マタイ15章

「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」(18,19節)

18節をメッセージ訳ではこう訳しています。

「しかし、口から出てくるものは心から始まります。」

つまり、私たちが一番気をつける必要があるのは心だとイエス様は言われました。箴言4:23にはこう書いてあります。

「何よりも、心を見守りなさい。心は生活全体に影響を与えます。」(LB)

どんなテレビを見るか?

どんなホームページを見るか?

どんな音楽を聞くか?

友人とどんな会話をするか?

私たちは心を見守る必要があります。

心が荒んでいくと、悪いことばが口から出て私たちを汚します。

ですから、日々、神のみことばに浸かる必要があります。

「主よ、あなたのみことばに私を浸してください。私の心をきよめてください。」

マタイ14章

「イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」(29,30節)

信仰と恐れは、互いに相容れません。信仰は恐れを消し、恐れは信仰を消します。もし、私たちがイエス様から目を離すことがなければ、私たちの信仰が水の上を歩くような世界に生きることを助けてくれます。しかし、現実の嵐のような状況は、私たちの目をイエス様から反らさせます。その時、私たちは失望の中に沈みます。しかし、ペテロのように「主よ。助けてください。」と、私たちを唯一助けることができるお方、イエス・キリストに叫ぶならば、イエス様がその御手を伸ばし、私たちを救い出してくださいます。イエス様は言われます。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」

今は恐れの時ではありません。信仰の時です。

マタイ13章

「いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。」(29,30節)

麦か毒麦か、人が判断することはできません。私たちは、最後の審判までそのままにしておくように命じられています。すなわち、裁きは神に委ねるという姿勢が求められています。私たちは自分の善悪の基準で人を裁くことは許されていません。もし、自分の善悪で人を裁くならば、麦まで引き抜きかねません。イエス様は、「収穫の時まで放っておきなさい」と言われます。つまり、イエス様が責任をもって裁くから、放っておきなさいと言われるのです。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

マタイ12章

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。」(20節)

能率主義、成果主義から考えると、理解に苦しむ箇所です。いたんだ葦も、くすぶる燈心も、捨てて換えたほうがいいものです。役にたたないどころか、迷惑なものです。しかし、イエス様はそんな「おちこぼれ」に希望をもたらされるお方だと言うのです。

「弱いものを踏み倒さず、どんな小さな望みの火も消さない。」(LB)

イエス様は決して見捨てないお方だと言うのです。イエス・キリストの十字架の御業が勝利をもたらしましたから、イエス・キリストを信じる者に、希望があります。

「彼の名こそ、全世界の希望となる。」(21節LB)

讃美歌「いつくしみ深き」の歌詞に「世の友、我らを捨て去る時も」とありますが、イエス様はあきらめません。希望はあります。

マタイ11章

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28節)

イエス様は私たちを招いています。イエス様は言われます。

「わたしのもとに来なさい。」

私たちはイエス様のもとに行き、イエス様と時間を過ごす必要があります。

「そうすれば、あなたは人生(いのち)を回復します。」(MSG)

イエス様のもとに行くためには、私たちは静まる必要があります。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46:10)

やらなければいけないこと、不安に思っていること、ひとまずすべてを手放して、心を静めて聖書を読み、祈る。その時、聖霊が臨まれ私たちに回復を与えてくださいます。

マタイ10章

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」(29節)

一アサリオンは当時の労働者の日給の十六分の一に相当します。二羽が意味していることは一羽では値がつかないということです。この世で値がつかない、価値がないとみなされる雀の一羽でも父なる神は気にかけておられると言うことです。残念ながらこの世界は私たちを無価値のように扱うことがあります。私たちが自分の価値をこの世界の価値観に置くならば、平安を得ることは出来ません。私たちは自分の価値を神の国の世界観に置く必要があります。神は言われます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

世界がどんな値をつけようとしても、あなたは神の目には高価で尊い存在です。

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マタイ9章

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」」(12,13節)

イエス様は当時罪人としてはじかれていた人たちと、あえて食事をされました。当時の宗教指導者たちにとって、誰と食事をするかは重要なことでした。なぜなら、穢れた人と共に食事をしたら、自分も穢れると考えていたからです。彼らはいつも自分が正しかったのです。しかしイエス様は、神の愛が必要な人ならだれにでも近づいていき、一緒に食事をしました。食事は、神の国の現れを意味していたからです。神の国は、憐れみ深くなることを通して現されます。自分の物差しで他者を裁き、自分がいつも正しい人は、その食卓に着こうともしません。罪人が罪人のままであって良いという意味ではなく、信仰を前提としています。

※ 明日のSSCの主日礼拝は緊急事態宣言の発出に伴い、10:25からのYouTubeの配信のみで行います。

https://www.youtube.com/channel/UClFWI5CeW9GSoyFA6kK6hhg

マタイ8章

「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8節)

権威者の発言には力があります。一国の首相の発言は、国全体に影響を与えます。百人隊長は自分の部隊を訓練し、戦場へ引率しました。彼らはとても面倒見が良かったらしく、兵士や退役軍人の墓には所属していた百人隊長の名が刻まれています。そんな百人隊長だからこそ、しもべのことを気にかけ、イエス様の発言に、それほどの権威を認めることができたのだと思います。聖書は言います。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10,11)

聖書を読むとき、それほどの権威を認めているでしょうか。主なる神は気にかけておられます。

マタイ 7章

「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」(17節)

文脈でも明らかなように、この発言の背後には偽預言者の問題があります。

「彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。」(15節)

ですからメッセージ訳ではこう訳しています。

「カリスマ性に感銘を受けてはいけない。品性(キャラクター)を捜し求めてください。」

もちろん、品性は木のように一夜にして身につけられるものではありません。使徒パウロも言います。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」(ローマ5:3,4)

日々の歩みの中でどのように生きていくかが私たちの品性を生み出していきます。「偽預言者」に騙されないように、日々主の御言葉に耳を傾けていきましょう。

マタイ6章

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(34節)

メッセージ訳ではこのように訳しています。

あなたの注目の全てを神が今なされていることに向けなさい。そして、明日、起こるか起こらないか分からないことに取り乱してはいけません。神はどんな大変なことでも、それがやってきた時、あなたが取り組むことができるように助けられます。

私たちには理解できないことがたくさんあります。神が何をなされているか理解できないことがあります。時には神の不在さえ感じてしまいます。しかし、神は今も御座に座し、御業を行われています。神は良い神であり、そのなさることは全て良いことです。(詩篇119:68参照)私たちに求められていることは、神を信頼することです。