詩篇 56篇

「神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。」(56:10)

「みことばをほめたたえます」というのは、聖書が礼拝の対象という意味ではありません。

聖書のみことばが神のみことばであるがゆえに、神をほめたたえるという意味です。

私たちの信仰の土台は、聖書のみことば、神のみことばです。

みことば信仰とは、感情ではなく、聖書のみことばが何と言っているかを優先させるということです。

ですからパッション訳ではこう訳しています。

私は主を信頼する。そして、主を賛美する。私は神のみことばを信頼する。そして、主を賛美する。」(10節)

神を信頼し、神のみことばを信頼する人生は、

「何も恐れません」(11節)

なぜなら、

私にわかっているのは、ただこの一事、神が味方だということだけです。」(9節LB)
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

詩篇 55篇

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(55:22)

この詩は、ダビデが、彼の息子、アブシャロムに反乱を起こされたときに書いたと言われます。

彼の側近であったアヒトフェルが、この時、彼に敵対しました。

ダビデにとって、息子だけでなく、側近の反乱は、精神的にもショックだったと思われます。

しかし、そんな状況の中で彼は立ち止まり言います。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。

神に重荷をおゆだねする時、平安が来ます。

ですから、使徒ペテロも言います。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)

主は言われます。

信じて従う者が足をすべらせたり、倒れたりするのを、主が黙って見ておられるはずがありません。」(LB)

詩篇 54篇

「見よ。神は私を助ける方。主は私のいのちをささえる方。」(54:4)

どんな時でも、どんな状況でも、神が自分を助ける方であることを告白することは大切なことです。

「いのち」と訳された単語は、私たちの存在そのものを意味します。

私たちの存在そのものが神にかかっていることを私たちは意識する必要があります。

詩人は「見よ」と、問題ではなく、私たちを助け、支えてくださる神を見るように訴えます。

神に目を向けることができるのならば、最後には、詩人と共に賛美することができます。

「わたしは今、神を礼拝する準備ができています。とても準備ができています。神様、ありがとう。あなたはとても良いお方です。」(6節MSG)

神に目を向ける時、私たちの嘆きは確信に変わります。

私たちは孤軍奮闘しているわけではありません。

神を見上げるならば、神が私たちと共におられ、私たちを助け、支えてくださっていることを知ることができます。

詩篇 53篇

「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。」(53:1)

聖書は断片的でなく、全体の文脈を通して読む必要があります。

今日の箇所に確かに「神はいない」という言葉が出てきますが、前後関係を見れば分かるように、それは、愚か者が言うことです。

実際、「無神論者」になるには、相当な信仰が必要です。

ゴミの山からロボットが突然生まれてくることを信じられるほどの信仰が必要です。

また、神を否定したからといって、問題が解決するわけではありません。

多くの場合、「神を信じない」という人の神観は、聖書の神観とはまったく異なります。

「あなたが信じない「神」とはどういう「神」ですか」と尋ねたなら、私たちも信じられない「神」を答えることでしょう。

聖書の神は、この天地万物を創造し、統べ治められ、私たちを愛され、私たちを救われる三位一体なる神です。

詩篇 52篇

「勇士よ。なぜおまえは悪を誇りとするのか。神の恵みはいつもある。」(52:1)

私たちはこの世の悪に心を痛めます。

悪が勝ち誇っているのを見ると、真面目に生きることが馬鹿らしく思えてしまいます。

しかし、神の恵み、神の信実の愛(へセド)はいつもあるということに気づく必要があります。

この詩の表題はこのようになっています。

「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と告げたときに」。

ダビデは、サウル王から命を狙われていました。

アヒメレクの所に逃げたことをドエグが密告しました。

ダビデは「安全な場所はどこにもない、誰も信頼することができない」という気持ちになっていたと思います。

しかしダビデは歌います。

私は世々限りなく神の恵み(へセド・信実の愛)に拠り頼む。」(8節)

「今はまだそう思えないかもしれません。

それでもなお「神の信実の愛はいつもある」と信仰宣言をしていくことが大切です。

トンビとカラス

最近カラス数が多くなった気がしませんか?

