こころをさわがせず

先週水曜日、ショッキングな連絡が入りました。御殿場純福音キリスト教会の牧師婦人・中見はるみ先生が天に召された、という知らせです。笑顔でご挨拶くださっている姿が思い出され、いまだに実感がありません。中見透先生をはじめご家族、教会の皆様の悲しみを思うと言葉もありませんし、TPKFイーストの中で数少ない牧師婦人の一人でもありましたのでこれからのことを考えると不安が押し寄せてきます。
イエス様はご自分の『死』が目の前に来たことを悟った時、弟子たちに言われました。

「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。」

「あなた方は互いに愛し合いなさい。」

ご自分が十字架への道を歩むときがすぐそばまで来ていたこの時、イエス様だって平気であったはずがありません。しかしイエス様の言葉と行動は愛に満ちたものでした。わたしの心は動揺し、悲しみ、ふさいでいますがイエス様の置かれていた状況を覚えつつ、御言葉をかみしめたいと思います。(小山晶子牧師夫人)

使徒 16:1-15

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。」(16:9)

パウロとシラスは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ、自分たちが立てていた計画を変更しなければなりませんでした。彼らは聖霊の導きに従える柔軟性を持っていました。その後、パウロはマケドニヤ人の幻を見ます。キリスト教のヨーロッパ宣教は、ここから始まります。神は今も、幻を見させるだけでなく、様々な方法で私たちを導かれるお方です。今、目の前の扉が閉じられているのは、別の所に新たな扉が開かれているからかもしれません。神は道のないところに道を作られるお方です。私たちは聖霊の導きに対して柔軟である必要があります。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 15:22-41

「そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。」(15:39,40)

パウロとバルナバが対立し、別行動をしたという内容は、初代教会の歴史の汚点のように感じてしまいます。しかし、実際は、神の国の働きの拡大へとなりました。バルナバとマルコの働きが、その後、どうなったかに関して、使徒の働きには出てきません。しかし、対立の原因となったマルコに関して、使徒パウロは後ほど、こう言及しています。

「こちらへは、マルコも連れて来てください。彼に頼みたいことがあるのです。」(2テモテ4:11LB)

マルコは初代教会において重要な存在となり、後に、マルコの福音書を執筆するようになります。対立したり、別行動をとることになることは悲しいことですが、神はマイナスに見えることを用いてプラスにするお方です。

使徒 15:1-21

「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(15:11)

三浦綾子さんの興味深い聖書解釈があります。

「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)

とイエス様がおっしゃったのは、

「どんな人も世の光として神がその生を赦していてくださる」

という解釈です。イエス様は、「あなたは世の暗闇」とは言いませんでした。あれでも、あんな人でも世の光、神様が命を与えてくださったからには、その人の存在を否定してはいけないと。今日の箇所で、使徒ペテロは、ユダヤ人クリスチャンたちに、異邦人クリスチャンの存在を否定しないように言います。この世は誰一人、自力で救われた人はいません。みんな、神の一方的な恵みによって救われました。お互いの存在を尊重し合う必要があります。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

使徒 14:8-28

「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(14:15)

使徒パウロたちの奇跡的な働きを見た人々は、彼らを「神々だ」とまつりあげようとしました町のゼウス神殿の祭司までが、彼らにいけにをささげようとしました。それでパウロは叫びました。

「皆さん。なんということをするのです。私たちは、皆さんと同じ、ただの人間ではありませんか。こんな愚かなことはおやめなさい!天と地と海、それにその中のすべてのものをお造りになった神を礼拝しなさい。私たちは、そのために、福音を伝えに来たのです。」(LB)

どんな人であっても、人間を偶像視すべきではありません。人間は人間です。私たちは天地万物をお造りになった造り主だけに礼拝を捧げるように召されています。

使徒 13:42-14:7

「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」(13:44)

