2サムエル 23:1-12

「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。」(23:2)

ダビデの「詩篇」が正典に含まれているように、聖霊の働きの下でダビデが語ったことは、聖霊に属します。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(2ペテロ1:21)

ダビデが書いたのですが、聖書の本当の著者は、聖霊なる神であるということです。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(2テモテ3:16)

ペンテコステの日、そのことを理解していた使徒ペテロはダビデの詩篇を引用して言います。

しかし、彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人がメシヤとなり、ダビデの王座につくと神が誓われたことを知っていたのです。」(使徒2:30LB)

聖書は神の言葉です。

今日は主の日、聖霊降臨日(ペンテコステ)、教会の誕生日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル 22:29-51

「あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。」(22:30)

「神によって」は、「神と共に」と訳すこともできます。

神によって、もしくは、神と一緒ならば、どんな壁も飛び越えることができるというのです。

イエス様は言われました。

「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)

使徒パウロも言いました。

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

人には突破できないように見えるどんな障壁も、神によって、神と一緒ならば、突破することができます。

このダビデの晩年の告白は、ダビデ自身もいろいろな壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。

ダビデはいろいろな壁にぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒なら大丈夫ということを確信していったのだと思います。

私たちは父、子、聖霊の三位一体なる神が必要です。

2サムエル 22:17-28

「主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。」(22:17)

主なる神は、天におられるいと高きお方です。

しかし、この地にその御手を伸ばして引き上げてくださるお方です。

イエス様の弟子のペテロは、文字通り、イエス様が御手を伸ばして、彼を捕らえ、大水から引き上げられる体験をしました。(マタイ14章参照)

ペテロが助けを求めたとき、イエス様が手を伸ばして、彼をつかんで引きあげてくれたように、ダビデも、

「苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ」(6節)

その時に、主が手を伸ばして、彼を捕らえ、引きあげてくださったと告白しているのです。

「大水」、それは、自分よりも強い勢力を象徴します。

神はどんな強い勢力からも助け出してくださいます。

聖書が教えていることは、主なる神は、主を呼び求めるすべての人に、その御手を伸ばし、しっかり捕まえて、引きあげてくださるお方ということです。

2サムエル 22:1-16

「主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。」(22:1)

ダビデ王が晩年、人生を振り返った時に、様々な敵から神が救い出されたことを回想して、この詩を書いたと言います。

「特にサウルの手から」とありますが、ダビデにとって、サウル王から命を狙われたことは大きな悩みでした。

ダビデは、そもそもサウル王に命を狙われる理由はありませんでした。

ダビデは、サウル王の忠実な部下であり、サウル王の娘と結婚した、親族でもあったのです。

ところが、サウル王はダビデを妬み、彼に槍を投げました。

そして、サウル王は死ぬまでダビデの命を狙い続けました。

ダビデがこの詩を書いたのは、救い出してくださる神がおられることを証するためだと言います。

ダビデが体験したように、プレッシャーを感じている人が、生ける神を見上げることができるためだと言います。

2サムエル 21:15-22

「ペリシテ人が再びイスラエルに戦いを仕掛けたことがあった。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。」(21:15)

 ダビデの戦いは、人生の後半にもなくなることはありませんでした。

ダビデが疲れ果てていたところに、敵は向かってきましたが、ダビデの部下たちがダビデを助けたと言います。

この箇所に出てくるペリシテ人たちは、特殊な能力を持った勇士たちでしたが、主は勝利を与えられたと言います。

聖書は言います。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」(ローマ15:4,5)

互いに祈り合い、励まし合い、助け合うことができますように。

2サムエル 21:1-14

「ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは主の御顔を求めた。主は言われた。「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」」(21:1)

 この地上に起こるすべての災害を何かに関連づける必要はありません。

しかし、民の霊的な状態がこの世界に起こる出来事の根本にあることもまた事実です。

道徳的な腐敗はこの地を荒れ廃れさせます。

「そのため、ダビデが特別に時間をかけて祈ったところ、主は答えました。」(1節LB)と聖書は言います。

私たちに求められていることは、時間をかけて祈ることです。

神は言われます。

わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」(2歴7:14)

私たちの国は癒しが必要です。

へりくだり祈る人が必要です。

2サムエル 20:14-26

「女は言った。「昔、人々は『アベルで尋ねよ』と言って、事を決めました。」(20:18)

 シェバの反乱は失敗に終わり、彼はアベルという町に避難しました。

それで、ヨアブの軍は町を包囲し、その城壁を破壊するところでした。

すると、その町の一人の知恵ある女性がヨアブと交渉をします。

実は、昔から『物事に決着をつけたければ、アベルの人に聞け』と申すのでございます。いつも、私どものお勧めすることが理にかなっているようでしてね。私どもの町は、昔から平和を愛し、イスラエルに忠誠を尽くしてまいりました。今、この町を攻めるおつもりですとか。どうして、この神様の町を滅ぼそうとなさるのですか。」(18,19節LB)」

「アベルで尋ねよ」ということわざが正確に意味しているところは分かりませんが、アベルの人たちはその知恵で有名だったということです。

聖書は言います。

知恵の初めそれは主を恐れること。」(詩篇111:10)

知恵によってアベルの町は滅びることはありませんでした。

2サムエル 20:1-13

「アマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。」(20:5)

ダビデは、自分に反乱したアブサロムの軍団長、アマサをヨアブの代わりに軍団長に任命しました。

ダビデの軍団長だったヨアブは、ダビデの願いを無視してダビデの息子アブサロムを殺害したため、左遷されたのだと考えられます。

しかし、アマサは三日のうちに軍を召集する命令をうけたのに、間に合いませんでした。

そのため、ダビデはヨアブの弟、アビシャイに任務を与えます。

アマサがどうして間に合わなかったのか、理由は記されていません。

しかし、チャック・スミス師は、この箇所からこんなことを言っています。

神が命じられたならば、すぐ行動を起こすことは大事なことです。もし、神があなたに何かを語ってるなら、今それをしましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

最近思うこと

身近な方を天に送ることが増え、自分自身も生まれて半世紀がたったということもあり、最近御国のことに想いを馳せることが以前より増えてきました。

そんな中でふと考えたことは

死んだからといって突然良い人になるわけではない

という事です。

クリスチャンはイエス様によって救いの恵みを受け、永遠の命を与えられるのですが自分の性質は死んだら無条件に整えられ、御国に相応しくなれるわけではないという事に遅ればせながら気付かされ考えさせられています。

聖書に書かれているキリスト者の性質、つまり神を愛し互いに愛し合うということは御国の民としてこの地上で学ぶべき必要不可欠な条件でありその準備のためにここでの時間が与えられていると言えるのかもしれません。

今という時が御国の民としての準備、訓練の時間だと考えるとこれまで以上に試練や苦しみも前向きに受け止められるのではないかと思うのです。

聖霊様に委ねて、練られるべき性質を捏ねていただき日々御国の民として相応しい者へと変えられていく歩みは、今日も希望に満ちています。

(小山晶子牧師人)

2サムエル 19:31-43

「イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王のうちに十の分を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っている。なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。」(19:43)

イスラエルの十部族とユダ部族は、ダビデ王の孫の時代に分裂します。

この箇所にあるように、この時すでに対立していたことが分かります。

彼らはダビデ王に忠誠を誓っているように見えますが、ダビデ王を巡って争っています。

しかもそれまでは、ダビデ王に対して争っていました。

残念ながらこのように手のひらを返したようなことが起こります。

ですから、使徒パウロが

キリストの愛に動かされて行っているのです。」(2コリント5:14LB)

と言うように、キリストの愛に動機づけられることが大切です。