ヘブル 12章

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」(12:1-3)

信仰生活は短距離走ではなく、長距離走です。重要なのは、イエス様から目を離さないことです。心が元気を失い、疲れ果ててしまう時、私たちは十字架を忍ばれたイエス様のことを考える必要があります。私たちのために死なれたイエス様を考える必要があります。

ヘブル 11章

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(11:1)

11章は信仰の章と呼ばれますが、まず信仰の定義を提示した後、いくつもの例によってこの信仰の定義が叙述されています。

メッセージ訳は一節の定義をこのように訳しています。

存在の基本的な事実は、この神への信頼、すなわち信仰が、人生を価値あるものにするすべてのものの下にある確固たる基盤であるということです。それは、目に見えないものに対する私たちの対処法です。

ユージーン・ピーターソンは「信仰とは、実践的な宗教の総括的な言葉である。」と言います。

つまり、信仰は一歩ずつ歩んで行く実践的なものということです。

信仰によってモーセは、

キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。」(26節)

これは、知性だけでは理解できない世界です。信仰によって生きることができますように。

ヘブル 10章

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」(10:36)

救いは完全に神の働き、神の恵みの世界であり、人間の努力に依りません。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8,9)

神の約束にとどまる必要がある以上、忍耐が求められます。

神の約束されたものを頂きたいと願うなら、忍耐しなければなりません。」(LB)

聖書は言います。

あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。」(35節)

確信を投げ捨ててしまった人たちがいたのだと思います。解決策の一つはこれです。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(25節)

私たちは励まし合う必要があります。

ヘブル 9章

「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。」(9:15)

罪の報酬は死であり、罪の贖いは死を要求します。

大祭司は年に一度だけ、血を携えることで「第二の幕屋」(至聖所)に入ることが許されました。

第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。」(7節)

しかしキリストは、

ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(12節)

聖書は明白です。

キリストは罪のための最高のいけにえ、最高の祭司です。

人は今、イエス・キリストによって至聖所に入ることができます。

大胆に恵みの座に近づき、礼拝を捧げることができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヘブル 8章

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。」(8:1,2)

ここにヘブル書の要点があります。

「私たちの大祭司はキリストであり、現在、天において神の右の座についておられます。」(LB)

キリストはすべてのものを治めておられ、祭司の役割を担われています。

旧約聖書に出てくる幕屋、聖所は、天にあるものの写しであって、キリストは天にあるまことの聖所におられます。

旧約聖書の「古い契約」は、新約聖書の「新しい契約」に刷新されました。

「古い契約」の問題、それはイスラエルの民が「わたしの契約にとどまらなかった」(9節)こと、罪の問題です。

人は「新しい契約」が必要でした。

イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられ」永遠の祭司となられました。

※ 8月2日(月)から神奈川県も緊急事態宣言の発出が決定されましたが、教会の対応は8月1日(日)の役員会で決定し連絡させていただきます。

ヘブル 7章

「このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。」(7:1)

「メルキ」は「王」、「ゼデク」は「義」で「義の王」。

「サレム」は「平和」で「平和の王」。

このメルキゼデクの話は、創世記13、14章に出てきます。

アブラハムは敵と戦い、勝利した後、帰る途中にメルキゼデクに遭遇します。

この時、アブラハムは十分の一を捧げます。

メルキゼデクは謎の多い人物ですが、王であると同時にいと高き神の祭司でした。

イエス様はダビデの子孫であり、王の家系、ユダ族の出身でした。

祭司家系のレビ族の出身ではありません。

しかし、このメルキゼデクのように、王であり祭司であると言います。

イエス様は永遠に存在されるので、永遠に王であり祭司です。

「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(7:25)

ヘブル 6章

「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。」(6:10)

神は私たちがこの地上でどのように生きているかに関心を持っておられます。

聖書ははっきりと言います。

あなたが困っているクリスチャンを助けることで示したすべての愛を、そしてあなたがそれを続けていることを、神はよく知っています。」(10節MSG)

そして、私たちの愛の行為は私たちを堕落から守り、報いを受けることができるようにすると言います。

私たちは、あなたがたがこの世にあるかぎり人を愛し続けて、十分な報いを受けることができるようにと願っています。最後まで希望を持ち続けるなら、信仰生活が怠惰に流れたり、無関心に陥ったりすることはありません。」(4-6節LB)

ヘブル 5章

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、」(5:8,9)

聖書の言う神は三位一体(父、御子(キリスト)、聖霊)の神です。

キリストは子なる神であるにも関わらず、私たちと同じように、苦しみの中で従順を学ばれました。

それは、キリストを信じ、キリストに従う全ての人の永遠の救いの源となるためでした。

キリストの「十字架の死にまで従われ」(ピリピ2:8)たキリストの「信実」が人を救います。

救いは神の恵み、贈り物です。

人は無償で受け取ることができますが、それはイエス様がすべてを支払ってくださったからです。

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(7節)

ヘブル 4章

「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4:14-16)

私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(1節)

とあるように救いを軽く扱ってはいけません。

みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」(2節)

とありますが、神の御言葉は信仰をもって受けとめる必要があります。

私たちの慰めは、私たちと同じように人となられ試練にあわれたイエス様は私たちの弱さをよく知っておられるということです。

ですから、恵みの御座に近づきましょう。

ヘブル 3章

「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)

「使徒」が意味することは、神によって遣わされたお方ということです。

「大祭司」が意味することは、神との永遠の関係を可能としたお方ということです。

このお方を「考えなさい」と聖書は言います。

この箇所でイエス様の特徴としてあげられているのは「忠実」です。

人はイエス・キリストの「十字架の死にまで従われ」(ピリピ2:8)た、その「忠実」(信実)さのゆえに救われます。

しかし、残念ながら、「心が悪に染まって信仰をなくし、生ける神から離れる」(12節LB)人がいます。

だから聖書は言います。

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」(13節)

神に心を閉ざすことなく、イエス様のことを考えることができるように、励まし合うことができますように。