詩篇127:1-5

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)

神が建築責任者となってくださいますが、私たちが建てなければ家は建ちません。神が守ってくださいますが、見張りが必要ないというわけではありません。私たちの側がすべき分と神がなさる分があります。ですから、主を信頼することは、受け身になって、何もしなくてもいいということとは違います。逆に、謙遜に自分の分を努めることが求められます。神の御国がこの地にもたらされることを祈り求めるということは、自分がその神の使命(ミッション)に積極的に生きることも意味します。ただ、同時に二節のことばを忘れないようにする必要があります。「主は、愛する者には必要な休息を与えようとなさるお方です。」(LB)休息もまた、私たちの分です。

箴言27:23-28:6

「おしえを捨てる者は悪しき者をほめる。おしえを守る者は彼らに敵対する。」(28:4)

今日の箇所は、私たちが築き上げるべき共同体の三つの姿が描かれていると言われます。

一つ目は「大胆な共同体」。「悪者は追われもしないのに逃げ回りますが、神を恐れる人に怖いものはありません。」(1節LB)信仰に生きる共同体は「ライオンのように大胆」(MSG)です。

二つ目は「よく導かれた共同体」。「混沌がある所は皆が修正する計画を持っているが、本当に理解しているリーダーが正す。」(2節MSG)口では誰でもどんなことでも言えます。

三つ目は「正しい共同体」。「悪人は、正しいことをするのが、どんなに大切なことかわかりませんが、主の教えを守ろうとする人は、それがよくわかっています。」(5節LB)ですから、悪人は主の教えに平気で文句を言います。主の教えを守ることは、「悪者と戦うこと」(4節LB)ということを心に留める必要があります。

詩篇126:1-6

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(5,6節)

神は私たちが涙の谷に行くことを許可されることがあります。目を泣きはらして出ていくことを許されることがあります。なぜなら、そのような状況の中で、人はやっと祈りに導かれて神のもとに行くことができることを知っているからです。砕かれて、神を求める時、神が答えてくれます。私たちが求める正しい相手は、生ける神、イエス・キリストです。主は祈りに答えて、私たちの涙を喜びに変えてくださいます。泣きはらした目も、喜びの叫びに変わります。マイナスはプラスになります。万事は益となります。それを見て、人々は言うようになります。

「主は彼らのために、おどろくべきことをなさった。」(2節LB)
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇125:1-5

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなく、とこしえにながらえる。エルサレムを山々が取り囲んでいるように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」(125:1,2)

LBでは、こう訳しています。

「主を信頼する人は、シオンの山のように、どのような状況でも動じません。エルサレムがその周囲の山々に守られているように、主もご自分の民を取り囲んで、守ってくださいます。」

私たちの主は、私たちを取り囲んで守ってくださるお方です。ですから、どんな状況でも動じないというのです。私たちの心は、ちょっとした状況の変化にも動揺しやすいところがあります。すぐ、不安になってしまうこともあります。もっともシオンの山には、神の臨在の象徴である神殿がありました。「シオンの山のよう」という意味には主の臨在への意識があると思われます。まさに、主が共におられるということを認識することこそ不安に対する処方箋です。

詩篇 124:1-8

「「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。」(124:1)

「もしも神が私たちの味方でなかったなら」と考えるだけで恐ろしくなります。すべてをご存じで、私たちを気にかけ、愛してくださっている神を信じるからこそ、私たちは安心して日々生きることができます。私たちはイエス・キリストの十字架を通して確信をもつことができます。神の側から私たちの手を離すことはありません。しかし、私たちの方が、神の御手を振りほどき、自分勝手な道を突き進むならば、神と敵対して歩むことになります。ですから、わたしたちは自分が今どこにいて、どこに向かっているのかを日々確認する必要があります。神とともに歩む時にパウロが語ったこの約束は確かに私たちとともにあります。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

箴言27:15-22

「銀にはるつぼ、金には炉があるように、人は他人の称賛によって試される。」(27:21)

信仰の人は、どんな成功も神が第一の理由であることを理解しています。神が賜物を与え、機会を与える方であることを知っています。ですから、他人から称賛される時、神にすべての栄光を帰します。神の栄光を自分のものにしてはいけません。恥は我がもの栄光は主のものです。

「人は、称賛を浴びるときに試されます。」(LB)

主に栄光を帰しましょう。同じように、他人から批判されても、それを自分の心の中に入れてはいけません。

「人の心は、その人に映る」(19節)

からです。

「野心と死には終わりがありません。」(20節LB)

と聖書は忠告します。本当の満足はイエス・キリストにのみ見出せます。イエス様は言われました。

「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)

詩篇123:1-4

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(123:1)

礼拝は神に目を上げることから始まります。神は天の御座に着いておられます。すべての上におられます。信仰の人は神を見上げます。見下げたりしません。神の御子、イエス・キリストは仕える者となられました。しかし、それは私たちが神を利用できるという意味ではありません。神は、人が自分の快適さを保つために命令できるようなしもべではありません。もし、神を理解したいならば、私たちは目を上げる必要があります。権威の場所、聖書のみことばを見上げる必要があります。立ち位置を間違えないように気をつける必要があります。神は神であり、創造者です。人は人であり、被造物の一つです。驚くことは、そんな私たちを神は心にかけ、愛されているということです。

詩篇122:1-9

「エルサレムの平和のために祈れ。『あなたを愛する人々が安らかであるように。』」(122:6)

これは、ダビデによる都上りの詩篇です。エルサレムは、イスラエルの人々にとって国の中心であると同時に、精神的なよりどころでもありました。なぜならそこには神殿があり、神殿は神の臨在の象徴だったからです。彼らはそこで神を礼拝し、賛美をささげ、祈りをささげました。エルサレムの重要性は時代が移り変わった今でも変わりません。現在のエルサレムには、いたるところに戦争の傷跡、弾痕が残っています。神の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思う時に、私たちの心を絞めつけます。エルサレムの平和のために祈りましょう。また、神の臨在の象徴という意味で、自分が所属する地方教会のためにも祈るように命じられています。地方教会は世界の希望です。

詩篇121:1-8

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(121:4)

私たちが必要なとき、神はいつもそこにおられます。いつでも私が呼ぶとき、神は答えられます。神はまどろむことも、眠ることもありません。人間は神にはなれません。すべての必要に人は答えることはできません。人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。ですから、私たちは神に期待する必要があります。自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神を求めることです。詩人は山に向かって目を上げました。目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、「私の助けはどこからくるのだろうか」とつぶやかずにいられないような心境だったのでしょうか。そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神に心を向けます。目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはありえません。ならば、神には、その問題をも解決することができます。

箴言27:5-14

「朝早くから、大声で隣人を祝福すると、かえって呪いと見なされる。」(27:14)

箴言はTPO(Time(時), Place(場所), Occasion(場合))の大切さを教えています。時と場所、場合に応じた対応はこの世界で生きていく上で大切であることを聖書は教えています。祝福すること自体は素晴らしいことなのですが、時と場所、場合をわきまえないと呪いとみなされます。どんなに良いものであったとしても、時と場所、場合をわきまえなければならないと言うことです。LBではこう訳しています。

「朝まだ暗いうちに大声であいさつすると、いやがられます。」

今日の箇所のほとんどは友に関する内容です。

「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。」(10節)

イエス様は言われました。

「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:14)
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

本日、第二礼拝の最初にカルテット・べセルの特別賛美があります。