詩篇 72:1-20

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」(72:11)

すべての王がひれ伏し、仕えると預言された王こそ、メシヤ、キリストです。聖書は言います。

「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:10,11)

ですから、この「彼」こそ、イエス様のことです。

「彼は、身寄りのない者や貧しい者を保護します。弱っている者や困っている者をあわれんで、助けの手を差し伸べるのです。彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできません。彼にとって、このような者たちのいのちはとても大切なのです。」(12‐14節LB)

まさに、福音書に出てくるイエス様の姿がここにあります。イエス・キリストこそ旧約が預言してきた王、メシヤです。

詩篇 71:19-24

「私もまた琴であなたをほめたたえます。わが神よあなたの真実を。私は竪琴に合わせてあなたにほめ歌を歌います。イスラエルの聖なる方よ。」(71:22)

賛美のテーマ、私たちが歌う賛美の主題は、「神の真実」です。「真実」と訳された単語は「アーメン」と同じ単語です。詩人は、神の真実をこのように歌っています。

「あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが私を再び生き返らせ地の深みから再び引き上げてくださいます。」(20節)

神は決して私たちを見捨てることも、見放すこともありません。私たちを引き上げてくださる真実なお方です。詩人は、楽器を奏でて神の真実を歌い、告げ知らせると言います。

「ああ、イスラエルの聖なる神よ。私は楽器を奏でてほめ歌を歌い、あなたがどれほど約束に忠実なお方であるかを、告げ知らせます。」(LB)

箴言 14:15-24

「知恵のある者は慎重で、悪を避けるが、愚かな者は怒りやすく、自信が強い。」(14:16)

悪は気をつけて避けるものだと聖書は言います。自分を過信することから多くの失敗が生じます。LBではこのように訳しています。

「賢い人は用心深く危険を避け、愚か者は自信満々につき進みます。」

イエス様は

「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」(マタイ10:16)

と言われましたが、浅はかにならず、賢く生きることが聖書的な生き方です。聖書は言います。

「わきまえのない人は言われたことを鵜呑みにし、慎重な人は将来をよく考えて行動します。」(15節LB)

考えることは悪いことではありません。信仰的になることと、思考停止は同義語ではありません。自分の歩みを見極めつつ、主に信頼し、信仰の世界を歩むことができますように。

詩篇 71:9-18

「神である主よ私はあなたの力とともに行きます。あなたのただあなたの義だけを心に留めて。」(71:16)

「神である主」と訳された言葉は「ヤハウェである主」、神の名前が用いられています。この節の全体を直訳しますと、こんな感じになります。

「ヤハウェである主の力の中に私は入っていき、あなたの義を私は覚える。ただあなたのだけ。」

詩人は、神の偉大な御業を覚えて、ただ、神の義のゆえに、祈りの中に入って行きました。私たちが受け入れられるのはイエス・キリストの中にある神の義だけです。ですから、イエス・キリストだけを見上げなければ、祈りの中に入ることは困難です。また、神の力ある御業を覚えることが、私たちを祈りの中に導きます。神の力ある御業を語ることも大切です。

「何度、あなたが危ないところを助けてくださったか、数えきれないくらいです。会う人ごとに、あなたの恵み深さと、日々途切れることのない思いやりとを告げましょう。」(15節LB)

教会の変化について

先週から、約二か月ぶりに通常の教会活動が再開しました。本日も第一礼拝から第三礼拝まで行っていますし、ビブリオンや祈祷会などもオープンしています。ただ、飛沫感染を防ぐためマスクの着用をお願いしていますし、賛美の間は窓やドアも開放した状態になっています。会衆との距離を確保するため賛美リーダーは講壇でリードすることとなりました。椅子の並びもジグザグで今までとの違いに戸惑うこともあるかと思いますが、お互いのためにご協力をどうぞよろしくお願いします。花壇の花も植え替えられ、昨年の台風で壊れたラティスも修繕が終わりきれいになっています。自粛期間にぶどうの木の下にズッキーニと唐辛子とミニトマトも植えました。成長を見守ることがわたしの日々の日課となっています。教会の建物の存在に感謝するとともに、やはり教会とはキリスト者の集まりあってのものだということを強く思い知らされる日々でもありました。お一人お一人の存在に心から感謝しつつ、今日も共に、心ひとつに礼拝を捧げていきましょう。   (小山晶子牧師婦人)

