詩篇 18:7-15

「御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と火の炭。主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。」(18:12,13)

「御前の輝き」とは、まさに神の畏れ多い臨在のことです。神の臨在から、突き抜けて来るもの、それは神の御声だと言います。私たちは、神のみ言葉である聖書を通して、神が御声を発せられるのを聴くことができます。聖書の神は御声を発せられるお方、私たちに語りかけてくださる神です。詩人はまた、「主がお怒りになったのだ。」(7節)と神の御怒りに言及します。神の御怒りはこの世の悪に対するものです。この世に蔓延する不正義、人身売買や虐待に対して、怒りを感じないのであれば愛を失っています。悪に対する怒りは善の本質の一つです。神の御怒りは、愛の別表現です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

箴言 3:21-35

「主があなたの頼みであり」(3:26新改訳二〇一七)

私たちは何を頼みにして生きているでしょうか。私たちが頼みにするのは、今も生きて働かれている「」、イエス・キリストです。主は私たちに「知恵と良識」(21節LB)を与えてくれます。「それらはあなたを生きる力で満たし」(22節LB)、「挫折や失敗からもあなたを守ります」(23節LB)。また、頼みにする「」は言われます。「助けるに値する人から立ち去ってはいけない。あなたの手はその人のための神の御手だから。」(27節MSG)あらゆる機会を用いて善を行いましょう。もし、助ける力があるのならば先延ばしにしてはいけません。頼みにする「」は私たちを用いられます。そして、頼みにする主は、「神の前に正しく生きる人には親しくしてくださいます。」(32節LB)主を頼みにする時、私たちは祈りに導かれ、主との親密さの中に導かれていきます。

詩篇 18:1-6

「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」(18:6)

この箇所は、ダビデが晩年、自分の生涯を回顧して記した詩篇だと言われています。彼の人生は波乱万丈でした。サウル王に命を狙われたり、息子のアブサロムに命を狙われたり。また、ダビデが洞窟の中に隠れていた時に集まった人々は、不満を抱いている人たちでした。しかし、そんな中で彼は人生の秘訣を見出しました。それは、主を呼び求めること、祈ることでした。壁にぶつかった時、クリスチャンは祈ります。祈ることができることは幸せです。苦しみがなくても祈ることは大事ですが、人は追い込まれないと祈れないところがあるのもまた事実だと思います。祈りに追い込まれることは神が本当に生きておられるということを体験するチャンスでもあります。

詩篇 17:13-15

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(17:15)

LBでこう訳しています。

「しかし、私の関心は富にはなく、私が神を見ているかどうか、また、神と正しい関係にあるかどうかにあります。私は天で目覚めるとき、この上ない満足感にひたるでしょう。神の御顔をじかに見るからです。」

私たちのこの世での人生は、この地上の利得に心を奪われるか、それとも、神を喜びとして生きていくかで、大きく変わります。神を喜びとして生きていくならば、やがて、天の御国に着くとき、この上ない満足感にひたることになります。ジョン・ストット師はこう言います。

「地上には大切な義務がありますが、自分が誰であるか、どこに向かっているのかを忘れるほど、そんなものに心を奪われてはいけません。」

信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離すことがありませんように。

詩篇 17:6-12

「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」(17:8)

詩人は、はっきりと言います。

「神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。」(6節)

私たちの祈りはひとりごとで終わることはありません。私たちの祈りを聞き、答えてくださる神は今生きて働いておられるからです。詩人は敵に囲まれ(9節)、その辛辣な言葉(10節)に苦しめられていました。しかし詩人は、その大いなる愛をもって、「ひとみのように」自分を大切に思ってくださっている神に目を向けました。そして、その御翼の陰に隠してくださることを確信し、祈ります。神は私たちを愛しておられます。私たち一人一人を「ひとみのように」、高価で貴いとおっしゃられます。

箴言 3:11-20

「知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。」(3:15)

13節から18節まで箴言の著者は知恵を人のように言及します。新約聖書の光を照らすならば、ここで言う知恵はイエス・キリストを指します。聖書は言います。

「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(1コリント1:24)

ですから、人はイエス・キリストに出会うまで、人生の意味は分かりません。イエス・キリストを見出す時、人は知恵の源を見出します。それは、どんなものにもまさります。詩人は、

「金で得るものにまさり、…黄金にまさる」(14節新改訳二〇一七)

と言います。比べられるものはありません。その道は「楽しい道」(17節)です。

詩篇 17:1-5

「私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。」(17:5)

私たちの歩む道が神の道から外れないように、詩人と同じように私たちは心がける必要があることがあります。一つ目はです。

「あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。」(3節)

神が心を調べるのはとこしえの道に導くためです。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩139:23、24)

二つ目はです。

「私は、口のあやまちをしまいと心がけました。」(3節)

私たちの口から出る言葉は重要です。聖書は言います。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

受験生の親

とうとう、このシーズンがやってまいりました。ああ、受験。最近栄シャロームでは毎年受験生がいたので、この時期はいつもドキドキしていたのですが、とうとううちの次男の番がやってまいりました。センター試験は終わりましたが、これからしばらくは一般試験が続きますので祈りつつ見守りたいと思います。勉強や受験校をめぐっては何度次男と喧嘩(?)になったかわかりません。子育ての大変さ、年齢が進むにつれて、相応に関わることの難しさをギュッと凝縮して体験した高校時代でもありました。先週書いたヤコブは、聖書を見る限りかなり親の言いなりだったように感じます。特に母親のリベカの言動には自分も共感する部分もあり、反面教師として学ばなければと思います。親の考えたベストは、必ずしも我が子にとってのベストではないし、それよりもむしろ神様との関係を大切にしてほしい。イサクとリベカがヤコブを一人でラバンのもとに送り出したように、次男の背中を祈りと共に見送りたいと思います。がんばれ!
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 16:1-11

「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(16:10‐11)

旧約聖書には死後の世界は基本的に語られていません。しかし、この箇所には永遠のいのちの希望が語られています。この地上での人生がすべてではありません。イエス・キリストを信じる者たちはこの地上でのいのちが終わる時、神の臨在の中で、天の御国で永遠を生きます。喜びが満ちあふれ、楽しみがとこしえにあります。ですから使徒パウロは言います。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 15:1-5

「このように行なう人は、決してゆるがされない。」(15:5)

詩人は

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」(1節)

と、神の臨在に生きるとはどういうことか、神の御国に生きる人の姿をを描写します。

「まっすぐに歩み、正しく行動し、真理を語る。あなたの友人を傷つけず、あなたの隣人のせいにしない。卑劣なものを蔑む。損になっても約束を守り、正直に生きる。賄賂を絶対に受け取らない。」(2‐5節MSG)

このような生き方に、私たちの心の態度を変えるように聖書は教えます。

「この世の型にはまり込んでしまわないように気をつけなさい。むしろ、自分の心の態度がすべて変わるように、自分自身を神に造り変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころが良いもので、受け入れられ、完全であることを、あなた自身が身をもって証明するようになるのです。」(ローマ12:2フィリップス訳)