2列王記 18:1-19:13

「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(18:4)

民数記21章に、荒野を旅していたイスラエルの民が神に文句を言う出来事が記されています。神は奇蹟的なマナで彼らを養っていたのに、彼らは言いました。

「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5節)

それで神は燃える蛇を送り、多くのイスラエルの人々が蛇に噛まれて死にました。モーセは、神が命じられたように一つの青銅の蛇を作りました。人々はその青銅の蛇を見上げると、生きました。しかし、イスラエルの人々は、今度はその青銅の蛇を礼拝するようになっていたというのです。神の約束に対する信仰が彼らをいやしたのであって、青銅の蛇の彫像物が彼らをいやしたわけではありません。

神ではなく、道具を崇めていないでしょうか?

2列王記 16:1-17:41

「アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。」(16:10)

アハズ王は、アッシリヤ帝国の力の背後に、より力がある神々の存在があると考えました。それで、アッシリヤ帝国と同じ神々を礼拝すればイスラエルの国も繁栄すると短絡的に考えます。悲しいことに、祭司たちもそれに従い、生ける神の神殿はアッシリヤ帝国の神々のために変えられてしまいます。結局のところ、彼らは神を神とせず、自分の益のために利用できる神々かどうかとしか見ていなかったのです。それで、自分の思い通りに向かわないから、より強そうな神々へと簡単に乗り換えてしまったのです。そもそも、十字架にかかられた生ける神は、私たちの思い通りにはなりません。神は神であり、人は人。何でもできる力ある神ですがジーニーではありません。

みえない

梅雨らしい天気が続いています。
もんわりする暑さと乾かない洗濯物にそろそろ嫌気がさしてきた方もいらっしゃるでしょう。そんな梅雨のさなかの先週木曜日、悪天候のため婦人会を急遽お休みにすることにしました。朝から降り続いている雨と台風のような風に驚きながら車を運転していたところ、どんなにワイパーを速く動かしても前がまったく見えないほどの土砂降りの雨に遭遇しました。とても怖かったです。使い慣れてる道なのに、周りが見えなくなって自分がどこにいるかが一瞬わからなくなってしまいました。その時、隣に乗っていた次男が「信号が赤だよ。とまって。」といった言葉にはっと我に返りました。いま、このことを書きながらその場面を思い起こしているのですが、たとえ自分は見えていなくても、聖霊なる神様がともにおられるならその声に耳を傾ければいいのだということを改めて思い起こしています。人生は、前の見えない道をドライブしているような場面が多いですが、主が隣にいてくださるから、私たちは平安なのですね。   (小山晶子牧師婦人)

2列王記 14:23-15:38

「彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。」(15:3)

15章はユダとイスラエルの王たちの事跡が次々とわずかな言葉によってまとめられます。一人一人の人生には様々な出来事があったはずですが、数行で片付けられています。ちいろば先生こと榎本師はこう言います。

「聖書はそうした王たちの事跡を記しながら、最後に必ず彼が神に対してどのように生きたかを記している。このことは私たちの人生にとって何が最も重要なことであるかを示しているのではなかろうか。」

人生は結局のところ、私たちが神に対してどのように生きたかが問われます。さらに榎本師はこう言います。

「しかし、そうした生き方は見よう見まねによることが多い。」

アザルヤ(ウジヤ)は父が行なったとおりに主の目にかなうことを行ったと言います。私たちの生き様が、次世代に影響を与えます。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2列王記 12:1-14:22

「ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。」(13:18)

「地面を打ちなさい」と言われて、何度も地面を打つ人は稀だと思います。三回で止めたイスラエルの王に対してエリシャは怒って言いました。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」この時代、戦いが一度や二度で決着がつくことは稀でした。決定的に勝利するためには、五回、六回、勝ち続ける必要がありました。イスラエルの王は、そのことを知りながらも、三回で止めてしまったのです。「この位でいい」と。そのような消極的な姿勢をエリシャは怒ったのです。私たちはどうでしょうか?主は勝利するまであきらめてはいけないと言います。
「地面を打ちなさい!」

