よくがんばったね。

少し前にここでも書いた我が家の老猫ポコが、先週日曜日の第二礼拝中にとうとう死んでしまいました。わたしは教会学校で二階に上がっていて、その日のお話を終え、皆が教材に取り掛かったタイミングで少し様子を見に行かせてもらったそのわずか数十秒の出来事でした。ほとんど動いてなかったポコが身体を動かすような仕草をしたので抱っこしたら、少し苦しそうにのけぞって、そのまま、全身の力が抜けていく、まさにこと切れる瞬間でした。ポコの最期を看取れるようにと祈っていたので、神様は本当にそのようにしてくださったんだなあと、わんわん泣きながら、神様、本当にありがとうございます、そんな思いの中しばらく過ごしました。いのちを私たちは当たり前のように享受し、計画を立て、それがあたかも自分のもののように生きていますが、目の前でいのちの終わりを目撃する時、これが与えられたものであり、私たちが握っているわけではないことを痛いほど自覚させられます。神は神であり、私たちは被造物であるということを覚えつつ与えられた日々を過ごしていきたいと思います。 (小山晶子牧師婦人)

レビ記 21:1-22:33

「また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。」(22:21)

いけにえをささげるときに、それは傷のないものでなければいけないと神は言われました。そのように言わなければ、人は残り物や、どうでもいいものを捧げるという傾向があることを知っていたからだと思われます。自分にとって痛くも痒くもない物を捧げると言う姿勢は神を敬っているとは言えません。神はアクセサリーではなく、王の王、主の主なる偉大なる神です。もっとも、究極的に傷のないささげ物は、神がすでに捧げられました。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストの十字架の御業のゆえに私たちは救い、癒されます。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

レビ記 19:1-20:27

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

律法学者の

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

という質問に対して、イエス様は、まず、申命記6:5

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

を引用し、その次に今日の箇所、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

を引用します。何があっても、この二つの命令を大切にすることが、キリスト教会の根幹だと言われたのです。

教会はまず、神を愛するために存在しています。礼拝、賛美、祈りは、教会の最優先事項です。そして、教会は互いに愛し合うために存在しています。共にキリストのからだである教会をこの地に建てあげることを神は願われています。最後に教会はこの世界を愛するために存在しています。神はこの世界を愛し、ひとり子を与えられました。

レビ記 17:1-18:30

「あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。」(18:3,4)

日本には「郷に入れば郷に従え」という諺がありますが、英語にも「ローマにいる時は、ローマ人がやるようにしなさい。」というのがあります。その場所のしきたりを尊重することは大切ことです。しかし、「皆がしているから、良くないと分かっていても自分もしなければならない」というピア・プレッシャー(仲間からの圧力)は別問題です。私たちは聖書の民として、今をいかに生きるかを聖書から学ぶ必要があります。聖書の物語を自分の物語として生きていくことが大事です。

レビ記 15:1-16:34

「主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」(16:2)

聖なる神が現れる時、罪ある人はその前で死んでしまいます。ですから大祭司であっても、自分のためにいけにえを捧げて、様々な規定にしたがって、聖所に入る必要がありました。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった時、

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マルコ15:38)

とあります。今、イエスの十字架の御業のゆえに聖書は言います。

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

レビ記 14:1-57

「祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。」(14:4)

この章はツァラアトがきよめられるときの教えです。感染者がきよめられるということはありえないことでした。しかしキリストは多くの感染者をいやされました。ある時は、10人の感染者に言いました。

「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」(ルカ17:14)

彼らは行く途中でいやされたと聖書は言います。祭司たちはきよめられる者のための規定が書いてあることを知っていても、使う時がくるとは思いもしなかったのではと思います。この手続きはキリストが来られていやしが行われることの預言だったと言えるかもしれません。ある先生はこの箇所の杉の木は十字架、緋色の撚り糸はキリストが流された血を象徴していると言います。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

レビ記 13:1-59

「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。」(13:2新改訳二〇一七)

第三版、新改訳二〇一七でツァラアトと訳された単語を、聖書協会共同訳では

「既定の病」

と訳しています。このように解説しています。

「『ツァラアト』はその語源も意味も明らかではない。『ツァラアト』は祭儀的な汚れという観点から人や物について書かれている。人について用いられている場合には、何らかの皮膚の疾患を指すが、病理学的にはいかなる病気であったか明瞭ではない。」

はっきり分かっていないものの、罪の象徴として聖書には取り扱われています。キリストは彼らを汚れていると宣言するためではなく、彼らに触れ、彼らを癒すために来られました。

レビ記 11:1-12:8

「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。」(11:2)

食物規定は、イスラエルの民が、他の民とは区別されていることを示すものでした。もちろん、学者たちが指摘してきたように、バクテリア、寄生虫、ウィルス、毒素などの問題から彼らを守る役割もあったと思います。イエス・キリストは旧約聖書を成就されました。ですから、聖書は言います。

「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」(マルコ7:19)

イエス・キリストが成し遂げられたことを無視して食物規定に縛られないように、聖書はさらにこう記しています。

「食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」(Ⅰテモテ4:3-5)

ビバ!炊飯器!!

先週の婦人会の折、以前いただいたサムゲタンキットを使って昼食を作る計画を立てました。サムゲタンは韓国の丸鶏スープ。ナツメや高麗ニンジン、ニンニクなどと一緒に鶏を丸ごと煮込んで作ります。ところがいざ作り始めると鍋はもう丸鶏でいっぱいいっぱい。でも、これで下準備は完成だしいいや、と思っていたところ婦人会の皆さんはそこに野菜も次々と投入していきます。当然鍋の蓋が閉まらなくなり、もう一つ鍋を準備しようとした時、目の前に黄金のごとく輝く二升炊きの炊飯器が。炊飯器で炊きましょう!そう提案し、鍋のものを炊飯器にどんどん投入してスイッチオン。それはそれは美味しいサムゲタンが完成しました。それに味をしめ、今日のアルファのために同じ炊飯器でいま角煮を作っています。全ては益となりますね。そんな婦人会での学びも、もうすぐ新約聖書を終えるまでになりました。毎週一章づつじっくりと新約聖書を学んでいます。おいしいサムゲタンのように味のある婦人会に、みなさんもぜひ一度参加してみてくださいね。歓迎します。(小山晶子牧師婦人)