左斜め前方

一昨日は30年ぶりに浦和福音自由教会を訪問しリラのコンサートを無事終えることができて感謝でした。

以前も書いたようにこの教会はわたしにとって初めての奉仕教会だったということもあり正直何もできないどころか早天祈祷会を何度もすっぽかすという情けない爪痕しか残せていない場所でもあるのでいつも以上に緊張しました。

500人ほど入る礼拝堂の舞台に立ち、一礼をして顔を上げると、左斜め前方の最前列にあの坂野先生が座っておられるではありませんか。

「佐竹さーん起きてくださーい」のシュチュエーションが鮮明に思い出されわたしの緊張は最高潮に達しました。

どうにか無事コンサートを終え、緊張から解放されたと思ったら先生を交えた昼食会が用意されていました、、、しかも奥様もご一緒に。

あの時は本当に申し訳ありませんでした、と謝るわたしに奥様はくすくす笑いながら

「本当、いろいろありましたものね。覚えていますよ〜」。

ひえええ。

もしかしてわたしの記憶にある以外にも30年経っても奥様の記憶に残るような事をやらかしたのかも、、、でももう怖くて聞けませんでした。

(小山晶子牧師婦人)

ヨエル 1:13-20

「あなたに、主よ、私は呼び求めます。」(1:19)

具体的に、南ユダ王国の罪がなんであったかは語られません。

しかし、断食に言及している点を考えますと、預言者イザヤのことばを思い起こさせます。

「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。」

「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(イザヤ書58:3,4,6)

神は、自分を正当化するための宗教は、けんかをするためで、意味がないと言います。

そのような自己中心的な姿勢を悔い改めて、自分の好むことではなく、神の御国がこの地に現されるために生きるように考え方を改めるように言います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨエル書 1:1-12

「長老たちよ、これを聞け。この地に住む者もみな、耳を傾けよ。このようなことが、あなたがたの時代に、また先祖の時代にあっただろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(1:2,3)

預言者ヨエルに関してよく分かっていませんし時代も厳密に特定することはできません。

ただこの時、いなごの襲来があったことは確かです。

預言者は、これを単なる悲劇としてではなく、神からの警告(Wake Up Call)として受け止めるように告げます。

なぜならこのいなごの襲来は、この後イスラエルに異国の軍隊が押し寄せてくることの前兆だったからです。

いなごの襲来がエルサレムの崩壊の警告だったように、この書は世界の終わりに対する警告でもあります。

その日は思いがけない時にやってきます。

いなごが襲来したように、エルサレムが崩壊したように、それは、予期せぬ時にやってきます。

マルコ 16:9-20

「主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(16:19)

神の右の座に着かれたという意味は、天においても、地においても、いっさいの権威を受けられたということです。

マタイの福音書ではこの様に記されています。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(マタイ28:18-20)

宣教はイエス様の権威の下で行うものです。

私たちに求められていることは全世界に出ていって福音を伝えることです。

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(20節)

マルコ 16:1-8

「青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」(16:6)

十字架で処刑されてから三日目、週のはじめの日である日曜日、イエス・キリストはからだをもってよみがえり、空になった墓をあとに去りました。

キリスト教徒であるならば、そのように信じています。

それで、イエス様の死を、悪のすべての力に対する驚くべき神の勝利だったと信じます。

実際、キリスト教の起源を、イエス・キリストの復活の確実性について語らないで説明することは無理があります。

歴史の中で、何度もイエス・キリストの復活を否定しようという試みがなされてきました。

しかし、イエス・キリストはよみがえられました。

そうでなければ、キリスト教自体が存在することはありません。

マルコ 15:33-47

「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(15:38)

「神殿」は天と地が重なる場所です。

しかし、当時の「神殿」はあるべき姿を失っていました。

「神殿」を利用して、祭司長たちは、自分たちの考える「正しさ」
でイエス・キリストを十字架につけたのです。

そして、十字架は神殿の幕を裂きました。

神殿の役割は、今、起こった十字架の御業によってとって代えられたということです。

今からは、生ける神の臨在の中への道は、神の御子、イエス・キリストの死を通して、すべての人に開かれたということです。

マクグラス教授はこの様に説明しています。

「十字架は、神とはこのようなものであるに違いない、とか、神とはこのような関係で会えるだろうというような先入観を捨てて、ゴルゴタの丘で神に会うようにと、促します。」

マルコ 15:24-32

「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」(15:31,32)

神の御子に対する恐ろしいほど上から目線の態度に人間の傲慢さを見ます。

自分たちの思い通りに動いてくれたら信じるというのです。

人はどこに神を探すべきでしょうか。

自分が見たい場所、自分が選んだ場所に神を探しても見出すことはありません。

多くの人は、自分が考えるように、自分が望むように、神を見出すことができないので、神は不在だと結論づけます。

それがこの時イエス様の十字架を見ていた祭司長や律法学者たちです。

人は「神はこうあるはずだ」という自分が作りあげた枠組みを外して、神が人に与えられた場所に目を向けなければなりません。

マルコ 15:16-23

「それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」(15:20)

キリスト教のロゴは十字架です。

しかし、それは処刑の道具でした。

ローマ人は、権力を保持し、帝国内の秩序を維持するための手段として十字架を用いました。

受刑者たちが苦しみ死んでいく様子をわざと公共の場でさらし、抑止力としたのです。

十字架刑はユダヤ教においては神の呪いを意味しました。

「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」(申命記21:23)

とあるからです。

要するにイエス・キリストは十字架にかかり、のろわれた者となる必要がありました。

聖書は言います。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)

だから使徒パウロは言います。

「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが」(1コリ1:24)

春一番

春一番が吹き荒れた先週。

それと同時にかたく閉じていた教会の梅の蕾が少しずつ変化し始め、毎日眺めては楽しんでいます。

「春一番」とは季節が冬から春へとかわる時期(立春を過ぎてから)に、初めて吹く暖かい南よりの強い風のことだそうで、関東では昨年より2週間早かったそうです。

ジェニーも本格的に目覚めたようでいつもの餌を食べ始めました。

冬の間家の中に水槽を入れていましたが、先週半ばから外に出していますのでまた是非覗いてみてやってください。

そしてこの時期といえば確定申告、、、。

もうそんな時期かと時の流れるスピードに少々慄きつつ、月末までの提出を目指してがんばります。

卒業し社会人として新たな一歩を踏み出す人、進級する人など大きな変化を控えている方々にとってはテイクオフする前の大切な時期でもあります。

しっかり助走をつけて翔けますようにとわたしたちも祈ります。

聖霊さまの助けをいつも求めながらあゆむ日々でありますように。

嵐吹き荒れるような日々の中でも信仰の翼を広げて聖霊の風に乗ることができるよう祈ります。

(小山晶子牧師婦人)

マルコ 15:1-15

「しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)

イエス様が沈黙されたのには理由がありました。

それは、イザヤ書53章に出てくる「苦難のしもべ」です。

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(7節)

イエス様はご自身をこの「苦難のしもべ」として示されました。

その姿は、バラバと比較することによって際立ちます。

バラバは典型的なユダヤ人の反逆者でした。

彼は暴力によって、ローマ帝国を破ることによって、神の国をもたらすことを心に決めていた人でした。

イエス様は暴動を扇動することもなく、静かに、私たちを救うために、十字架にかかって死ぬことによって、神の国をもたらされました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!