2列王記 10:1-11:21

「しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。」(10:31)

エフーはイスラエルの国における宗教改革を徹底的に行った人物だと考えられていました。彼はイスラエルにバアル宗教を導入したイゼベルをはじめ、バアル礼拝者を一掃しました。しかし、聖書は言います。

「しかしエフーは、真心からイスラエルの神、主に従おうとはしませんでした。」(LB)

エフーは確かに神に従って、イスラエルの中にあった悪を一掃しました。しかしチャック・スミス師は、エフーはこれらを政治的な動機でしていただけで、霊的な動機ではなかったと指摘します。エフーの動機は、神に対する畏れではなかったと言うのです。今も昔も、宗教戦争という名目で利権の戦争が世界中で起こっています。私たちは表面的な部分で判断しないように気をつける必要があります。神は心を見ます。

2列王記 8:16-9:37

「ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」」(9:22)

「元気か?」と訳された言葉の原語は「シャローム」。あいさつのことばですが、「平和、平穏無事」という意味があります。ですからエフーは「何が元気か!」ではなく「何が平和か!」と言いました。F・B・マイアーは、こんなことを言っています。

「イゼベル的な不貞や色香をゆるすかぎり、真の平和はありえません。イゼベルはその奸計と容色とをもって虚飾の世界に君臨しました。けれども、その魅力がいかなるものであろうとも、真の平和が来る前には、それは吹き飛ばされなければなりません。」

神に油注がれたエフーによってイゼベルがつくりあげた偽りの平和は吹き飛ばされました。そして今、平和の君、イエス・キリストの十字架によって本物の平和はもたらされます。

2列王記 6:24-8:15

「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」(7:3)

キリスト者の必読書、スポルジョンの『朝ごとに夕ごとに』にこう書いてあります。

「愛する友よ。この書は主として信者への教訓として書かれたものだが、もしあなたが救われていないならば、私は心からあなたに同情し、あなたの祝福になることを語りたいと思う。聖書を開いて、らい病人の物語(Ⅱ列王記7章)を読んでいただきたい。なんと彼らの状態はあなたのそれと似ていることか。もしあなたが現在の所にとどまっているならば、あなたは滅びなければならない。…不機嫌に失望の色を浮かべじっと座っていても、破滅が来た時、だれもあなたを顧みるわけではない。…しかし、主の側に立って、主を求めるならば、あなたは主を必ず見いだすということを私は保証したい。イエスはご自分のもとに来た者を捨てられたことがない。」

イエス・キリストの中に希望があります。

2列王記 4:38-6:23

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(5:14)

ナアマン将軍は、ツァラアトに冒されていました。(「ツァラアト」は、二版では「らい病」と訳していましたが、「ハンセン氏病」など、特定の病名と結び付けられないことから三版からヘブル語表記となりました。)彼は自分の病気をいやしてもらうためにわざわざエリシャのもとに来たのに、エリシャが出て来てあいさつもせず、ただヨルダン川に七たび身を浸すように言ったことに腹を立てました。しかし、部下の進言に耳を傾け、エリシャが言ったとおりに実行しました。その時、いやしを体験しました。どんなに納得できなくても、「神の人の言ったとおりに」、現代の私たちに適用するなら、聖書のみことばとおりという姿勢が、人生に奇跡をもたらします。

2列王記 3:1-4:37

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、」(3:15)

エリシャはイスラエル、ユダ、エドムの求めに応じて神からの預言をするために、立琴をひく者を呼んで、立て琴をひき鳴らす中で主の手がエリシャの上に下り、語りはじめました。聖書を見ますと音楽と神の油注ぎが切り離すことができない関係にあることを見ます。祈りの時に、賛美の音楽を奏でることに意味があります。教会において、礼拝音楽はとても重要な位置にあります。賛美の中で私たちの心は神のことばを聞く心に整えられ、私たちの人生の中における聖霊様の働きに心の扉を開くことができるからです。聖書にこう書いてあります。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:18,19)