使徒 5章

「しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。」(5:29,30)

申命記21:23にこう記されています。

木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。

つまり、ユダヤ人たちは、イエス様を呪われた者として裁いていました。

しかし、その理解は間違っていたことを復活は証明しました。

聖書は本当の意味をこう解説します。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」(ガラテヤ3:13,14)
今日はイースターの主日。共によみがえりの主に礼拝を捧げましょう。

使徒 4章

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」」(4:12)

グローバル化の影響もあり、私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければならない時代に生きています。

信教の自由は国家として保障され、互いに尊重される必要があります。

それは受動的にも保障されるべきですが、能動的にも保障される必要があります。

私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。

他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公にする必要があります。

イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質の部分です。

LBはこう訳しています。

この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。

使徒 3章

「神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。」(3:26)

神はありのままの私たちを愛し、受け入れてくださるお方です。

しかし、そこにとどまらず、私たちを罪の生活から引き戻し、祝福してくださるお方です。

この世の価値観に生きているならば、必ずふるいにかけて、神の国の価値観に立ち返るようにされるお方です。

そして神は言われます。

愛する皆さん。この地上では、あなたがたは旅人であり、一時の滞在者にすぎないのですから、あなたがたのたましいに戦いをいどむ、この世の快楽から遠ざかりなさい。」(Ⅰペテロ2:11LB)

神がまず、神の御子、イエス・キリストを遣わしてくださいました。

「神の国の価値観に生きることを選択できますように。」

今日はグッド・フライデー。

イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられたことを覚えます。

使徒 2章

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(2:46,47)

初代教会の成長の秘訣は、まず第一に、心を一つにして教会に集まり、一緒に礼拝を捧げたことでした。

第二は食事をともにしたこと。

第三は神を賛美したこと。

その結果、彼らはすべての民に好意をもたれたとあります。

そして、神が、毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。

私たちは誰も救うことはできません。

救うことができるのは、救い主、イエス・キリストだけです。

ですから聖霊なる神が、己が好むところに吹くと言われてますから、聖霊に好まれる教会を目指していくならば、神が救われる人々を仲間に加えてくださるはずです。

ですから、まず教会に集まり、共に礼拝を捧げることを大事にしていこうではないでしょうか。

今日は洗足木曜日です。

使徒 1章

「そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。」(1:15)

聖霊が臨んで初代教会が誕生する直前、百二十名ほどの人が一緒に集まって祈っていました。

教会はそこからはじまりました。

私たちの教会も、このことを祈り求めています。

百二十名ほどの人たちが礼拝に集まり、共に祈り、賛美し、礼拝を捧げることができるように。

集まることに意味があることは次のイエス様の言葉からも明らかです。

「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:19,20)

次の節でイエス様は赦しについて語っている所を見ると、集まるためには赦し合う姿勢が必要です。

ヨハネ 21章

「ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」」(21:21,22)

私たちはすぐ周りと比較してしまう傾向があります。

ペテロもそうでした。

彼はイエス様から迫害を受けることが預言された後に、

「わたしだけが、そんな目にあうのですか?ヨハネはどうなのですか?」

と尋ねました。

イエス様の答えは、

「ヨハネにはヨハネの使命があるのだから、あなたは、周りの人と比較するのではなく、わたしにただ従ってくればいいのだ」

ということでした。

これは信仰生活でとても大事な部分です。

私たちの信仰は神と自分という直接的である必要があります。

「あの人がこうするから、私もこうしよう」

というのは、イエス様が望まれている信仰ではありません。

「あなたは、わたしに従いなさい。」

ヨハネ 20章

「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(20:22)

弟子たちはこの時、イエス様が息を吹きかけたことを通して、聖霊の内住を体験しました。

聖霊は三位一体の神です。

イエス様は弟子たちが聖霊なる神の内住が必要だということを誰よりも理解していたのだと思います。

しかし、イエス様は聖霊なる神が内住されるというだけで、十分だとされませんでした。

この後、使徒1:8にこうあります。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

聖霊なる神が臨む、聖霊に満たされる必要があると言ったのです。

キリストを信じるだけで、聖霊は内住されますが、力あるクリスチャン生活を送ることができるように、聖霊に満たされることを求める必要があります。

ヨハネ 19章

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。」(19:38,39)

人目を恐れていたアリマタヤのヨセフとニコデモが、大胆にもイエス様のからだを葬る許可をピラトに求めて与えられました。

彼らはこのことを通して自分たちの地位や仕事さえ失う可能性がありました。

しかし、彼らはそうしたかったのです。

人がキリストに仕える動機は彼らのように、罪責感や強制されてであるべきではありません。

キリストの愛に迫られて応答していくものです。

キリストの十字架、愛を思うのならば、どうして何もせずにいられるでしょうか。

今日は主の日(PALM Sunday)。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 18章

「すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」(18:40)

「強盗」と訳された単語は欄外中に「扇動者」とあるように、ローマ帝国に対する反逆者の可能性が高いと考えられます。

つまり、バラバは単なる強盗ではなく、ローマ帝国に対する暴徒の一人でした。

人々は自分たちの思うようにローマに抵抗運動を起こさないイエス様より、自分たちが願うように勇ましく戦うバラバを選んだのです。

実際、この後、ユダヤ戦争と呼ばれるローマ帝国に対する抵抗運動が起こり、神殿は壊され、エルサレムは崩壊し、ユダヤ人は流浪の民となります。

人は自分の願い通りに行動してくれない神よりも、自分の願い通り行動する人を好む傾向があります。

しかし、聖書は言います。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

「わたしの願いではなく、神のみこころがなりますように。」

ヨハネ 17章

「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。」(17:1)

イエス様が十字架にかかられる直前、最後の晩餐の時にしたことは、弟子たちの足を洗うことと、祈ることでした。

もちろん、弟子たちはこれが最後の晩餐になるとは知る由もなかったと思います。

しかし、イエス様はご存知でした。

そんなイエス様が最後の夜に選ばれたことはまず、弟子たちの足を洗うことでした。

互いの足の汚れを指摘し合うのではなく、洗い合うように、模範を示されました。

それからイエス様は、「目を天に向けて」祈られました。

この地しか見えていないならば、行き詰まってしまいます。聖書は言います。

「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」(コロサイ3:1,2)

目を天に向けて祈る時間を私たちは必要としています。

※ 明後日の日曜日(PALM Sunday)から会堂での礼拝を再開します。
三密にならないよう、第一礼拝と第二礼拝に分散しての出席をお願いします。

また、礼拝の出席には事前連絡が必要です。

第一礼拝・第二礼拝どちらに出席するか、本日の午後 6 時 までに LINE または電子メール (info@sakaeshalom.org) でご連絡をおねがいします。