使徒 13:32-41

「ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。」(13:36)

リック・ウォーレン師の「人生を導く5つの目的」にこのように記されています。

自分という間違った出発点から出発していたのでは人生の目的にたどり着くことはできません。あなたの造り主である神が出発点なのです。(中略)このことが理解できるまで、人生は決して意味を持ちません。

ダビデは、彼の生きたその時代の文脈で神のみこころに仕えました。

神がダビデをその時代に誕生させ、その場所に置かれたのは偶然ではありません。

ダビデは彼が召されたことを成し遂げました。

私たちは皆、それぞれ独特な時代の文脈で神のみこころに仕えるように召されています。

過去の人も未来の人も、この時代に生きて、神の目的に生きることはできません。

それができるのは私たちだけです。

神は私たちをこの時のために造られました。

使徒 13:13-31

「そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください。」(13:16)

16節から41節までパウロの伝道説教が記録されています。

パウロは出エジプトから始めてイスラエルの歴史を語り始めます。

そして、ダビデ王との約束がダビデの子孫として生まれたイエスによって成就したことを説明します。

パウロは、

エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちのことばを理解せず、イエスを罪に定めて、預言を成就させました。」(27節)

と、イエスの十字架が聖書に預言されていた内容であったことを指し示します。

このようにパウロの説教は旧約聖書を土台としたものでした。

パウロのポイントの一つは、

「この救いのことばは、私たちに送られたのです。」(26節)

ということです。

聖書は私たちに送られた神の救いの言葉です。

使徒 13:1-12

「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。」(13:1,2)

アンティオキアには様々な背景、人種の指導者たちがいました。

彼らが主を礼拝していると、聖霊に導かれてバルナバとサウロを宣教師として派遣したとあります。

これが教会の姿です。

教会の第一の優先事項は礼拝です。

神が求めているのは真の礼拝者(ヨハネ4:23)です。

そして、真の礼拝者たちの教会は、聖霊の導きに従い宣教する教会となります。

礼拝なくして宣教はありません。

使徒 12:13-25

「彼が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。」(12:13)

奇跡的に救われたペテロは、彼のために祈っていた「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」(12節)に行きました。

そこにロデという召使がいました。

召使という表現は、現代にはふさわしくありません。

要するに、ロデは喜んで召使の役割をしたということです。

ロデのように仕える人がいたから、初代教会はうまくいきました。

教会はロデのように喜んで神と人に仕える人たちが必要です。

ただ、彼女はあわてものでした。

彼女は

ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。」(14節)

とあります。

著者のルカは「喜びのあまり」そういうことをしたのだから許してあげましょうと記しました。

教会は失敗を責める場所ではなく、「喜びのあまりですから」と、赦しあい、愛し合うところだからです。

使徒 12:1-12

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(12:5)

初代教会のリーダーだったヤコブが殺され、もう一人のリーダー、ペテロが捕まってしまいました。

その時、教会は彼のために熱心な祈りを神に捧げていたと言います。

初代教会は、人に頼ることも、お金に頼ることも、権力に頼ることもできませんでした。

問題は祈るために与えられます。

問題がなければ、祈ることは難しいということがあります。

しかし、問題が起こるたびに祈りに導かれる人は、信仰、人格が整えられ、祈りの器に変えられていきます。

そして、神は祈りを用いられます。

ペテロは奇跡的に第一の衛所、第二の衛所を通り抜け、鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いたと言います。

教会が熱心に祈る時、不可能は可能になります。

鉄の門は開かれます。

使徒 11:19-30

「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(11:26)

アンティオキアはシルクロードの出発点であり、様々な文化が交差する、多文化で、通商が盛んな繁栄した都市でした。

「キリスト者」と訳された単語は、英語ではクリスチャン、原文のギリシア語では「Χριστιανος」、ラテン語から来ている単語ですが、「キリストの家族の一員」という意味があります。

キリストはメシアのギリシア語訳ですので、「メシアの民」「メシア主義者」とも訳すことができます。

キリスト・フリーク、キリスト・マニア、キリスト・おたくとも訳せます。

ローマ人にとっては、奴隷の名前に聞こえ、「奴隷の家の者たち」とからかってつけた名でした。

私たちに問われていることは、「Χριστιανος」と呼んでもらえるような歩みをしているだろうかということです。

キリストの者かどうかも分からない、そんな生き方をしているとしたら、こんなに悲しいことはありません。

KYジーザス

イエスさまはKY(空気が読めない)だと思ったことありませんか?

福音書の様々な場面で「今それを言ったらマズいかも、、、」というイエスさまの発言や態度が頻繁に出てきます。

わたしはそんなイエスさまが嫌いではありません。

わたしも昔から空気を読むのが苦手で散々地雷を踏んできたので、ちょっと親しみさえ感じます。

もっともイエスさまのこの世でのKYは父なる神様の御心をおこなわれているので、単に思ったことをつい口に出してしまうわたしとは全然違うのですが、、、。

言うべきことを言い、やるべき事を行い、弱い立場の人に寄り添うイエスさまの公生涯の記録は、私たちのこの地上での歩み方をよりクリアにするための指針になると思います。

私たちの地上での歩みは思っているより短い。

クリスチャンとして歩む時間は限られています。

鮭が川を上って行くような抵抗を今感じていないとしたら、本当にその歩みが主の御心にかなった歩みであるかどうかを点検してみることが必要かもしれません。

この世の空気を読むことばかり上手にならないように気をつけましょう!

(小山晶子牧師人)

使徒 11:1-18

「ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」(11:17)

異邦人たちがキリスト者になったことを、ユダヤ人クリスチャンたちはよく思わず、ペテロを非難しました。

ペテロは事の次第を順序立てて説明しました。

ペテロは教会に相談したわけではありません。

かといって自分勝手に行動したわけでもありませんでした。

ペテロはただ、聖霊様に従って異邦人に福音を宣べ伝え、洗礼を授けたと主張しました。

ペテロの発言は明白です。

「私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか」(協会共同訳)

私たちは神のなさることを邪魔することがないように、神の働きを非難することがないように気をつけましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 10:34-48

「神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(10:36)

キリストによってもたらされたメッセージ、それは平和(シャローム)の福音です。

メッセージ訳では、こんな訳をしています。

神がイスラエルの子たちに送ったメッセージ-それは、イエス・キリストを通してすべてのものが再び一緒になること-神はそれをすべての人の間で、どこでもなされています。

イエス・キリストは、平和を作り出すために、この地に来られ、私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。

聖書は言います。

キリストこそ、私たちの平和の道です。この方は、私たちユダヤ人とあなたがた外国人とを一つの家族とし、両者を隔てていた壁を打ちこわして、平和をつくり出してくださいました。 ご自分の死によって、互いの激しい敵意を除いてくださったのです。」(エペソ2:14,15LB)

使徒 10:17-33

「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」(10:33)

コルネリウスがイエス・キリストを知るためには、誰かが彼に伝える必要がありました。

あるイエス・キリストを信じた人が宣教師に尋ねました。

「あなたの国の人はずっと前からこの福音を知っていたのに、どうして今まで伝えに来てくれなかったのですか?」

今も、コルネリウスのように神を畏れ敬いつつも、イエス・キリストを知らず、求めている人たちがいます。

聖書は言います。

信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。」(ローマ10:14,15)