使徒 4章

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(4:12)

アウグスティヌスの言葉だとも言われていますが、作者不明の有名な言葉があります。

それは、

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」。

キリスト教の本質、それは、イエス・キリスト以外に救いはないということです。

私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければなりません。

信教の自由は国家として保障され、尊重される必要があります。

ただそれは能動的にも保障される必要があります。

私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。

他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公に告白し続ける必要があります。

イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質だからです。

使徒 3章

「すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」」(3:6)

ペテロの信仰の言葉を通して生まれつき足の不自由な人は歩きながら神を賛美しました。

それを見て驚いた人々がペテロのところに集まってきました。

それでペテロは言いました。

「なぜ、この癒しに驚くのですか。なぜ私たちを見つめるのですか。私たちは、自分たちの力や権威でこの不自由な人を歩かせたのではありません。」(12節TPT)

ペテロは自分たちの力ではないことを明確にしました。

「イエスの御名への信仰が、あなたの前に立っているこの人を癒したのです。イエスの御名を信じることによってもたらされる信仰が、あなたの目の前にいる足の不自由な人を歩かせたのです」(16節TPT)

イエス・キリストの御名に力があります。

イエス・キリストは今も生きて働かれているからです。

使徒 2章

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」」(2:37-39)

福音のもっともシンプルな提示を私たちはここに見ることができます。

すべての人は罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受け、聖霊を受ける必要があります。

この約束はすべての人に与えられています。

ペンテコステの日、三千人が救われました。

私たちが祈るリバイバルとは、このペンテコステの日が再び起こることです。

使徒 1章

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(1:8)

私たちはイエス・キリストの証人となるように召されています。

この地上でキリストを証言する使命があります。

キリストの証言者としての生涯であるためには力が必要です。

だからイエス様は弟子たちに言われました。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(4節)

私たちは聖霊を待望する必要があります。

なぜなら、聖霊の力が必要だからです。

聖霊の力を受けるために、弟子たちは、心を一つにして祈っていました。

共に集まり、祈る中で、彼らは聖霊の力を受けました。

一度力を受けたら大丈夫という話ではありません。

この後、使徒たちは何度も聖霊に満たされる体験をします。

私たちは何度も聖霊の力に満たされる必要があります。

心を一つにして、祈り続けましょう。

詩篇 150篇

「タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて、神をほめたたえよ。」(150:4)

主を賛美することは神の命令です。

歌を歌うだけでなく、楽器とその演奏も不可欠だったことが今日の箇所からも分かります。

ある学者は今日の詩篇では賛美を捧げる理由が具体的に示されていないと指摘します。

しかし私たちは何よりも、神が神であるがゆえに賛美を捧げる必要があります。

神の力ある御業をほめたたえよ。神の壮大な偉大さをほめたたえよ。」(MSG)

神への賛美は満ち足りた人々による感謝とは限りません。

もろ手をあげて神をたたえられるような状況ではないかもしれません。

しかし、神を信頼するがゆえに私たちは賛美をささげるように命じられています。

賛美は信仰の世界に属するものだからです。

ビックマックセット

先日ニュースでアメリカのインフレと日本への影響について報道していたのですが、アメリカではいま、マックのビックマックセットが一五〇〇円と聞いて仰天しました。

円安も続いているためHOPの支援金を送るタイミングが難しく理事会でも悩んでいます。

私たちにとって身近な食料品もじわじわと値上がりし、最近ではガソリンを満タンにすることも出来なくなってしまいました。

コロナが収束すれば回復すると思っていた経済が、ロシアのウクライナへの軍事侵攻によって不安定になった世界の中で、未来が描けないほどに人々を不安へと駆り立てています。

神様を抜きにしてこの世界を見るならばまさに「絶望」だと思います。

全ての快楽と富を享受しつくしたソロモンは最後にこう警告しています。

『あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。禍の日が来ないうちに、また、「何の喜びもない」という年月が近づく前に(伝道者の書12:1)。』

『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである(伝道者の書12:13)。』

心にとめるべき御言葉だと思います

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 149篇

「主はご自分の民を愛し、貧しい者たちを救いをもって装われる。」(149:4)

「貧しい者たち」と訳された単語は「虐げられた者たち」、被抑圧者たちと訳すことができ、ここでは、イスラエルの民のことを指しています。

月本先生が、マタイ5:5の「柔和な者」が塚本訳で、「(踏みつけられて)じっと我慢している人たち」と訳していることを紹介し、ここにその意味合いが汲まれていると指摘しています。

イスラエルの歴史は、踏みつけられてじっと我慢の連続でした。

しかし、神はそんなイスラエルの民を装われる、輝かせると約束します。

マイナスは必ずプラスになります。

だから詩人は

ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。」(1節)

と命じます。

「神の高き聖なる賛美が彼らの口を満たす。彼らの叫ぶ賛美は彼らの戦いの武器だから。」(六節TPT)

私たちの武器は賛美です。

「ハレルヤ」と賛美の歌声を上げましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

本日は父の日。すべてのお父さんに感謝します。

詩篇 148篇

「火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行う激しい風よ。」(148:8)

私たちは主を賛美するために存在しています。

聖書は言います。

「後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」」(詩篇102:19新共同訳)

ただ、私たちはこのことも覚えておく必要があります。

それは、「みことばを行う激しい風よ。」とあるように、神のみことばが行われるために、激しい風のような試練があるということです。

御言葉を成し遂げる嵐よ」(新共同訳)

とあるように、嵐のような状況で、神の約束が成し遂げられるということがあるということです。

ですから、私たちはどんな時でも賛美することを学ぶ必要があります。

「主をほめたたえよ」と賛美をすること(ハレル)が命令形なのはそのような理由があると考えられます。

詩篇 147篇

「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。」(147:1)

賛美の歌を歌うことは良いこと(トーヴ)です。

楽しいこと、喜ばしいことです。

なぜなら、主なる神は私たちの賛美を受けるのにふさわしいお方だからです。

人は腕力で神を振り向かせることはできません。

10節をL Bではこう訳しています。

「どんなに足の早い馬でも、神から見れば、歩みの遅いかたつむりと同じです。どんなに腕力を誇る人でも、神からすれば、赤ん坊の手をねじ伏せるより簡単なのです。」

神が注目されるのは、神を畏れ、神に賛美の歌を歌う人です。

「神を畏れる人たちは神の注目を得ます。彼らは神の強さに頼ることができます。」(11節MSG)

詩篇 146篇

「幸いなことよ、ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人。」(146:5)

この詩篇は神以外の何かに頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。どんなに偉大な指導者も、頼りにはならないのです。人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。

しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあります。

神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。

詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。

失敗しながら、神にのみ信頼することを学びます。