ホセア 11章

「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(8節)

神はイスラエルが裁かれる理由を明確にしましたが、神の心はあわれみで熱くなっていると言います。神は裁きたいのではなく、赦したいと言います。LBではこう訳しています。

「わたしの心は叫んでいる。なんとしても、あなたを助けたい。」

聖書は言います。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

今日は長崎に原爆が投下された日。私たちはイエスに従い平和をつくりだすように召されていることを覚えたいと思います。

ホセア 10章

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」(12節)

義の種を蒔くならば、真実の実を刈り取ると聖書は言います。イスラエルの問題は神以外のものを神として拝んでいたことでした。ですから、天地万物を造られた創造主なる神を神と認めることから始めなさいと言うのです。そうするならば、神の真実を体験すると言われます。そして、「今がその時だ」と言います。主を求めるのに早すぎることも、遅すぎることもありません。使徒パウロもこのように言っています。

「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

主は確かに来られます。

ホセア 9章

「エフライムの見張り人は、私の神とともにある。しかし、預言者は、すべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。」(8節)

エフライムとは北イスラエル王国のことであり、見張り人とは預言者のことです。ですから口語訳は、「預言者はわが神の民エフライムの見張人である。」と訳しています。神は北イスラエル王国を守ろうと預言者を遣わし、神のことばを語らせました。しかし、イスラエルの人々は神のことばに耳を傾けないどころか、神のことばを語る預言者たちを妨害しました。当時の宗教指導者たちも同じでした。問題は、はっきりしています。

「私の神は、イスラエルの民が聞くことも従うこともしないので、彼らを滅ぼします。」(17節LB)

神のことばに聞くことも従うこともしないならば、どうすることもできません。神は今、聖書のみことばを通して私たちに語られています。神のみことばに耳を傾け、従うことができますように。

めんどうくさい

若い世代と話していて最近特によく耳にする言葉に「めんど!」という言葉があります。めんど!は「面倒くさい」という言葉の略語だと思われます。ただ、「面倒」はもともとほめるという意味のある「めでる」という言葉から派生したという説もあるらしく、日本語は奥が深いなあと改めて感じています。さて、どうしてこんなことを書いているかというと今朝のデボーションの箇所であったカナの婚礼のところを今日一日黙想していたからです。ぶどう酒がなくなり、水がめに水をいっぱいにしなさいと言われた水くみの人たちは恐らく「面倒くさい」ことをしたのだと思います。面倒とは「手間がかかったり解決が容易でなく煩わしいこと」。現代は待つことが難しい、我慢ができない時代だと感じています。すぐに結果が欲しい、答えが欲しい。でもイエス様の御業は「面倒くささの中」に現わされることがあることに心を留めることは大切なことだと感じたのです。面倒くさいことから逃げていたらせっかくの祝福を見逃してしまうかもしれません。
(小山晶子牧師夫人)

ホセア 8章

「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。」(14節)

LBでは前半部分をこう訳しています。

「イスラエルは大きな宮殿を多く建て、ユダは町々の防備を固めた。しかし、自分たちを造った方を忘れてしまった。」

私たちが何を作ろうとも、私たちを創造された造り主なる神を忘れて何かをすることほど、空しいことはありません。バベルの塔は人類の英知の結集でした。神は言われました。

「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」(創世記11:6)

創造主である神を忘れ、人間が作ったものの一つは原子爆弾です。

今日は、主の日であると同時に広島に原爆が投下された日です。世界の平和のために祈りつつ、造り主を覚えて、共に主に礼拝を捧げましょう。

ホセア 7章

「イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。」(10節)

厳しい言葉ですが、私たちは心に留める必要がある言葉だと思います。私たちはいつも、へりくだって、神に立ち返る必要があります。私たちの人生に起こる問題は、神を求める機会となります。ですから、問題の中で祈りに導かれないなら、その問題も意味のないものとなってしまいます。メッセージ訳では、

「すべてのしるしにも関わらず、神を無視している」

とあります。いかがでしょうか。神を無視していないでしょうか。こういう賛美があります。

「私はあなたが必要です。主よ。あなたが必要です。自分の力だけで、この人生をやりきることはできません。」

へりくだり、心から、「主よ、あなたが必要です」と求めることができますように。

ホセア 6章

「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(3節)

「知る」というのは、単に知的に知るという意味ではありません。体験すると言う意味があります。神を体験することを切に追い求めるように聖書は語っているのです。神を体験するためには、聖書の神のみことばに生きる必要があります。祈り、聖霊の導きに従う必要があります。それは時には信仰の冒険が求められます。LBではこう訳しています。

「ああ、主を知りたい。さらに主を求めよう。そうすれば、必ず夜明けが訪れ、早春の雨期が来るように、必ず答えてくださる。」

私たちが神を体験することをせつに追い求めていく中で、神は必ず報いてくださいます。

ホセア 5章

「わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。」(3節)

人は、アダムとエバ以来、神から隠れられると思う傾向があります。私たちがしていることを神は知らないと思ってしまうのです。しかし、アダムとエバが隠れることができなかったように、人は、神から隠れることはできません。神は、「わたしに隠されていなかった」と言います。神はすべてのことを見ておられ、すべてのことを知っておられます。私たちが考えていることでさえ、神に隠すことはできません。すべてのことを知った上で、イエス・キリストは私たちのために死んでくださいました。すべて知った上で、神は私たちを愛されているのです。私たちは何も隠すことなく、神に正直に語り、告白し、委ねることができます。

ホセア 4章

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」(6節)

この箇所で神は、当時の宗教指導者たちが、本来、神の御言葉を教える立場にあったのにも関わらず、その役割を成し遂げなかったことを批判します。人々が滅ぶ理由は、彼らが神のみことばを教えなかったからだと言うのです。残念ながら、この現象は今も続いています。影響力がある立場にある宗教指導者たちの中には、聖書に対して不信感を抱かせるようなことを言い、あたかも聖書は信頼できないもののように教えている人たちがいます。そして、聖書に生きる思いを挫き、滅びに向かわせます。私たちは、「聖書は誤りなき神のことば」という知識を広める必要があります。そして、時が良くても悪くても、聖書のみことばに学ぶ必要があります。

ホセア 3章

「そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。」(2節)

ホセアは、自分を捨て、わがままきままに自堕落な生活を選び、落ちぶれ、奴隷として売られていた妻を、お金を支払って買い戻しました。イエス・キリストもまた、神に背を向け、わがままに生き、暗闇の奴隷となっていた私たちのために、ご自身のいのちという値を支払って買い戻してくださいました。使徒ペテロはこう言っています。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18,19)

だからこそ使徒パウロはこのように勧めます。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:20)