1列王記 3:16-28

「全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」(3:28)

富や長寿よりも知恵を選んだソロモン王の名は伝説となりました。

もっとも、知恵を求めたこと自体が、最大の知恵だったと言えるかもしれません。

知恵は、単なる情報や理論的な知識ではありません。

善と悪を区別し、それに基づいて行動する実践的な能力です。

この箇所で、ソロモン王は与えられた知恵で、具体的に二人の母親を裁きます。

生きている子がどちらの子かを判別するために、子どもを二つに切り分けるように命じます。

本当の母親は、その子を愛していたので、その子が殺されずに、生かすために手放そうとします。

ところが、もう一人の母親は、「断ち切ってください」と言います。

このようにして、どちらが本当の母親かを明らかにしました。

聖書は言います。

「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)

1列王記 3:1-15

「そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。」(3:13)

神はソロモン王に言いました。

「あなたに何を与えようか。願え。」(5節)

ソロモンは自らの未熟さを認め、王国を治めるための

「聞き分ける心」(9節)

を求めました。

聖書は言います。

「ソロモンが知恵を願い求めたので、主はことのほか喜びました。そこで、こう答えました。「あなたは民を正しく治める知恵を求め、長生きすることや財産、または敵に勝つことを願わなかった。 したがって、望んだものを与えよう。しかも、ずば抜けた知恵を。また、望まなかった財産と名誉も与えよう。あなたが生きている間、財産と名声であなたにかなう者はだれもいないだろう」(3:10-13LB)

聖書は言います。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

1列王記 2:36-46

「それなのになぜ、主への誓いと、私がおまえに命じた命令を守らなかったのか。」(2:43)

シムイはサウルの家の一族の一人でした。

アブシャロムの反乱によってエルサレムを追われたダビデ王を呪った人物でした。

アブシャロムが死に、ダビデ王がエルサレムに戻る時に、シムイはダビデを迎えに下ってきて、赦しを求めました。

それで、ダビデ王は彼を赦しました。

しかし、ダビデ王は彼が脅威になると考えたのか、ソロモン王に彼を処刑するように命じました。(2:9)

ソロモン王がシムイに命じたことは、エルサレムから出て行ってはいけないということでした。

そして、エルサレムを離れたら死刑となることをシムイも受け入れました。

ところが、この箇所では何もなかったかのようにシムイがエルサレムを離れたことが記されています。

シムイは主への誓いと、王の命令を軽んじたのです。

神の御言葉を軽んじることがありませんように。

ヒノキよ、お前もか

ようやくコロナから体調が回復し日常を取り戻したのも束の間、ヒノキの花粉の飛散がピークを迎え頻繁に大きなくしゃみが出るようになってしまいました。

この時期にリラのコンサートが入ってなくて本当に良かった、、、などと思っていた矢先にメンバーの塚田献さんが大動脈解離で緊急入院したという連絡を受けました。

現在も集中治療室で処置を受けている状態です。(昨日、一般病床に移ったとの連絡がありました。)

献さんの癒しはもちろんのこと、そばにいる家族、教会の方々のためにもお祈りいただければ幸いです。

人生は想定外のことが起こりますね。

どんなに綿密な計画を立てていても一瞬で崩れ去ってしまう。

でもキリスト者の希望は、神様が全てを働かせて益としてくださることに望みを置くことができることだと思います。

たとえ失敗してもそれを用いて良きものへと変えてくださる主に信頼して今週も誠実に歩んで行きましょう。

明日は わたしには
わからないけど
明日を守られる
イエスがおられる

(小山晶子牧師婦人)

1列王記 2:26-35

「それから、王は祭司エブヤタルに言った。「アナトテの自分の地所に帰れ。おまえは死に値する者だが、今日はおまえを殺さない。おまえは私の父ダビデの前で神である主の箱を担ぎ、父といつも苦しみをともにしたからだ。」」(2:26)

