エゼキエル 28章

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(2節)

イエス様は

「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

と言いましたが、ツロの問題は富でした。莫大な財産のゆえに自分を神のようにしてしまったのです。しかし、人は神になることはできません。アダムとエバの罪は神になろうと思い上がったことでした。サタンも神になろうと思い上がり落とされました。ここではツロの王に対する預言が、サタンに対する預言に変わります。

「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(17節)

人が高ぶって自分を神のようにみなすことは、サタンに騙されている状態です。

エゼキエル 27章

「あなたはツロに言え。海の出入口に住み、多くの島々の民と取り引きをする者よ。神である主はこう仰せられる。ツロよ。『私は全く美しい。』とおまえは言った。」(3節)

ツロは地中海沿岸にある商業都市国家として繁栄していました。LBはこう訳しています。

「ああ、貿易の中心地、力ある港町よ。主のことばを聞きなさい。おまえは『私は世界で一番美しい町だ』と自慢している。」

つまり、ツロの問題は傲慢だと言うのです。神は傲慢な者をしりぞけられるお方です。ですから、聖書にはっきりとこう記されています。

「みな、謙遜になって互いに仕え合うべきです。神は、高慢な者には敵対し、謙遜な者には恵みを与えられるからです。あなたがたは、神の力強い御手の下で自分を低くしていなさい。ちょうどよい時に、神はあなたがたを高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,6LB)

エゼキエル 26章

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。」(2,3節)

ツロは地中海沿岸にある商業都市でした。エルサレムの崩壊を喜ぶツロに対して、神は裁きを宣告します。彼らも紀元前332年、アレキサンダー大王によって滅ぼされます。ここでは、人の不幸を喜ぶ姿勢に対して、神が警鐘を鳴らしているとも言えると思います。たとえそれが自分の競争相手が自滅したということであったとしても喜ぶべきではありません。箴言にもこうあります。

「敵が苦しむのを喜んではいけません。敵が失敗したからといって、うれしがってはいけません。そんなことをしたら主が心を痛め、彼らを罰するのをやめるかもしれません。」(24:17,18LB)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日の第三礼拝は、鶴見でもたれる合同聖会に合流するため、お休みです。

エゼキエル 25章

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。」(8節)

モアブの国が裁かれる原因は、イスラエルの国も、ほかの国もまったく変わらないと言っているからだと言います。現代風に言いなおすならば、キリスト教も他の宗教も同じ、何も違いはないと言っているからだと言います。つまり、このような宗教多元主義の考え方は決して新しいものではなく、昔から存在していたということです。このグローバル世界において「共存」を考えることはとても大切なことです。しかし、根本的な神理解が違うのにもかかわらず、すべて同じとすることはできません。そして今日の箇所が私たちに伝えていることは、それはまた、天地万物を造られた創造主なる神、ヤハウェに対して失礼なことでもあるということです。聖書が教える神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

※ 明日のSSCの第三礼拝は、鶴見でもたれる合同聖会に合流するためお休みです

エゼキエル 24章

「あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。」(13節)

神は私たちの人生がきよめられることを願っています。神は泥沼のような中から私たちを引き上げ、きよめてくださるお方です。しかし、残念ながら、ある人々はまた、その泥沼に帰って行ってしまい、再び身を汚してしまいます。神は私たちの意志を尊重されますから、その人の間違った選択に対する報いを受けることを許されます。LBでは、「わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたが拒んだので」とあります。しかし、それは神がその人を見捨てたわけではなく、その人が本当の意味で悔い改めて、変わることを願われているからです。神は私たちが悔い改めて、神の助けを求めるならば、いつでも私たちを助ける準備ができています。あわれみ深い神は放蕩息子を待っていた父親のように、待っておられます。

エゼキエル 23章

「あなたが姉の道を歩んだので、わたしは彼女の杯をあなたの手にも渡す。」(31節)

23章では、北イスラエル王国を姉として、南ユダ王国を妹として描いています。そして、この箇所では「杯」が裁きの象徴として用いられています。箴言にこういう箇所があります。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

自己中心、神に背を向けて歩んでいく道の終りは死、滅びです。北イスラエル王国の生き方は、まさにそのことを象徴しています。しかし、南ユダ王国は残念ながらそのことを学ぶことができませんでした。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいましたから、同じ道をたどる必要はありません。私たちは方向転換(悔い改め)して、神中心、神に向かっていく道を歩むことができます。私たちは、歴史からも学ぶ必要があります。

エゼキエル 22章

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(30節)

神は、義なる神とその国の間、破れに立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。私たちはこの世の現実に対して無力に感じてしまいます。自分なんかに何ができるのだろうと思ってしまいます。しかし、神はこの国のために破れ口に立ちふさがって、祈る人を捜し求められています。「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえにリバイバルを与えてください。」

エゼキエル 21章

「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」(27節)

権威は神が授けるものです。広い意味で言えば、パウロがローマ13章で言うように、

「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」

しかし、狭い意味で言えば、真の権威をもつ方は、イエス・キリストです。そして、この箇所は、この世界の終りに神に逆らうすべての権威は絶ち滅ぼされ、すべての権威は本来あるべきところ、メシヤであるイエス・キリストに渡されるということを預言しています。現在、立てられている指導者を尊重し祈ることも聖書が教えているように大切なことです。しかし、真の権威はイエス・キリストにあることを認め、イエス・キリストが自分を、この地を治めてくださるように生きることも大切です。

エゼキエル 20章

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(49節)

エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきました。その彼らに対し、神はイスラエルの人々がどれほど神をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。御言葉を聴く私たちの姿勢に対する警告であるとも受け取ることができます。真剣に語られている神の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められています。そうでなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

はやいもので

きょうは献堂15周年特別礼拝。
毎年献堂時期を迎えるたびに感謝の思いでいっぱいになりますが、節目の年は特に感動します。それはこの場所が私にとってのエベン・エゼルだからです。『主がここまで導いてくださった』とヤコブが記念の石を置いたように、この会堂を見るたびに、集うたびに、礼拝を捧げるたびに、祈るたびにそれを何度も何度も思い起こすことのできる場所。でも20年近く前、そんな思いを全く描くことも出来なかった時期に与えられた御言葉。『山に登り、木を運んできて宮を建てよ。』これを語るまでの牧師の苦悩をつい昨日のことのように思い出します。この場所に移ってから多くの人が来、多くの人が去っていきました。その喜びと痛みの中に「教会の頭はキリストである」ことを思い知らされる日々の繰り返しでもあったように思うのです。聖霊様の喜ばれる群れであることを求めつつ、聖霊様の流れに身をゆだねてあとどれくらいかはわかりませんが与えられたこの教会での自らの使命を全うしていきたいと願います。  感謝しつつ。(小山晶子牧師夫人)