町中の人がパウロたちが語る神のことばを聞きに集まって来ました。人々が聞きたかったのは、神のことばでした。聖書は神のことばであり、キリスト・イエスを信じることによって救われるための知恵を与えてくれます。私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれます。私たちをあらゆる点で整え、どんな良い働きをも行う力を、十分に与えてくれます。(2テモテ3:15-17参照)ですから聖書は言います。

「どんなときにも、神のことばを熱心に伝えなさい。機会があろうとなかろうと、つごうが良かろうと悪かろうと、しっかりやりなさい。」(2テモテ4:2)

もっともユダヤ人の指導者たちは、ねたみに駆られて、ことごとくパウロに反対しました。しかし、永遠のいのちを求める人はみな信仰に入りました。

使徒 13:13-41

「ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。」(13:36)

リック・ウォーレン先生は、この箇所を通して人生の方向性が永遠に変えられたと言います。このみことばを読んだ時、どうして神がダビデを『わたしの心にかなった者』と呼ばれたのかを悟ったと言います。ダビデがそう呼ばれたのは、彼が神の目的に全生涯を捧げたからだと。また、これほど素晴らしい墓碑銘はないと言います。「〇〇は、この時代にあって神の目的に仕えた。」過去の人も、未来の人も、今の時代に生きることはできません。この時代にあって神の目的に仕えることができるのは、この時代に生きている私たちだけです。神は私たちをこの時代のために造られました。この時代にあって、神の目的に生きることができますように。

使徒 12:19-13:12

「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」(12:23)

ヘロデは民衆から、

「神の声だ。人間の声ではない。」

と称賛されて、いい気になっていました。神に帰さなければならない栄光を自分のものとしたヘロデは、結局虫にかまれて息が絶えてしまいました。イエス様は、イエス様を信じることができない理由をこう警告しました。

「互いにほめ合ったり、ほめられたりすることは喜んでも、ただ一人の神からほめていただくことには関心がないのですから。」(ヨハネ5:44LB)

人々から称賛されるためではなく、神の栄光を現わすために人は造られました。栄光は神のものです。神は言われます。

「わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(イザヤ48:11)

恥は我がもの、栄光は主のもの、すべての栄光を神に捧げることができますように。

イエス様のひつじ

いまデボーションでヨハネの福音書を読んでいます。10章のイエス様の

「羊は彼(イエス様)の声を知っているので彼についていきます。」

という言葉をここ数日ずっと黙想しています。「声」の重要性をとても感じているからです。きっかけはうちの猫たち。ちゅーるという猫用のおやつをあげる時わたしはちゅーるのコマーシャルの歌を歌っています。歌い始めの言葉だけで猫たちはものすごい勢いで私の周りに集合するのです。けれども最近、私が歌わないと同じ歌を歌っても猫たちが反応しないということに気付きました。息子たちや夫、実際のコマーシャルの音などで試してみたのですが、それらには全く無反応なのです。私の声だから、集まってくるのです。その猫たちの様子を見ながら、この聖書の箇所がさらに私にとって意味深いものとなりました。イエス様の声を知っている、とは他の声と迷いがまったくないということだと思ったのです。だから惑わされることもありません。そうなりたいなあと思います。何度も何度もイエス様の声を聴き続けましょう。(小山晶子牧師夫人)

使徒 11:19-12:19

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(12:5)

初代教会のリーダーの一人、ヤコブが殺され、もう一人のリーダー、ペテロも逮捕されてしまいました。当時の教会は、人に頼ることも、お金に頼ることもできませんでした。もちろん、権力に頼ることもできません。政治力もありませんでした。しかし教会は神に熱心に祈り続けていました。神は祈りを用いて奇跡を起こされます。聖書は言います。

「彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。」(12:10)

問題は私たちを祈りの器に変えるためにあります。祈りがなければ鉄の門が開かれることはありません。事実、聖書は言います。

「そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」(12:12)

今日は主の日。共に集まり、主に礼拝を捧げましょう!