もしかすると私自身歩く機会が増えたせいでそう感じるだけなのかもしれませんが、、、

先日も電線に数十羽のカラスがびっしり。

無言で同じ方向を見つめている姿はちょっと怖いくらいです。

その視線の先にはトンビが大きな翼を広げ、旋回しています。

縄張り争いをしているようで緊張感が伝わってきます。

教会のちょうど裏手はこれまで完全にカラスの縄張りだったのですがここのところちょくちょくトンビを見かけるようになってきました。

トンビもカラスも同じような生態ですがそれゆえに仲良く一緒に、とはいかないようです。

こんなに広い場所なんだから共存すればいいのに、、、

三月にはトンビの巣作りが始まるようなので、まだまだ熾烈な縄張り争いは続きそうです。
それでもトンビとカラスの争いの方がまだましかもしれません。

相手を殺すまで戦ったりはしませんから。
どうか戦争になりませんように。

主の平和がこの地にもたらされることを切に祈ります。
(小山晶子牧師夫人)

詩篇 51篇

「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。私を、あなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で、私を支えてください。」(51:10-12)

ダビデ王は罪を犯した時、救いの喜びを失いました。

罪は神との関係を壊すからです。

罪のゆえにダビデ王は神の臨在を感じることができなくなりました。

罪は喜びを奪います。

しかし、希望はあります。

もし、自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9LB)

罪を悔い改め、神に立ち返る時、神は救いの喜びを回復してくださいます。

「仕えることを喜ぶ霊」とは、自発的に神に仕える思いです。

神は私たちを喜びで満たし、神の働きに自発的に加わって欲しいと願われています。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 50篇

「神を忘れる者どもよ、さあ、このことをよくわきまえよ。」(50:22)

詩篇50篇は、天地を証人とする主なる神の法廷です。

神は完全に公正な裁判官となって、判決を下されます。天も、神の正しさを証言します。」(6節LB)。

イスラエルの民の問題はいけにえではありません。

わたしが求めているのは、真心からの感謝、わたしへの誓いを果たすことである。苦難のとき、わたしを頼みとしてほしい。そうすれば、わたしは助けの手を差し伸べ、あなたがたはわたしをほめたたえるだろう。」(14,15節LB)

16節から具体的な罪状が挙げられますが、問題の根底にあることは、神が

わたしがおまえと等しい者だとおまえは思っていたのだ。」(21節)

と指摘している点です。

人は神と等しくはありません。

人が神になることはありません。

「神を忘れた」ことが人の罪です。

私を喜ばせる人生とは、恵みに感謝し、常にわたしと共に正しい道を歩むことを選ぶ生き方だ。」(23節TPT)

詩篇 49篇

「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(49:8)

詩人は

どんなに華やかな生涯を送ろうと、人は動物と変わりなく死を迎えるのです。」(20節LB)

と言います。

昔も今も信仰者が直面する悩みは同じです。

神を恐れない人が幸せそうに見えてしまうのです。

死んでしまえば、金の力により頼むことはできなくなります。金を持って死ぬことはできないのですから。」(14節LB)

自らの富や力に信頼して生きることの愚かさを詩人は歌います。

彼らは金に信頼し、財産を誇っています。しかし、王に負けないくらい裕福な彼らも、兄弟の罪を帳消しにすることはできません。罪の赦しは金では買えないのです。たましいはあまりにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。世界中の金をかき集めても、ただ一人分の永遠のいのちも買い与えられません。地獄から救い出すことはできないのです。」(6-9節LB)

だからキリストの十字架が必要です。

詩篇 48篇

「神よ。私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。」(48:9)

私たちは日常の生活の中で、不安や恐れを思い巡らすことはよくあると思います。

しかし、神の恵みを思い巡らすことはなかなかないのではないでしょうか。

「神の宮」とは、神がおられる場所です。

もちろん、現代の文脈では教会を意味すると思います。

ただ、現在のように教会堂に集まることが出来ない状況においては、日々の祈りの場所と理解することもできると思います。

大事なことは神の恵みを数えることです。

宗教改革の指導者の一人カルヴァンは、歩く総合病院のような人だったと言われます。

二五種類ほどの病気をもっていて、体が痛くて夜も眠れなかったそうです。

眠れないので祈るしかなく、祈るとインスピレーションをいただき、深い霊性の本を書くことができたと言います。

苦痛の中にあっても、神の恵みを思い巡らす時、神の恩寵の世界が必ず開かれます。