この箇所に出てくる報復行動は、ダビデ王の命令に対するソロモン王の行動ではありましたが、正しかったかどうか、聖書は明言しません。

一つ明確なのは、王制は決して完璧な制度ではないということです。

アドニヤの陰謀を支持した祭司エブヤタルは、死に値しました。

しかし、彼が祭司として神に誠実に仕え、ダビデ王と苦難を共にしてきたことは忘れ去られることはありませんでした。

「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになることはありません。」(ヘブル6:10協会共同訳)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 2:13-25

「主は生きておられる。主は私を父ダビデの王座に就かせて、私を堅く立て、約束どおり私のために家を建ててくださった。」(2:24)

アドニヤは、ソロモンの母バテ・シェバのところにやってきて、ダビデのそばめだったアビシャグを自分の妻として与えてくれるように願いました。

これは、王権の継承を意味し、アドニヤが王位を諦めていないことを暗に示していました。

彼は、主なる神がそうされたと言いながらも、そのことを受け入れることができなかったのだと思われます。

そして、そのことをソロモン王は見抜きました。

ソロモン王は、自分の立場は神が与えてくださったものと認識していたので、アドニヤの申し出を許可することはできませんでした。

聖書は言います。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」(箴言16:9)

主のみこころに生きることができますように。

1列王記 2:1-12

「あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ。」(2:3)

ダビデは、主の道に歩むならば、

「何をしても、どこにいっても成功する」(聖書協会共同訳)

と言いました。

「成功」の定義は難しいのですが、神の御言葉は私たちが「成功」するためであり、神のみこころは私たちが「成功」することであることを聖書が私たちに告げます。

もっとも、ローマ書7章からこの箇所を理解するならば、律法は私たちの罪を示します。

そして、罪は私たちに死を意識させ、神に立ち返る必要があることを意識させます。

そして、ただ、神の霊によって主の道に生きることができる現実に導きます。

イエス・キリストの十字架の御業なくして、人は主の道に歩むことができないことを謙遜に認めることからはじまります。

1列王記 1:38-53

「また、王はこう言われました。『イスラエルの神、主がほめたたえられるように。主は今日、私の王座に就く者を与え、私がこの目で見るようにしてくださった。』」(1:48)

ダビデが神のために神殿を建てたいと願った時、神はダビデに一つの約束を与えました。

「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:16)

ソロモン王の即位を、ダビデはこの神の約束の成就として見たのだと思います。

ただ、この約束は、ダビデの子として生まれたイエス・キリストによって最終的に成就します。

このように、神のことばは永遠の視点とその時代の視点が重なり合っています。

ですから、私たちも永遠の視点と、その時代の視点の二つの地平線をもって聖書を理解する必要があります。

1列王記 1:28-37

「私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」(1:30)

ダビデ王は、人生の中で多くの失敗を犯しました。

愚かなことを何度もしてきました。

しかし、彼は神のことばに耳を傾けることができました。

神はダビデに言いました。

「見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。」(1歴22:9)

ダビデは神のみことばを思い出し、神のみことばに従って行動を起こしました。

神のみこころに最後まで従い続けるダビデの姿に、

「神の心にかなった者」(a man after God’s own heart)(使徒13:22)

と呼ばれた理由があるのだと思われます。

1列王記 1:11-27

「そこで、ナタンはソロモンの母バテ・シェバにこう言った。「われらの君ダビデが知らないうちに、ハギテの子アドニヤが王になったことを、あなたは聞いていないのですか。」(1:11)

ナタンは、ソロモンが王となることを預言した預言者です。(2サムエル12:25参照)

この時も、神から直接導きがあったのかもしれませんし、もしかしたら、神のみこころを知っている者として、みこころを行わないわけにはいかないと行動したのかもしれません。

イエス様は

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ6:10)

と祈るように教えられました。

それは、神のみこころをこの地で行う者として生きることを意味しています。

神のみこころがこの地でも行われるように、知恵を尽くして、協力していく姿勢を、私たちも学ぶ必要があります。