「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」(6:14)
私たちを動かすものは、主イエス・キリストの十字架以外のものであっては断じてならないと言います。
イエス・キリストの十字架の御業だけが、教会が存在し、活動する動機でなければならないと言うのです。
このガラテヤ人への手紙をパウロが書いた時、ローマ帝国の皇帝はネロでした。
当時の人々は皇帝ネロを「主」(キュリオス)と呼んでいました。
ですから、「私たちの主(キュリオス)イエス・キリストの十字架」という表現は、人々に不思議な感覚を与えました。
十字架刑を執行する権威をもつローマ皇帝ではなく、十字架刑に処せられ死んでいくイエス・キリストが、まことの主(キュリオス)であると言ったからです。
このキリストの十字架を誇る生き方が求められているのです。