2列王記 12:9-21

「ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、主の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」(12:18)

ヨアシュ王は神殿の修理のために情熱を傾けました。

しかし、シリアが攻めてくると、主なる神に助けを求めることはなく、神殿に聖別して捧げられた宝物を送ったと言います。

目に見えない神よりも、目に見える解決策に走ったヨアシュ王は、家来たちに殺されてしまいます。

祭司エホヤダが中心になって神殿を修理していた時は、ヨアシュ王も、「いつも主の目にかなうことを行った」(2節)とあります。

祭司エホヤダが死んだ後、ヨアシュ王は主の神殿を正しく用いることができなかったということなのだと思われます。

神殿は私たちが主なる神に祈るためにあります。

2列王記 12:1-8

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。」(12:2)

ヨアシュ王にとって祭司エホヤダは、後見人であり、摂政であり、メンターでした。

残念ながら、祭司エホヤダが死んだ後、彼は主なる神から離れてしまいます。(2歴代誌24章)

人は傲慢になりやすいということなのだと思います。

謙遜に学び続けることが難しいということなのだと思います。

聖書は言います。

「神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」」(2歴代24:20)

ヨアシュ王は、結局、彼に忠告した祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺してしまいます。

「ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意を心に留めず、かえってその子を殺した。」(2歴代24:22)

2列王記 11:13-21

「エホヤダは、主と、王および民との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた。」(11:17)

ヨアシュが王となったのは、彼が七歳の時でした(21節)。

祭司エホヤダがまずしたことは、主なる神と王と民との間の関係を回復することでした。

彼らが必要としていたのは、「主の民」というアイデンティティの回復でした。

使徒ペテロも、キリスト者が「神の民」とされていることに心を向けるように言います。

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」(1ペテロ2:9,10)

2列王記 11:1-12

「しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。人々が彼をアタルヤから隠したので、彼は殺されなかった。」(11:2)

アタルヤはヨラム王の妻であり、北イスラエルのアハブ王の娘でした。

自分の息子であるアハズヤ王が、エフーの手によって死んだと知ると、彼女はダビデの子孫を滅ぼして、自ら王になります。

神のダビデ契約は途絶えたように見えましたが、神は不思議な方法で、エホシェバという一人の勇敢な女性を用いて、ヨアシュを救い出します。

この時、ヨアシュは一歳だったと考えられます。

彼女は神のみこころを知っていたからこそ、命懸けで行動したのだと思われます。

神のみこころを知るためには、聖書の御言葉をいつも心に留めておく必要があります。

聖書の御言葉が何をなすべきかを教えてくれます。

あれから4年

2020年7月17日金曜日、私は救急車で運ばれ、新型コロナの罹患者として入院しました。

重症化し、集中治療室に入りました。

当時は未知の病で、治療法も手探りでした。

しかし、皆様の祈りに支えられ、神様の癒しを体験し、退院できました。

あれから4年の月日が流れました。

とはいえ、土曜日の新聞の読者アンケート統計ですと、今もマスクをしている人が76%、していない人が24%と、警戒感はまだなくなってはいないようです。

新型コロナに罹患したことによって多くの方々にご迷惑をおかけしましたが、恵みもたくさんありました。

神様が開いてくださった霊的な世界がありました。

福音理解、聖書理解も深められましたが、何よりも、祈りの世界が開かれました。

特に、病気の癒しの祈りが、これほど信仰を励まし、強めてくれるということがよく分かりました。

祈られているということを実体験できました。

あの時、自分が退院したら、祈る人になりたいと心に決めました。

そして、今、機会があるたびに、病気の癒しのために祈るように心がけています。

祈りを通して神様が働かれている証を聞くたびに、祈り続けようと励まされています。

2列王記 10:28-36

「主はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」」(10:30)

神が、エフーがイズレエルで行ったアハブの家への裁き、そしてバアル崇拝者の根絶を全面的に肯定しているように見えます。

しかし、ホセア書にはこう記されています。

「主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。」(1:4)

結局のところ、神は

「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

神は言われます。

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない─神である主のことば─。だから立ち返って、生きよ。」(エゼキエル18:32)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 10:12-27

「「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい」と言った。」(10:16)

「熱心」は「ねたみ」とも訳せる単語で、民数記に出てきます。

「「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。」(民数記25:11)

エフーもピネハスも暴力によって神の義をもたらそうとした人です。

回心前のパウロもそうでした。

「その熱心については教会を迫害したほどであり」(ピリピ3:6)。

しかし、パウロは後にこのように記しています。

「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:2,3)

神の義はキリストの十字架にあります。

2列王記 10:1-11

「だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」(10:10)

歴史が動く時、そこには人間の思惑以上のことが起こっています。

エフーは、

「主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」

と、すべてが神の御手の中にあったことを告げます。

私たちは神ではないので、すべてのことを理解することはできません。

しかし、確かに歴史を動かす生けるまことの神がおられます。

このお方がおっしゃることは必ず成し遂げられます。ですから、イエス様もおっしゃられました。

「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(マタイ5:18)

ですから、聖書を学ぶことは大切なことです。

2列王記 9:27-37

「帰って来てエフーにこのことを知らせた。するとエフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。」(9:36)

イゼベルは主の預言者たちを殺害し、エリヤの命さえ狙いました。

神はそんなイゼベルに裁きの宣告をエリヤに告げました。(1列王21章参照)

そして、その御言葉のとおりであったことをエフーは確信します。

聖書は言います。

「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55:10-11)

主なる神が語られたならば、神が成し遂げられます。

ですから、日々、神の言葉である聖書の御言葉を読むことが大切です。

2列王記 9:14-26

「ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに帰っていたのである。エフーは言った。「もし、これがあなたたちの本心であるなら、だれもこの町から逃れ出て、イズレエルに知らせに行ってはならない。」」(9:15)

預言者がエフーに油を注いだことを知った彼の主君の家来たちは、「エフーは王である」(9:13)と言いました。

エフーの謀反に反対する人はいませんでした。

エフーはヨラム王をナボテの所有地であった畑に投げ捨てたとき、このように言います。

「思い起こすがよい。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブの後に並んで従って行ったときに、主が彼についてこの宣告を下されたことを。」(25節)

エフーは神がエリヤに語った言葉を知っていたのだと思われます。(1列王21章参照)

「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)