。今までの「やられたらやり返す」というような古い生き方ではなく、「愛と和解、癒しと希望」をもたらす新しい生き方のことです。イエスはこの新しい世界に生きるためには、聖霊が必要であることをよく知っていました。それで、弟子たちに息を吹きかけて、

「聖霊を受けなさい。」

と言われました。イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の国に生きていくために、聖霊の力が必要です。それで初代教会から伝わる祈りは「聖霊様、来てください」です。今、聖霊に満たされるように祈りましょう。

ヨハネ 19:28-20:9

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(19:30)

「完了した。」

という単語は、

「完済した」

という意味です。請求書に書く

「支払済み」

という単語です。請求書は、すでに処理されました。支払いは終わりました。イエスの十字架の御業は完璧でした。「完了した」というのはまた、

「完成を告げられた」

という意味もあります。創世記の2章で、神が天地万物を創造された後、このように記されています。

「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」(創世記2:2)

イエス・キリストの十字架の死は、神がなさっていた新しい創造のわざの完成でもありました。ですから、使徒パウロもこのように言います。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(新しい創造)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

ヨハネ 19:1-27

「祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。」(19:6)

「十字架につけろ」と激しく叫んだのは、神殿関係者であったというのはなんという皮肉でしょうか。本来、神の家であるはずの神殿に、神の御子を歓迎すべき神殿関係者が、拒絶したというのです。否、神殿関係者が率先して神の御子を十字架につけたのです。無知のゆえでしょうか?保身のためでしょうか?いずれにせよ、少なくとも彼らは「十字架につけろ」と叫ぶことによって正しいことを行っているという自覚をもっていました。「自分が絶対に正しい」という姿勢は人を盲目にします。伝道者の書にこう記されています。

「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(7:16)

唯一絶対に正しいのは、神だけであることを認め、正しすぎないように気をつける必要があります。

ヨハネ 18:25-40

「わたしの国はこの世のものではありません。」(18:36)

イエス様は神の国はこの世から来るものではないと言われました。ここで言う「この世」とは、神に反対する悪の力のことです。イエス様は、神の国にはそのようなこの世の起源、この世の性質はないと言われたのです。イエス様は弟子たちに、「御国を来たらせたまえ」と、この地に神の国が来るように祈るように教えられました。なぜなら、神の国はこの世からは来ないからです。ですから、私たちは膝を屈め、主に祈り求める必要があります。神の臨在がこの世に入ってくるように、賛美を捧げ、礼拝を捧げる必要があります。私たちはこの地に神の御国をもたらすためにこの世に存在しています。

ヨハネ 18:1-24

「イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。」(18:20)

大祭司が、神の御子イエス・キリストに尋問するというこの恐ろしいパロディに人間の悲しさを感じます。大祭司こそ神に仕える者のはずなのに、神に仕えさせようとするこの愚行…。これこそ人間の罪の極みであり、それを実践しているのが人をとりなすべき大祭司であると言う悲劇に言葉を失います。問題は、はっきりしています。聞く耳が閉ざされていることです。イエス様は公然と話しました。同じように、今も、神様は聖書を通して、教会を通して公然と語られています。

読谷村での思い出

今回で5度目の沖縄訪問となりましたが、どんなにスケジュールがタイトでも必ず訪問しているのは沖縄中部読谷村にあるやちむんの里です。すでにセミが鳴き、強い日差しの中北窯という工房にお邪魔し、1800度にもなるという焼き物の窯を見学させていただきました。最初にリラメンバーで訪問した時には赤ちゃんだった大将の息子さんが後継ぎとして立派に成長している姿に驚き、時間の経過を感じるとともに「続けること」の大切さを改めて教えられました。ろくろを回しているスタッフの方にいろいろと質問をしてみました。「作っている最中に指紋がついてしまうことはありませんか?」と尋ねると、「目には見えないかもしれないけどついていると思います。」とのこと。主は陶器師で私たちはその手にある粘土だと聖書は語っていますが、陶器師がどれほど神経を使い、作品を作っているかを見る時に神様の思いを感じることができるのです。23年前にここで賛美した『空』を思い出しながら、23歳になった息子さんのつくったカップを購入しました。(小山晶子牧師夫人)