いよいよ明日から

4年ぶりのバングラデシュ訪問。

明日から10日間の予定です。

とはいってもわたしは日本で留守番ですが、海外に家族を送り出すのが久しぶりで何だか落ち着きません。

何度も話し合いを重ね、HOPの子どもたちとの関わりやリーダーを対象としたセミナー、村々での福音宣教などを祈りつつ準備する姿を見ながら、神様がこの宣教の旅を祝福し守ってくださることを祈るばかりです。

以前も書いたように蚊を媒介するデング熱がしばらく前から流行していて、バングラデシュ国内で既に600名以上が亡くなったということで、これまでとはまた違った不安はあります。

でもこの機会は主がお与えくださったものであることを確信し信仰をもって送り出したいと思います。

大変暑く、湿度の高い場所ですし、水など衛生面での心配もあります。

どうか参加する小山牧師、梶山牧師、大塚牧師、嗣音兄の健康が守られますようお祈りください。

来週の礼拝は小山牧師不在のためグレースカルバリフェローシップつくし野キリスト教会の菅原岳先生がメッセージを取り次いでくださいます。

感謝と祈りを持ってお迎えしたいと思います。

(小山晶子牧師婦人)

ヘブル 11:32-40

「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。」(11:32)

11章は信仰の章と呼ばれます。

旧約聖書に出てくる偉大な信仰者たちの名前が出てきます。

これらの人たちは決して完全な人たちではありませんでした。

聖書は彼らの失敗も記録しています。

しかし、神に対する信仰が彼らの人生に勝利をもたらしました。

この章が教えていることは、「信仰」は動詞であり、行動が求められるということです。

「存在の根本的な事実は、この神への信頼、すなわち信仰が、人生を生きる価値のあるものにしてくれるすべての土台となっているということです。それは、目に見えないものに対する私たちの指針です。信仰という行動は、私たちの先駆者たちを際立たせ、群衆の上に立たせたものです。」(1節MSG)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 11:17-31

「はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。」(11:25,26)

モーセはファラオの娘の息子として、特別な待遇を受けていました。

しかし、モーセは信仰のゆえに、彼が持っていたあらゆる特権よりも、神の民と共に苦しむことを選びました。

使徒パウロも同じでした。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。」(ピリピ3:7-9)

ヘブル 11:8-16

「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(11:13)

信仰者は、この世がすべてのような生き方はしません。

この地上が、自分の永遠の住まいではないことを知っているからです。

使徒ペテロもこのように忠告しています。

「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(1ペテロ2:11)

ジョン・ストット師は言います。

「目をあげなさい!あなたは確かに時間に縛られていますが、永遠の子どもでもあります。あなたは天の市民であり、地上では異邦人および捕囚者であり、天の都へと旅する巡礼者です。(中略)地上には大切な義務がありますが、自分が誰であるか、どこに向かっているのかを忘れるほど、そんなものに心を奪われてはいけません。」

ヘブル 11:1-7

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(11:6)

「信仰」という時、明らかに二つのことが求められています。

一つは、神がおられることを信じること。

聖書が言う神は天地万物の創造主です。

父、子、聖霊の三位一体なる神です。

そして二つ目は、神を求める者には報いてくださるということです。

LBで

熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださる

と訳しているように、ここでいう「求める」には真摯に追求するという意味があります。

ですから、「信仰」は神に対する飢え渇きも求められています。

日本宣教の課題の一つは、神に対する飢え渇きの欠如ではないでしょうか。

神に対する飢え渇きがなければ、神に喜ばれることはできません。

私たちは人々が神に対して飢え渇きを持つことができるように祈る必要があります。

ヘブル 10:26-39

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(10:39)

