ローマ 16章

「あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべてのキリストの教会が、あなたがたによろしくと言っています。」(16:16)

「聖なる口づけ」は文化的なものですから、「真心のこもったあいさつ」と訳す方が良いと思います。

パウロのポイントは、これらの人々を互いに、家族のように歓迎し、交わりの中に加えて欲しいということです。

「よろしく」と訳された単語は、「あいさつをしてください」という命令形で、キリストの教会はみな「あいさつしている」と結んでいます。

ある牧師はこのように言います。

「礼拝においでになる方の中には、神様と交わりを持ちに来たのだ ‐ だから人間同士で触れ合うことは、あまり大切ではないと考える人もあるかもしれません。しかし、イエス様のおっしゃった二つの大切な戒めも、神への愛と隣人への愛と二つの局面が指摘されています。(中略)礼拝に出席し、誰ともあいさつすることなく帰ったということのないようにしましょう。」

あの日の悲劇は

わたしの母校である東京基督教大学は全寮制です。

次男も現在そこの男子寮で生活しています。

私が在学中だった1993年10月28日、いまでも忘れることのできない出来事が起こりました。

確か夜中だったと思うのですが、静かな暗闇の中、突然男子寮の方から大勢の悲鳴が聞こえてきたのです。

自然あふれるキャンパス、しかも寮のある敷地は当時寮の建物以外何もなく、すっかり寝静まっていた女子寮にまで響き渡る男子の悲鳴は私たちの目を覚ますには十分な大きさでした。

不安な気持ちで朝を迎え、ようやく何があったかが知らされました。

サッカーワールドカップアジア予選で日本代表がロスタイムにイラクの同点ゴールを許し、本大会への夢がつかみかけた指から零れ落ちていった瞬間の悲鳴だったのです。

夜中に男子全員でテレビ観戦していたとのこと。

先日のドイツ戦での勝利のニュースをこの時のドーハの悲劇とリンクさせて報道しているのを見ながら、懐かしいあの日のことを思い出しました。

今月はTCUのための祈りとサポート月間です。

祈りに覚え、ご支援いただければ幸いです。
(小山晶子牧師夫人)

ローマ 15章

「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。」(15:4)

教会の暦では今日からアドベント(待降節)が始まります。

イスラエルの国の理想的なストーリーは、イスラエルの国が十戒をはじめとする神の律法を忠実に守り、この世界の祝福の基となることでした。

しかし、旧約聖書にはその理想的なストーリーに生きられなかったイスラエルの姿が描かれています。

聖書は私たちに、そんなイスラエルをも神は見捨てなかったことが記されています。

そして、来たるべきメシヤ、イスラエルの王が、そのイスラエルの理想的なストーリーを成就されたという希望を提示しています。

そのことを覚えつつ、聖書が与える忍耐と励ましによって、このアドベントを過ごしましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ローマ 14章

「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(14:1)

聖書は本質以外に関しては、自分の常識を押し付け合うのではなく、多様性を認めることを命じています。

「さばいてはいけません」と訳された単語は、良し悪しを「区別する」という意味があります。

つまり、自分の常識を押し付けないということです。

ある聖書学者はこう言っています。

「そのように異なる確信をもつキリスト者が同じ交わりの中にある時、どうするべきなのだろうか。その問題について徹底的に議論して、一方が他方に改心するようにすべきか。『否』とパウロは言う。…自由に生きている人々は、ほかの人々を霊的に未熟だと軽蔑すべきではない。良心のとがめを感じている人々は、自分たちが行わないことを、仲間のキリスト者がしているからといって、批判するべきではない。キリスト者はそれぞれが、キリストのしもべである。」

本質以外は寛容でありましょう。

ローマ 13章

「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。」(13:11)

聖書はイエス・キリストがこの世界の終わりに再び来られること(再臨)が約束されています。

そして、その日はもっと近づいています。

私たちはイエス様がいつ来てもいいような生活をすることが求められています。

そもそも、イエス・キリストが死からよみがえられたことによって「すでに」夜明けは始まっています。

完全な昼は「まだ」です。キリストが再び来られる時に完全な昼は訪れます。

しかし、キリストが死からよみがえられたことによって、「すでに」夜明けは始まりました。

パウロのポイントは、この「すでに」と「まだ」という時に生きているということが分かっているならば、そのことを知っている者らしく生きるようにということです。

ローマ 12章

「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、」(12:6)