詩篇 71:1-8

「私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです。」(71:7)

イエス・キリストを信じて生きていくことは奇跡と思われる人生を歩んでいくことでもあります。LBではこう訳しています。

「あなたの強力な守りのおかげで、私は人々が目をみはるほどの成功を収めたのです。」

自分の能力以上の成功を神は与えてくださいます。イエス様もこう言われました。

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:13)

「わたしの名によって」というのは呪文の言葉という意味ではありません。イエス様との関係の中で求めるということです。つまり、奇跡も成功も、神の栄光のため与えられるものであるということです。恥はわがもの、栄光は主のもの。主を信頼していくことができますように。今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 70:1-5

「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」(70:4)

「神を慕い求める」のは、聖霊がその人の内におられる証拠です。使徒パウロもこう言っています。

「ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(ピリピ3:12口語訳)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、クリスチャンというのは、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神ご自身が願っていることです。

「あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。」(新改訳二〇一七)

神を慕い求める人は、神の偉大さを体験します。神がどれほど大いなるお方かを体験します。

箴言 14:5-14

「愚か者は罪の償いを嘲る。心の直ぐな人たちの間には恩寵がある。」(14:9)

「罪の償いを嘲る」、すなわち、キリストの十字架の御業を嘲る人生は死となる道です。聖書は警告します。

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。笑うときにも心は痛み、その終わりには、喜びが悲しみとなる。」(12,13節)

LBでは今日の箇所をこのように訳しています。

「神の教えに背く者たちは過ちを犯し、神を恐れる者たちは人を思いやります。」

神のみことばを軽んじる人生は死への道です。「神を恐れる者たちは人を思いやります」とあるように、信仰は行いを伴います。メッセージ訳ではこう訳しています。「道徳的な生活は、恵まれている生活です。」

詩篇 69:29-36

「私は苦しんで痛みの中にいます。神よ御救いが私を高く上げますように。歌をもって私は神の御名をほめたたえ感謝をもって私は神をあがめます。」(69:29,30)

ダビデは苦しみと痛みの中にありました。しかし、その状況の中にあっても、彼は神を礼拝することを選びました。

「私はほめたたえます。神の名を。歌をもって。」(直訳)

とダビデが言うように、神をほめたたえることは感情の問題ではなく、意志の問題です。決断の問題です。そして、

「それは雄牛にまさって主に喜ばれます。」(31節)

とあるように、動物のいけにえにまさる行為です。それだけでなく、周りにも影響を与えます。

「彼らは心から喜びます。神を探し求める人は、喜びに満たされるからです。」(32節LB)

ですから、聖書は言います。

「天地よ主をほめたたえよ。」(34節)

詩篇 69:13-28

「しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」(69:13)

この詩を書いたダビデは逆境の中にいました。

「私は傷つきました。」

「私が同情を求めてもそれはなく慰める者たちを求めても見つけられません。」(20節)

しかし、彼は主に祈り、主に信頼することを選びました。

「みこころの時に」

と、神の主権に自分の身を委ねました。それはあきらめの境地にいたったというわけではありません。なぜなら、それでも彼は神の豊かな恵みに期待しているからです。

「神が聞いてくださる時が来たからです。あなたは、愛と恵みを十分に用意して、待っていてくださいます。」(LB)

私たちもダビデと同じ姿勢が大切です。否定的になることを拒絶し、祈り、委ね、神の恵みに期待する。必ず、神は私たちの祈りを聞き、みこころの時に、万事を益としてくださる。この姿勢を選択していくことができますように。