マルコ 11章

「そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」」(11:17)

「強盗」と訳された単語は、「盗人」というよりも「過激な国粋主義者」に対して使われていた言葉でした。

イスラエルの国は、世界の光として用いられるために選ばれたはずでした。

ところが、誤った選民思想で、世界を啓蒙するどころか、裁いていました。

神殿はあらゆる民のために天と地が重なり合う場所のはずでした。

ところが、イエス様の時代の人たちは、イスラエルの人以外の人を除外する場所となっていたのです。

実際、イエス様が追い出したその売り買いをしていた場所は「異邦人の庭」と呼ばれるユダヤ人以外の人たちのために設けられた礼拝の場所でした。

イエス様は「あらゆるの民」の祈りの家のはずだと既存の神殿を断罪されました。

今、キリスト教会が「あらゆるの民」の祈りの家です。

マルコ 10章

「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」(19:13,14)

子どもたちがイエス・キリストのもとに行くことを妨害し叱った弟子たちに対してイエス様は、「憤った」と言います。

私たちは、一人でも多くの人が、イエス・キリストのもとに行くことが出来るためにこの地に存在しています。

たとえ、それが、わきまえを知らない子どもたちであったとしても、その人たちがイエス様のところに行くことを妨げることは、イエス様が憤られることだと言います。

私たちは自分の思い込みや、自分のモラル、基準ではなく、主がどう思っておられるかということを優先すべきです。

自分の基準で他者を判断すべきではありません。

マルコ 9章

「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。」(9:8)

今の日本の問題は「3ダケ主義」だと言われます。

3ダケ主義とは、「今だけ、金だけ、自分だけ」。

自分の目先の利益と保身しか考えず、周りのことも、将来のことも考えていない姿勢を指します。

ペテロが見えていたのは、「今だけ」でした。

幕屋を建てるという発想も、目先の利益という意味で「金だけ」に相当します。

また、自分のことしか見えなくなっていたのですから、ペテロが「自分だけ」になっていたことは事実です。

神はそんなペテロの3ダケ主義を打ち破りました。

イエス・キリスト以外何も見えなくしたのです。

そうして、やっと、ペテロは周りが見えるようになりました。

CSルイスは言います。

「私がキリスト教を信じるのは、太陽が昇ったのを信じるのと同じです。それを見ることができるからというだけでなく、それによって他のすべてのものを見ることができるからです。」

マルコ 8章

「するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」」(8:29)

「キリスト」は、イエス様の名字ではありません。

また、「神」という意味もありません。

旧約聖書が書かれたヘブル語では、「メシア」と訳される言葉です。

イエス様の時代の人々が、「キリスト」と聞いて連想したのは「イスラエルの真の王」です。

「ダビデ王家の最後の後継者」です。

政治的で危険を伴う表現です。

当時、ガリラヤ領主だったヘロデ・アンティパスが一番脅威に感じていた言葉です。

ですからこの「名称」は公の場所で口にしてはいけない秘密にする必要がありました。

ペテロ自身がどのぐらい理解していたかはよく分かりませんが、この信仰告白を通して、すべてのものがはっきり見えるようになります。

つまり、メシアは「神の全世界的な支配をもたらす者」なのです。

旧約聖書に記されたイスラエルの物語を完成されるお方なのです。

マルコ 7章

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。」(7:18,19)

当時のユダヤ人たちは、食物によって、その身は汚されると考えていました。

なぜなら正典ではないマカバイ記にそう記されていたからです。

ユダヤ人たちが食べ物にこだわったのは、民族的、国粋主義的理由でした。

「私たちはユダヤ人。あなたたちとは違う。あなたたちと同じようには生きない。」

イエス様が「すべての食物をきよいとされた」という意味には、そのような民族主義の壁は、不適切だということを伝えるためでもありました。

問題はすべての人に共通した心の中の問題です。

ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、全ての人は、神に内側を取り扱われる必要があります。

エアコン

キャンプ場に着き、スタッフに部屋の場所を聞くと「ニューヨークの上のゲストルームです」と言われ目の前が真っ暗になりました。

過去数回宿泊した、大きなクモが出る恐怖部屋、、、わかりました、と笑顔で言っては見たもののリラ一同意気消沈という感は否めませんでした。

ちなみに「ニューヨーク」とは女子のお風呂のことですのです。

入浴とニューヨーク、なかなかしゃれたネーミングです、、、でも、くじけてはいられません。

すぐにやってくる本番に備えて部屋に荷物を置きに行くことにしました。

そっと扉を開けると今まではなかったベッドが二つ、ベッドメイキングされた状態で(これまでは受付にシーツを取りに行って自分で寝具の準備をしていました)きれいに整えてあったのです。