教会は一つの器官がすべての機能を果たすようにはなっていません。

牧師一人で何とかなるものではありません。

神はあえて異なる賜物をそれぞれに与えられました。

私たちは謙遜に互いが必要であることを認める必要があります。

ですから、お互いの欠けているところを責め合うのではなく、補い合うことによって教会は健全に機能するようになっていきます。

私たちが成長する中で培われてきた能力も、神が与えてくださった賜物だと言えます。

自分で努力して会得したものであったとしても、その機会が与えられたことも、神の恵みの世界だからです。

神の霊が臨まれて、今まで考えもしなかった新しい賜物が与えられるということもあります。

いずれにせよ、与えられた神の恵みにしたがって、神の賜物を用いていくことができますように。

ローマ 11章

「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(11:36)

すべてのものは神によって存在しています。

すべてのものの起源は、天地万物の造り主、神にあります。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)

神が造られなければ、すべてのものは存在していません。

そして、今、すべてのものは、神の支えがあって存在しています。

酸素があることも、太陽が昇ることも、地球が自転したり、公転したりすることも、すべて絶妙なバランスで世界は存在しているのです。

そして、すべてのものは、神のために存在しています。

すべてのものの最終的ゴール、目的は、神に栄光を帰すことです。

すべてのものは神のために存在しています。

造られた者の最終目標は、神の栄光を現わすことです。

Soli Deo Gloria!

ローマ 10章

「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。」(10:4)

第三版まで

「キリストが律法を終わらせられた」

と訳されていました。

「終わらせられた」という単語は「テロス」という単語が使われています。

この単語は、徒競走の「ゴール」と同じような意味があります。

徒競走のゴールは、そのレースの完了という意味があります。

ですから、「キリストが律法」の「テロス」という意味には、「キリストが律法を完了した、成し遂げた」という意味があります。

同時にゴールは、レースの目標地点であり、目的でもあります。

ですから「キリストが律法」の「テロス」という意味には、「キリストが律法の目標、目的」だったという意味があります。

キリストが私たちのために、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえり、天に昇り、栄光の御座に着座され、信じる者に聖霊を与えられたことにより、旧約聖書が指し示していた内容が成就したということです。

ローマ 9章

「しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。」(9:6)

イスラエル民族に生まれた者がみな、「イスラエル」という意味ではないと言います。

「イスラエル民族」の選びが無効にされて、「イスラエル民族」に置き換わって「キリスト教会」が選ばれたという意味ではありません。

神の選びというのは、最初から一つの民族に限定されたものではなかったということがここで論じられている内容です。

アブラハムの血族だからアブラハムの子孫になるわけではなく、神が約束したから、イサクはアブラハムの子孫になったということを示し、血筋より、約束が優先されている事を示します。

つまり神のご計画がだめになったわけでもなければ、変更したわけでもありません。

イエス・キリストの十字架の死と復活は神のことばを成就したという事です。

やっぱり○○○○がすき

すでに何度かユース対象聖書考古学の講義で取り上げているヒゼキヤ。

聖書の中で一番好きな人物です。

聖書を立体的に見ることができる良い機会となればと願いつつ十一月二十三日のワンデイバイブルスクールでの講義のため改めて学び直しているところです。

知らないこと、忘れていることを吸収することはやっぱり楽しい!

最近なかなかまとまった時間集中して勉強する時間が持てていなかったのでこういう機会をいただけることによって半ば強制的に机に着くことができ感謝です。

わたしの考古学好きは小学生のころから始まっていますが(きっかけはまんがです)苦手だった世界史が好きになったきっかけは高校時代の世界史の先生との出会いでした。

ミクロの世界でしか見ていなかった歴史を、マクロの視点で見ることを学び、理解が劇的に変わったのです。

高校生のわたしに、世界史に興味を持たせてくれたあの先生のように、興味を持っていただけるよう準備していきたいと思っています。

歴史の中で栄光を現される神様の素晴らしさを参加者が体験することができるようお祈りください!

(小山晶子牧師夫人)