ゼカリヤ書 6章

「あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。」(11‐13節)

ゼルバベルと共に指導的役割を担ったのが大祭司ヨシュアです。この箇所はメシア預言と呼ばれるもので、やがて大祭司ヨシュアのようにメシアが現れ、神殿を建て直すという預言です。ですから、当時の人はキリストが神殿を建て直すことを期待していました。神殿とは天と地が重なり合う場所であり、実は、キリストご自身が十字架の御業によって永遠の神殿となられました。キリストの教会が現代の神殿です。ですから、私たちはイスラエルの幕屋や神殿を建て直すことにではなく、キリストのからだを建て上げることに心を注ぐべきです。

ゼカリヤ書 5章

「そこで私は、私と話していた御使いに尋ねた。「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか。」彼は私に言った。「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ。」」(10,11節)

この箇所は、一般的に黙示録18章と関連するこの世の終わりに関する内容だと理解されています。「シヌアル」の地とはバビロンの地ということで、今のちょうど、イラクの地域を指します。ですから、多くの聖書学者たちは、今後、イラクがどう発展していくかに注目しています。また、バビロンの地とは、神に対抗してバベルの塔を建てた場所でもありますので、神に対抗する象徴と考える聖書学書もいます。特にエパ枡は、商業主義を指して、神よりも金をあがめることを意味していると理解されます。神に仕えるか、金に仕えるか、神に支配されるか、金に支配されるか、現代に生きる私たちにも問われています。

ゼカリヤ書 4章

「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(6節)

バビロン捕囚からエルサレムに帰って来た時のリーダーが、ゼルバベルです。彼はエルサレムを再建しようと努力しますが、邪魔が入ります。(エズラ4,5章参照)彼は、自分の力のなさに落ち込んだと思います。しかし、神はそんな彼に、

「あなたの力ではなく、聖霊によって成し遂げる」

と語り、彼はそれで立ち上がります。キリスト教会のはじまりも、まさに、この世的に言えば権力も能力もない、一握りの人々からはじまりました。しかし、聖霊なる神様が臨んでくださることによって、全世界へ広がっていきました。聖霊なる神様の力は、今も、求める人々に注がれます。そして、権力によらず、能力によらず、神の霊によるなりという世界を体験します。

ゼカリヤ書 3章

「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。『彼のよごれた服を脱がせよ。』そして彼はヨシュアに言った。『見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」(3,4節)

私たちはみなヨシュアのように、神の御前では、よごれた服を着ている者でした。神の御前では、私たちの正しさは、汚れた服のようだと聖書は言います。

「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)

誰一人、自分の努力によって神の基準に到達することはできません。しかし、キリストは私たちの汚れた服を脱がせて義の衣を着せるために十字架にかかって死んでくださいました。イエス・キリストを信じるということはまさに、ヨシュアが体験したように、汚れた服を脱がせてもらい、キリストの血潮で聖められた義の礼服を着せていただくことです。

ゼカリヤ書 2章

「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。―主の御告げ。―」(10節)

教会では、賛美の歌を神に捧げる時間をとても大切にしています。私たちが喜び歌い、神を楽しむ中で、神ご自身が私たちの所に来て、私たちのただ中に住むとおっしゃられるからです。もちろん、神が私たちのただ中に住まわれるから、神に喜び歌い、楽しむことができるという両面があります。いずれにせよ、神に喜び歌い、神を楽しむ時、私たちは神が私たちのただ中におられるという神の臨在を感じます。イスラエルの人々が荒野を旅するとき、その真ん中に神の臨在を現す幕屋があったように、約束の地の真ん中に神の臨在を現す神殿があったように、イエス・キリストを信じる者たちが集まる教会のただ中に、神の臨在が現されます。私たちが共に賛美の声を上げるその中に、神の臨在は現されます。

亀と教会

皆さんにかわいがっていただいているお陰で、亀のジェニーはこの夏これまでとは比べ物にならない速さで大きく成長しました。小さな鼻の穴につぶらな瞳。頭と首を撫でてやると、うっとりと心地よさそうにしていてますますかわいくなっています。亀はご存知のようにヤドカリとは違い 柔らかい部分と甲羅が一緒に成長していきます。甲羅だけがそのままということはありませんし、柔らかい部分が成長せずに甲羅にすっかり隠れてしまうということもありません。固い部分と柔らかい部分は文字通り一体なのです。そんな亀の性質をじっと眺めているうちに、教会とはこういうものなのではないかと思いました。固い人、柔らかい人、目や耳、爪。ゆっくりゆっくり、一緒に成長しながらある時は目に見えて大きくなったりする。それが教会のあるべき姿なのではないかと思ったのです。甲羅だけが大きくなっても、柔らかい部分だけが成長しても意味がありません。わたしたちも亀のようにいろんな部分を抱えながらゆっくりと成長できればと願ってやみません。 (小山晶子牧師夫人)

ゼカリヤ書 1章

「あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。 ― 万軍の主の御告げ。 ― そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。」(3節)

ゼカリヤは、ハガイと一緒にバビロン捕囚から戻ってきたイスラエルの人々に励ましのメッセージを送った預言者の一人です。「ゼカリヤ」という名前は、

「神は覚えておられる」

という意味です。神は私たちを決して忘れないということです。私たちを見捨てない神のメッセージは、

「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたに帰る」

です。神に背を向けてしまった人々に対する神の心はいつも、ご自分のもとに帰ってきて欲しいということです。放蕩息子の帰りを待っていたお父さんのように、帰ってきて欲しいのです。そうすれば、神との個人的な、人格的な関係に戻ることができます。神様は両手を広げて一人一人の帰りを待っています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ユダの手紙

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」(24,25節)

神は私たちがつまずいたり、倒れたりしないように守ってくださるお方です。そのために、私たちの側がすべきことは、その前の20、21節に書いてあります。

「あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。」(LB)

ハガイ書 2章

「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」(9節)

ハガイの時代に再建された神殿は、彼らが期待するような以前のような建物ではありませんでした。しかし、ハガイはこれからもっと素晴らしくなると言いました。人は建物や思い出に縛られる傾向があります。年を重ねるごとに、「昔は良かった」と思いやすい傾向があります。伝道者の書にもこういう箇所があります。

「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。」(7:10・新共同訳)

神はノスタルジーの神ではありません。私たちも過去に生きるのではなく、今に、生きることが大切です。これから、もっと素晴らしいことが起こる。

「最高は、まだこれから」(The best is yet to come.)

と、未来に向かっていくことが大事です。過去にも素晴らしいことがあったように、現在にもすばらしいことがあり、これから後に、もっとすばらしいことが待ち受けています。

※ 本日のSSCの祈祷会はお休みです。

 

ハガイ書 1章

「主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。」(14節)

ハガイは捕囚から帰ってきた人々に神殿の再建を成し遂げるように、励ましのメッセージを語るために遣わされた人です。神は当時の指導者たちだけでなく、

「民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。」(新共同訳)

とあります。強要されてではなく、神に霊を奮い立たせられて自発的に働きに携わりました。教会における奉仕も強要されてするものではありません。神が一人一人の霊を奮い立たせて自発的に行うものです。神のため、キリストの体を建て上げるため、何かしたいという思いが起こされたら、ぜひ、牧師に知らせてください。