ヘブル書が私たちに教えていることは、イエス・キリストを信じているならば、罪の力から解放されているから、信じて、聖霊様の力によって前進しなさいということです。

イエス・キリストを信じているならば、聖霊様の力が与えられていることを信じて、感情に振り回されずに、信仰を選んで生きて行くということです。

もちろん、うまくいかないと感じる時、敗北感を感じる時もあると思います。

落ち込むこともあると思います。

しかし私たちは、聖霊の力によって、信じていのちを保つ者です。

なぜなら、たとえどんなに自分が弱く感じても、聖霊なる神様が私たちの内に与えられていて、私たちを導いてくださるからです。

私たちは信じない者にならないで、信じる者になることが大切です。

ヘブル 10:11-25

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(10:19)

旧約聖書の時代、神の臨在を象徴する神の箱が置かれた至聖所に、罪ある人は近づくことは許されませんでした。

大祭司だけが、一年に一度だけ、動物の血を持って、民の贖いのために入ることが許されていました。

しかし、イエス・キリストが十字架にかかられた時、その幕は、天から引き裂かれました。

イエス・キリストの十字架の御業によって、「新しい生ける道」(20節)が開かれました。

メッセージ訳ではこのように訳しています。

だから、友よ、私たちは今、ためらうことなく、神のもとへ、『聖所』の中へと入っていくことができる。イエスはその血によって道を開いてくださり、神の前で私たちの祭司として行動してくださる。神の臨在の中への 『幕』は、イエスのからだである。

「イエス様の御名によって」祈ることができることがどれほど、素晴らしいかを覚えたいと思います。

ヘブル 10:1-10

「ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。」(10:5)

このヘブル人への手紙の著者が言おうとしていることは、旧約聖書に書いてある動物のささげ物では、罪を除くことはできないということです。

もし、罪を除くことが出来るならば、くり返しささげられる必要はなかったはずだというわけです。

動物のささげ物は、あくまでも、「後に来るすばらしいものの影」だと言います。

これは、プラトンのイデア界の話をしているわけではありません。

これから来るものの下書きのようなものと言うことです。

これから来るもの、「後に来るすばらしいもの」、それが、イエス・キリストです。

詩篇四〇篇を引用し、「後に来るすばらしいもの」とはイエス・キリストの受肉だと言います。

神の御子が、人となり、この世界に来られたことが強調されています。

私ごとですが

今週、わたしが所属している賛美グループ「リラ」の新しいミニアルバム(6曲入り)が発売されます。

今年は結成30周年の記念の年ということで、いくつかのコンサートや楽譜集の発売も予定しておりこれから年末まではかなり慌ただしくなりそうです。

レコーディングの様子やインタビュー映像などはYoutubeやCGNテレビでも放送されていますので見ていただけたら嬉しいです。

時々礼拝や祈祷会でも賛美している「破れ口に立つ」という曲も収録されていますし、何曲かは長男もバイオリンで参加してくれています。

今はあまりCDを聴かない時代になってしまいましたが音はもちろんのことジャケットの絵や歌詞の位置、写真、曲順に至るまで話し合いや想いを重ねながら作り上げていますので出来る限りCDの形でお手に取っていただければ嬉しいです。

曲ごとに作者のコメントも入っています。

それにしても個性豊かな6人のメンバーが一人も欠けることなく30年も共に活動してくることができたことは神様の奇跡以外の何ものでもありません。

主の御業を賛美し、心からの感謝をお捧げします!

 (小山晶子牧師人)

ヘブル 9:23-28

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(9:27,28)

人間は死亡率百%です。

すべての人は一度死ぬことが定まっています。

そして、死後、すべての人は神の前に立つ時が来ます。

イエス様はすべての人の罪を負うために一度十字架にかかり死に、葬られ、よみがえられました。

そして、この世界の終わりに再び来られます。

この箇所のポイントは「一度」。

イエス・キリストの十字架の死と復活は完全でしたので、もう、動物のささげ物のように繰り返される必要はないということです。

繰り返す必要もなければ、付け加える必要もありません。

誰でも、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、心に迎えるならば、罪の力から救われます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!