まどわしの光?

数週間前、教会に一番近い街灯の修繕が行われました。もう半年近く前になりますが、真夜中に交通事故があり(とはいっても自損事故なのですが)街灯がついているポールがぐにゃりと曲がってしまい、全てが撤去されていたのです。この場所で事故があるのはその時で私たちが知っているだけでも3回目。いつも同じような状況で事故が起こるので不思議に思っていました。日頃コンビニの明かりや信号の明かりがまぶしくてこの場所に街灯がなくなったことを喜んでいたのですが、修繕によって更に明るい夜が戻ってきていました。ところが街灯が修繕されてほんの数日で、また同じ場所で真夜中事故が起こったのです。撤去されていた時には一度も起こらなかったのに。事故を引き起こす惑わしの光。私たちもそんなふうにならないよう真理の光に目を向けていきましょう。(小山晶子牧師婦人)

マタイ5:43-6:24

「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(6:10)

御国とは、神が治められる場所です。天は神の領域で、神のみこころが完全に行われています。イエス様は、私たちが生きているこの地上に、天と同じように神のみこころが完全に行われるように、神の完全な支配がこの地に実現するように祈るように求められました。それは、私たち一人一人が、まず、日々の生活の中で神のみこころに生きることを求めています。神のみこころは聖書にあらわされています。一つは、「すべての事について、感謝しなさい。」(1テサ5:18)この年、日々、感謝することに挑戦してみませんか?
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

マタイ5:21-42

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(24節)

神殿に供え物だけしていればいいとはイエス様は言われません。パウロもこう言っています。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18新改訳2017)

憎しみをもったまま主に礼拝を捧げることはできません。赦しと和解は供え物以上に大事なことだとイエス様は言います。

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」(9:13)

マタイ4:23-5:20

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(5:9)

神の子どもは平和をつくる使命があります。平和は単に争いがない状態ということではありません。何も見ず、聞かず、言わずがキリスト者のあるべき姿ではありません。使徒パウロはこう言っています。

「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(2コリント5:18)

私たちは和解の務めが与えられています。人はまず何よりも創造主である神との和解が必要です。神の側は、イエス・キリストの十字架のゆえに「その罪を数え立てずに」(LB)和解のメッセージを委ねてくださいました。私たちは伝える使命があります。

マタイ4:1-22

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」(17節)

 

イエス・キリストの宣教、その中心は「天の御国」です。「天」は神の領域です。神の支配が完全に実行されている領域です。イエス・キリストの宣教とは、まさに、この神の領域がこの地に臨んでいるということです。「悔い改め」と訳された単語は、「考え方を変える」という意味です。ですから、イエス様の宣教というのは、聖書が預言してきたように神ご自身が王としてこの世界を治められるから、人間中心の考え方から神中心の考え方に変えなさいと言うことです。

 

※ 本日のSSCの婦人会はお休みです。

マタイ2:19-3:17

「ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。」(3章15節)

イエス・キリストが水のバプテスマ(洗礼)を受けられたことに関して、学者たちは様々な憶測をします。なぜなら、バプテスマのヨハネは「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けています」(11節)と言いましたが、イエス様は罪がないのに悔い改める必要があったのかと。しかし、イエス様が水のバプテスマを受けられたのはご自分の罪のためではなく、「すべての義を成就(完成)するため」(直訳)でした。

マタイ2:1-18

「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、」(14節)

イエス様の時代に、エジプトのアレキサンドリアにユダヤ人共同体が存在していたことは周知の事実です。ディアスポラと呼ばれる離散ユダヤ人共同体とイエス様の接点をほのめかしているようにも感じられます。もっとも15節の「ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。」というマタイの解説は出エジプトの物語が背後にあることをほのめかしています。イエス・キリストがこの地上で成し遂げられたことは出エジプトであると。私たちを解放するためであると。

マタイ1:1-25

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」(1節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。心機一転、今年は、新約聖書を共に旅していきたいと思います。新約聖書を読み始める上での最初の難関は系図です。もっともこのイエス様の系図は普通ではありません。女性や外国人や道徳的に問題がある人が含まれています。この系図に、神の愛の大きさを垣間見ることができます。また、イエス・キリストはアブラハムとダビデの子孫であることは重要なポイントです。なぜなら、神はアブラハムとその子孫と契約を結びました。(創世記十五章)聖書が約束したメシア(キリスト)はダビデの子孫とあるからです。(イザヤ書十一章)

宿題、そして祝大

デイリーデボーションは創世記から黙示録までの旅を一日一章、五周してきました。当初は、聖書を共に読み、その読んだ箇所から主日のメッセージを語ると言うスタイルでした。2018年を迎えるにあたって、聖書のみことばをさらに味わうことができるように、新約聖書を一年で読み終わることができる聖書日課に共に挑戦していきたいと願っています。主日のメッセージもその読んだ箇所の中から基本的には語らせていただきたいと願っています。大和カルバリーチャペルの大川先生は、「宿題の箇所から」という表現をされています。もっとも聖書日課の「宿題」は、祝福が大きい「祝大」だと言います。新しい年、祝福が大きい新約聖書通読の「祝大」(宿題)に共に挑戦していきたいと思います!

ヘブル書 11章

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(6節)

信仰の至上の型は答えを得る前に神を感謝することです。もしかしたら、今、危機的な状況に直面しているかもしれません。あなたが求めている奇跡のために、あなたはいつ神に感謝しますか?神がすでにしてくださったことを感謝することは、お礼です。しかし、先取りして神に感謝することは、信仰です。神がこれからどうなされていくか分からなくても、神がなされていることを感謝しましょう。勝利を見る前に、勝利の歌を歌いましょう。今日は今年最後の主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。