士師記 18:1-19:30

「それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」(19:30)

士師記に希望の光を見いだすことができない理由は、人々が神に聴く姿勢がないからです。めいめいが自分の目に正しいと見えることを行うために、悲劇から悲劇が繰り返されていくのです。考えたり、相談したりすることは決して悪いことではありませんが、神に祈り、みこころを求めなければ混乱を招くだけです。この後、イスラエルの人々が相談して決めたことは報復であり、いわゆる内戦でした。そして問題は解決されるどころか泥沼化します。神は言われます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

私たちは何よりも神のみこころを求める必要があります。

士師記 16:1-17:13

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(17:6)

哲学者たちは、普遍的な善悪はないと言います。しかし、だからといってめいめいが自分の目に正しいと見えることを行うならば、無秩序状態に陥り、結果的に社会は崩壊していきます。これこそアダムとエバが禁じられた善悪の知識の木のから食べたことに起因する死の現実です。士師記はそのことを証明しています。人は普遍的な善悪を必要としています。そして、普遍的な善悪は、神のみことばである聖書の中で告げられています。聖書は言います。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8新改訳二〇一七)

自分の基準で生きていくのではなく、神のみことばを信仰と生活の規範として生きていくことが大切です。

母の日ですね。

いちゃいちゃつばめたちは牧師婦人の迫害にも負けず、強い夫婦のきずなを発揮して本格的な巣作りを始めてしまいました。負けましたよ、、、お母さんになる日も近いでしょう、、、。というわけできょうは母の日ですね。昨日、今日の礼拝でお渡しするバラの花を買いに行った折、受付にも花を飾りたいな、と思い手ごろなカーネーションを探していました。ところが、とっても香りのいいバラの鉢植えを見つけてしまったのです。名前はわからないのですが、とにかくいい香りなのでさっそく購入し、本日受付のカウンターに飾っていますので是非香りを楽しんでいただきたいと思います。母親の仕事はいつになったら楽になるんだろう?そんな風に考えたりしますが、恐らく死ぬまで子どものことを心配するのでしょうね。親の心子知らずとはよく言ったものですが、私自身もいまだに母には心配をかけているようなので偉そうなことは言えません。「ご飯はちゃんと作ってるの?」「衣類の入れ替えはした?」どこかにカメラがあるんじゃないかとドキッとしますが。(小山晶子牧師婦人)

士師記 14:1-15:20

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。」(15:18,19)

旧約学者の服部師はこう言います。

「サムソンは、(性格的に弱点をもちながらも)自分なりに、士師としての使命を果たすために精いっぱい努力したのだろう。彼は、疲れ、のどの渇きを覚えて主に求めたのである。(中略)そのような疲れたサムソンに対して、神は彼に水を与えて、元気を回復させ、強められたのである。」

「エン・ハコレ」の意味は「祈る者の泉」(新共同訳)。

主を呼び求める者に、主は答えてくださいます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

士師記 12:1-13:25

「エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。』」(12:1)

アモン人の圧迫を受け、愚かな誓願を立ててまで戦い、勝利を手にしたエフタに、その犠牲も考慮せずにエフライム人たちは苦情を言い、責め、脅迫します。エフライムはイスラエルの中心的な部族という自負があったからです。エフタは言います。

「以前、われわれはあなたがたに召集をかけました。しかし、駆けつけてはくれませんでした。助けてほしい時に助けてくれなかったのです」(2節LB)

助けて欲しい時に助けもせずに文句だけ言うのは間違っています。

「もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ5:15LB)

士師記 10:1-11:40

「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』」(11:30,31)

エフタの物語は悲劇です。彼は愚かな誓願を立てました。勝利を得させてくださるなら、自分を最初に迎えてくれる者を全焼のいけにえとして捧げると。彼を最初に迎えたのは、愛する一人娘でした。
イエス様は言われました。

「だから、『はい、そうします』か、『いいえ、そうしません』とだけ言いなさい。それで十分です。誓いを立てることで約束を信じてもらおうとするのは、悪いことです。」(マタイ5:37LB)

祈る時に軽率に誓う必要はありません。ただイエス様の御名によって祈ればよいのです。

士師記 9:1-57

「今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。」(9:16)

この箇所から私たちが学ぶことが出来ることの一つは、誰を自分たちの指導者に選ぶかという選ぶ側の責任です。三節を見ると、そもそも「身内の者」ということで人々はアビメレクを支持したことが記されています。つまり、公正さよりも関係を重視しました。そして、それが悲劇を生みました。どういう人物か知らないのに、知り合いの紹介だから、身内だからと支持してしまい、その結果もたらされてきた悲劇は、歴史の中で何度も繰り返されています。アビメレクの場合、野望の問題がありました。彼は結局、一人の女性が投げたひき臼の上石にあたって死んでしまいます。

士師記 7:8-8:35

「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。『あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。』しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』」(8:22,23)

イスラエルの人々はギデオンをイスラエルの国の王としようとしました。しかも、世襲制度的な指導体制まで進言しました。しかし、ギデオンは言いました。

「私は王にはならない。息子もそうだ。主があなたがたを治める王だ。」(LB)

人はすぐ人をあがめてしまう傾向があります。しかし、ギデオンは、自分に依存するのではなく神なる主に依存するように言いました。バプテスマのヨハネも同じように、キリストを指し示して、言いました。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)

これが主の僕の姿です。

士師記 4:1-5:31

「そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。」(4:4,5)

神が用いられた士師の一人は、女性でした。男性優位という当時の社会において、神があえて女性を用いられたことには意味があると思います。神は男性も用いられますし、同じように女性も用いられます。聖書にはっきりと書いてあります。

「神にはえこひいきなどはないからです。」(ローマ2:11)

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡して、性別に関係なく、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださいます。

いちゃいちゃつばめ

先週日曜日の第三礼拝終了後、看板をしまおうと薄暗くなった外へ出た時。教会正面左側の管のところに黒い物体を見つけました。よく見てみるとツバメのつがいが顔と顔を合わせ、体を寄せ合って眠っていたのです。それはもう、とても微笑ましい光景で人間も見習いたいものだと何枚も写真を撮りました。次の日の朝、ツバメたちはいなくなっていたのできっとどこかに巣作りに行ったのだと思いちょっぴり寂しく思っていました。ところがその日の夜。同じ場所にまたツバメのつがいが昨晩と同じようにぴったりと身を寄せ合って眠っているのです。まさか愛の巣を?一抹の不安を抱えていましたが翌朝、やはりツバメはいなくなっていました。しかしその夜。今度は入り口のドアの上に夫婦の姿が。近づいてる、、、そしてさっき見ると最初に見つけたその場所に巣作りを始めているのです。とりあえず留守になったのを見計らってホースで洗い流しておきましたがさて、どうなることやら。詩篇八四篇のツバメのくだりを思い出し、良心の呵責にさいなまれております。 (小山晶子牧師婦人)