イザヤ書 17:1-19:25

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(17:7,8)

本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。自らを縛ることはあっても、解放することはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分流の考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ書 14:1-16:14

「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(14:13,14)

この箇所は一般的にサタン(ルシファー・12節)について言及している箇所だと考えられています。エバを「あなたがたが神のようになり」(創世記3:5)と誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するようになったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。神のようになろうとする欲求は昔も今も変わりません。人間は今も神に対抗できるかのようにバベルの塔を築き上げようとし、その結果、混乱(バベルの意)がますます世界に広がっています。神は神であり、人は神になることはできません。神は絶対者であり、対立できる存在はいません。悪魔の嘘にだまされないように、神を神として認めていくことができますように。

イザヤ書 10:20-13:22

「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(12:3)

この箇所は、私たちにとってとても馴染みがあるところです。なぜらな、この節のヘブライ語が「マイム・マイム」という、かつて日本の学校で頻繁に踊られていたフォーク・ダンスの歌詞だからです。マイムとは『水』のこと、そして新約の時代には七日間にわたって行われた仮庵の祭りの最終日に、祭司がギホンの泉から水を汲み、この節を唱えて神殿前にある祭壇に注ぎました。それは降雨を切望するユダヤ人にとって切実な雨乞いの祈りの儀式でした。ヨハネの福音書には、その祭りの最終日にイエス様が大声で人々に語った言葉が記されています。

『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38,39)

イエス様こそ、わたしたちの救いの泉、いのちの源泉です。

イザヤ書 8:11-10:19

「それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。』」(10:13)
イザヤ書10章は、当時最強のアッシリア帝国に対する預言の言葉が記されています。ですから、13節の『彼』とはアッシリアを表わしています。イザヤ書は、ちょうど北王国がアッシリアに滅ぼされた時代に書かれました。イザヤが活動していた南王国もまた、このころアッシリアの脅威にさらされていました。アッシリアの傲慢な姿をこの箇所からでも容易に想像することができます。しかし、この僅か100年後にアッシリア帝国は完全に滅ぼされてしまうのです。17節に
「一夜のうちに焼き払うでしょう」(LB)
とありますが、首都ニネベが破壊され、炎に包まれたことが考古学の発見からも確認されています。
どんな強国も栄枯盛衰していくように人間は全能ではありません。神のみが全能者です。

イザヤ書 5:8-8:10

「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(6:8)

聖書のみことば、特に今日の箇所は今から約2500年前、神がイザヤに語られ、記録されたものです。しかし、永遠である神の御言葉は、今の時もなお私たちに直接語りかけています。だからこそ、この一つの御言葉に応答したたくさんの人々がこの御言葉をしっかりと握り、福音を携えて様々な場所に遣わされて行きました。私たちの祈りは

「ここに、私がおります。」

から始まります。神はあまねく全地を見渡して、神のために生きていく人を探しています。神への応答は、若すぎることも、年をとりすぎていることもありません。過去がどうであれ、自分の能力がどうであれ、神の求めに応じる準備ができているかどうかが問われます。

イザヤ書 3:1-5:7

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(3:1)

私たちは、とにかくいろいろなものに依存しようとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。死者を復活させることさえできるお方なのですから。」(Ⅱコリント1:9LB)

イザヤ書 1:1-2:22

「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。」(1:19,20)

当時のイスラエルの問題は、心を頑なにして神を拒んでいたことでした。そんなイスラエルに神は言います。

「喜んでわたしの助けを求め、わたしに従いさえすれば、あなたがたを富む者にしよう。」(LB)

神を求め従うか、神を拒絶するか、そこに人生の分かれ道があります。人類の歴史はアダムとエバに始まって、神に反抗する滅びの道でした。しかし、今、イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順のゆえに、信じる者は聖霊によって神を求め従う、いのちの道に生きることができます。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

ミカ書5:1-7:20

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(6:8)

何が良いことで何を神が求めておられるか。

1.公義を行うこと。

神は義なる神ですから、私たちが不正をすることを望まれません。

2.誠実を愛すること。

「誠実」は英語で「信仰が満たされる」(faith-ful)と書きます。「信仰に生きること」と「誠実に生きる」ことはコインの裏表です。

3.へりくだって神と共に歩むこと。

もっとも、神の方がへりくだり、人となり、私たちと共に歩んでくださいました。神の御子、キリストの十字架のゆえに、キリストを信じる者は、生ける神と共に人生を歩むことができます。自分の力で何でもできると傲慢にならず、へりくだって神と共に歩むことができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ミカ書 1:1-4:13

「ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。」(2:7)

「主がこれをがまんされるだろうか。」

と訳された文は、原文を直訳しますとこう訳せます。

「主の霊は制約されるだろうか」。

当時の北イスラエル王国の人々(ヤコブの家の意味)は、ミカの語る神からの預言を、たわごとと言い、語るなと言いました。彼らは、聖霊なる神の言葉を聞きたくないと言ったのです。ミカの時代の人々は、聖霊なる神の働きをコントロールし、制約しようとしました。今の時代も、聖霊なる神の働きを、自分たちが理解できる範囲内にコントロールし、制約しようとする人々がいます。聖書に出てくるような聖霊の働きは、聖書の時代にはあったけど、今は、もうないと言うのです。しかし、聖霊なる神を私たちの理解できる範囲内に制約する事は、誰にも出来ません。

2歴代誌 35:20-36:23

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(36:23)

歴代誌とマタイの福音書の類似性を指摘する聖書学者がいます。歴代誌もマタイの福音書も系図で始まります。そして、歴代誌もマタイの福音書も神が王に権威を与え、主の民に属する者に使命(ミッション)を与えるというところで閉じられています。もっとも、マタイの福音書で神が権威を与えたのは、王の王、神の御子、イエス・キリストです。そして、私たちの使命(ミッション)はエルサレムに神殿を建てることではなく、あらゆる国の人々を弟子として、キリストのからだである教会を建て上げる、神の御国をこの地上にもたらす働きです。