歓迎されていることを感じ、とてもうれしく思いました!

見慣れた扇風機が柱に取り付けてあり、ああ、やっぱりね、、、とふと窓側に目を移した瞬間、信じられない光景が!

なんと真新しいエアコンが取り付けてあったのです!!!

思わず「エアコンや!エアコンついてる!!」と叫んでしまいました。

これで猛暑でもやっていける、、、心底安堵した瞬間でした。

みなさん、祈りは聞かれていました。

不信仰な私をどうぞお許しください。

三回の奉仕をメンバー一同元気に行うことができほっとしています。

黙食は想像以上につらかったですけどね、、、。

(小山晶子牧師夫人)

マルコ 6章

「イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」」(6:4)

イエス様の弟たちは、皆、イエス様を信じていませんでした。

しかし、後に、彼らは皆、初代教会において中心的な役割を担う者となっていきます。

私たちは、神がこの時代のこの世界で何を行われているかという大きな視野と、個人個人に働かれている小さな視野の両方が必要です。

イエス様の弟のヤコブも、最初は福音に反対していましたが、神の恵みによって、信仰と祈りの人となりました。

彼こそ、後に、エルサレム教会の牧師となり、新約聖書のヤコブの手紙を書きました。

神は、世界全体にも働かれていますし、私たち一人一人の人生にも働かれているお方です。

私たちは、目に見える現実に縛られずに、信仰の目が必要です。

今日は主の日。共に、神の御子、主イエス・キリストに礼拝を捧げましょう。

マルコ 5章

「中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」」(5:39)

 イエス様の言葉は多くの人にとって場違いと感じたのだと思います。

イエス様の御言葉に対して、

人々はイエスをあざ笑った。」(40節)

と言います。

聖書の御言葉に生きていく人生は、時に人々からあざ笑われる生き方でもあります。

現実は

お嬢さんは亡くなりました。」(35節)

ということでした。

しかし、イエス様は、そんな現実の声を聞き流して言われます。

恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)

私たちはいつも選ぶ必要があります。

神の御言葉を聞くか、それとも、現実とされる言葉を聞くか。

イエス様がそうされたように、現実とされる言葉を聞き流し、信仰の言葉、イエス様の言葉を聞くならば、神の御業を拝します。

マルコ 4章

「また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」」(4:24,25)

たとえ話の主語が誰か明示されていないので、分かりづらく感じます。

これは、神が主語の時に、神の名を書かないという習慣から来ています。

神の名をみだりに唱えてはならないからです。

「その上に増し加え」る方は神です。

「聞いていること」とあるように、ここで「持っている人」とは聞く耳を持っている人です。

持っていない人は、神の御言葉を聞く耳を持っていない人です。

神の御言葉を聞く耳を持っている人は、神はさらに祝福を与えられます。

聞く耳を持っていない人は、その人が持っていると思っていたものさえ、神は取り上げてしまうと言います。

教えやすい心を持つことができますように。

マルコ 3章

「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。」(3:24)

この箇所はアブラハム・リンカーン大統領が南北戦争の時に引用した箇所として有名です。

多様性を尊重しつつも、一致する必要があるということです。

特にキリスト教会が求められていることは一致です。

互いの違いを尊重しつつ、キリスト者は一致することが求められています。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4:2,3)

互いに反目し、分裂するならば、教会は立ち行かず、やがて滅んでしまいます。

それはサタンの策略です。

ですから、アウグスティヌスの言葉と言われますが、

本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって。

という姿勢が大切です。