1サムエル 11:1-15

「サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」」(11:13)

サウルは十章でサムエルから油注ぎを受けた時にすでに王でしたが、アンモン人の手からヤベシュ・ギルアデの人たちを救うことを通して、王であることを内外に示し、王政が樹立されました。

この時、人々はサウルが王位につくことを反対した人々を処刑するよう願いましたが、サウルは勝利をもたらしてくださったのは主であることを指し示し、寛大に、赦しを宣言しました。

主が勝利をもたらしてくださったと信じているならば、自らの保身よりも、主が喜ばれることを行うことに心を向けるはずです。

残念ながら、サウルはこの後、この真理を手放してしまい、自らの保身に走り、混乱していきます。

1サムエル 10:17-27

「神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。」(10:26)

サウルが王に選ばれたとき、彼は自分が選ばれることを知っていたからだと思われますが、荷物の間に隠れていました。

そんなサウルを軽蔑していた人たちもいました。

しかし、そんなサウルに

「神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。」

と聖書は言います。どんなリーダーも一人では何もできません。

しかし、いつの時代も

「神に心を動かされた勇者たち」

が存在し、彼らがリーダーを支え、歴史を作ってきました。

聖書は言います。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

1サムエル 10:1-16

「それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに着きます。その町に入るとき、琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に、預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会います。」(10:5)

礼拝において音楽と楽器は重要な位置を占めていました。

特に音楽と楽器は預言活動にも伴っていました。

用いられていた楽器も現代風に言うならばギターやドラム、フルートやピアノという感じでしょうか。

そのような意味で祈りの背後で楽器が奏でられるというのも聖書的と言えます。

興味深いことは、サウルはその中で、神の霊が激しくくだるのを体験し、彼自身も預言したということです。

そして、彼は新しい人に変えられたと言います。

今も、聖会や賛美集会などに集うことを通して、聖霊が臨み、変えられることがあります。

1サムエル 9:15-27

「サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」」(9:21)

当時、ベニヤミン族は最も小さい部族でした。

政治的に考えれば、力のある部族から王が選ばれるものだと思います。

ですから、サウルにとってサムエルの言葉は自分には相応しくないと考えたのだと思います。

しかし、神はあえて取るに足りないものを選ばれ、力をあらわされるお方です。

パウロは言います。

「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(1コリント1:26-28)

1サムエル 9:1-14

「あるとき、サウルの父キシュの雌ろば数頭がいなくなったので、キシュは息子サウルに言った。「しもべを一人連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」」(9:3)

サウルは誠実に父の求めに応じてろばを捜しにいきました。

それは、特別な出来事ではなかったようです。

しかし、ろばを発見できずに、帰ろうとしたその場所で、サムエルと遭遇します。

サウルのように神の導きは誠実に日々の働きに従事する中で導かれていくものということだと思います。

ですから、私たちは日々与えられた目の前の働きを、どんな小さなことでも誠実に行うことに勤しみたいと思います。

イエス様は言われました。

「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」(ルカ16:10)

なかなか見つからないのは不思議な主の導きかもしれません。

不平不満を言わず、主に期待して誠実に生きていきましょう。

1サムエル 8:10-22

「サムエルは、自分に王を求めるこの民に対して、主のすべてのことばを話した。」(8:10)

サムエルは民に人間の王を求めることは、神を拒む行為だとはっきり警告します。

「その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない。」(18節)

と、祈っても答えてくださらない関係となることを告げます。

それでも頑なな民は言います。

「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(19,20節)

民は、ある意味、この世の常識に生きていました。

そして、神はそれが何を意味するかを民が体験的に知ることを許されました。

この後、民は人が権力を持つと腐敗するということを痛い思いをして学びます。

神が王であることが最善であることを学びます。

1サムエル 8:1-9

「彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは主に祈った。」(8:6)

民が王を要求した本当の理由は、

「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(5節)

とあるように、神の国の民という独自性を放棄して、他国民と同じになりたかったということでした。

いつの時代も、神のみこころよりも、時代の流れを優先することから問題が起こります。

サムエルはそのことを敏感に感じとって神に祈ります。

本来ならば神が王として治めることがみこころでした。

しかし、神は民の意志を尊重され、王を立てることを許可します。

神のみこころに反していても、人には自由意志があるからです。

ですから、恐れをもって神のみこころを求めることが大切です。

今日は主の日。共に、主のみこころを求め、礼拝を捧げましょう。

1サムエル 7:12-17

「サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。」(7:12)

エベン・エゼルの石、それは、また、

ここまで主が私たちを助けてくださった。

という記念碑的な石です。

人生は短距離走ではないので、時として、振り返ることも大切です。

ここまで主が私たちを助けてくださった。

と思い出す、エベン・エゼルの石をもつことは大事なことです。

使徒パウロもこのように言っています。

神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(Ⅱコリント1:10)

救い出していただいた過去を思い出し、そのゆえに、現在、救い出してくださると確信し、未来も救い出してくださると希望を持つことです。

1サムエル 7:1-11

「箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」(7:2)

サムエルは、神の声を聴いたとはいえ、突然、祭司エリが亡くなり、若くしてイスラエルの指導的立場になりました。

それから二〇年、サムエルはただ一生懸命、自分の役割を果たそうと必死だったのではと思います。

沢村五郎先生は、サムエルが表舞台に登場するまで二〇年間かかった理由を、こう解説しています。

それは民に主を慕う何の渇望もなかったからである。いかに偉大な預言者があっても、渇望のない民に対しては、手の施しようがないのである。

サムエルは、「イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」という状況まで、待つ必要があったと言うのです。

「神様がしてくださらなければ、どうすることもできない」という程の渇望をイスラエルの民がもつまで、待つ必要があったと言うのです。

「神への渇望」を持っているでしょうか。

1サムエル 6:13-21

「レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物の入っている鞍袋を降ろし、その大きな石の上に置いた。その日、ベテ・シェメシュの人たちは全焼のささげ物を献げ、いけにえを主に献げた。」(6:15)

旧約聖書の時代、神の箱を扱うことができるのはレビ人たちに限定されていました。

イスラエルに戻ってきた神の箱に対して、神の律法に従いレビ人たちが対応した事は実はとても重要なことでした。

ところが、みことばを軽んじ、神を畏れない人たちが、神の箱の中を見たために、神に打たれ、死んでしまいました。

喜びが悲しみに代わってしまったのは、神に対して畏敬の念を失ってしまったからです。

祝福を受けた時は、なおさら私たちはへりくだって、神を畏れる必要があります。

自分の考えではなく、神のみことばに立ち返ることが大切です。