服部嘉明(よしあき)先生

献堂記念礼拝が無事終わりようやくちゃんと悲しむ時間を持っています。

東京基督教大学一年時、神学入門の指導をしていただきコイノニアメンバーに加わったことがきっかけで、その後約30年間毎年欠かさずクリスマスカードと誕生日カードを送り続けてきてくださった服部嘉明先生が4月15日に天に召されたのです。

しかも私がそのことを知ったのはひと月近くも経ってから。

とてもショックでした。

小山先生が卒業したノースウエスト大学近くの湖畔に引退後は居を移し、そのこともあってか牧会での行き詰まりを吐露した折には何度もシアトルに来ることを勧めてくださったことでほっと肩の力が抜けたことを今でも思い出します。

落ち着いたらシアトルに行きたいです、といつもお便りで書いていたのに結局地上でお目にかかることはかなわなくなってしまいました。

大学時代、唯一F(落第点)を取った科目(次年度クリアしましたが、、、)が服部先生の神学入門でした。

出来の悪い生徒だった私にも分け隔てなく接してくださった服部先生は信仰者として、人として、これからもずっと私の模範です。  (小山晶子牧師夫人)

詩篇 142篇

「声をあげて、私は主に叫びます。声をあげて、私は主にあわれみを乞います。」(142:1)

詩篇142篇の表題には、「ダビデが洞窟にいたときに」と記されています。

ダビデはサウル王から命を狙われ、洞窟に隠れて生活していた時期があります。

その時、ダビデがとった行動は、主に叫ぶことでした。

「どうか、私を牢獄から連れ出し、あなたへの感謝にあふれさせてください。私が助けられたことを知れば、神を敬う人々は、あなたの力を喜ぶでしょう。」(7節LB)

確かに主はダビデの叫びに耳を傾け、ダビデは助けられ、洞窟から出て、王となります。

私たちの人生にも洞窟のような、牢獄のような中に閉じ込められているように感じる時があると思います。

ダビデがそうしたように主に叫ぶなら、主は必ず助けてくださいます。

共に主に感謝を捧げることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 141篇

「私の祈りが、御前への香として、手を上げる祈りが、夕べのささげ物として、立ち上りますように。」(141:2)

「御前への香」、「夕べのささげ物」は、神殿祭儀が念頭に置かれています。

すなわち、祈りが神殿祭儀と等しい機能を果たすようにという詩です。

確かに、そもそも神が求めていたのは神殿祭儀ではありませんでした。

聖書は言います。

「まことに、私が供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」(51:16,17)

大事なことは、動物のいけにえを捧げることではなく、へりくだって、心から主を慕い求めて祈ることだと言います。

事実、黙示録にはこう記されています。

「香は聖徒たちの祈りであった。」(5:8)

私たちの祈りは香として神の御前へと立ちのぼっています。神は私たちの祈りを用いて御業を行われるお方です。

詩篇 140篇

「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のために、さばきを行われることを。」(140:12)

「暴虐」(1節)と訳された単語は、多くの場合、社会的に力のある者たちが弱者を搾取、抑圧することを含意します。

不当な告発を受けた信仰者が主なる神に「正しい裁き」を祈り求める姿がここにあります。

神はモーセを通してイスラエルの民にこう告げました。

「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。あなたがたにとって難しすぎる事柄は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」(申命記1:17)

このみことばのゆえに詩人は言います。

「しかし主は、踏みにじられている人々を助け、貧しい者の権利を守ってくださいます。」(12節LB)

詩篇 139篇

「あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。」(139:13)

この世界に、偶然生まれて来た人はひとりもいません。

この世界に存在するすべての人は、神が存在することを望まれたがゆえに存在しています。

「生まれる前から、まだ呼吸を始める前から、あなたの目は私に注がれ、私の生涯にわたるご計画も、練り上げられていたのです。」(16節LB)

私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていました。

主のみこころ、そのご計画のゆえに、一人一人は母の胎内で形成されていきました。

目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。

私たちを形作り、私たちの存在を喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。

私たち一人一人目的をもって造られた、大切な存在です。

主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。

詩篇 138篇

「まことに主は高くあられますが低い者を顧みてくださいます。しかし高ぶる者を遠くから見抜かれます。」(138:6)

聖書の神の偉大さは、すべてを超越した高き存在であるのにも関わらず、砕かれ、小さく、貧しくされた「低い者」を顧みてくださるところにあります。

自らの力を誇り、権力を振りかざす「高ぶる者」をしっかり見抜かれるところにあります。

それゆえに、「地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。」(4節)と詩人は言います。

このことを預言者イザヤは次のように言っています。

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」(57:15)

詩篇 137篇

「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。」(137:1)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。

しかし、彼の心はいつもシオンにありました。

シオンはエルサレムにある神殿の丘のことです。

ですから、彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。

エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。

つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。

私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?

個人的にも神は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ18:20参照)

主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。

主日礼拝を、祈祷会を大切にしましょう。

主は臨んでくださいます。

詩篇 136篇

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」(136:1)

「いつくしみ深い」と訳された単語は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という単語です。

私たちが信じている神は「トーヴ」、善い神です。

私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。

この詩篇ではくりかえし「なぜならば、主の信実の愛(へセド)は永遠だから」(私訳)と理由を述べます。

私たちの神は善い神であり、神の信実の愛は永遠です。

聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実(へセド)を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:1)

この「誠実」と訳された単語が、今日の箇所で「恵み」と訳された「へセド」(信実の愛)です。

私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に信実の愛を尽くし続けるお方です。

このお方に感謝を捧げましょう!

いよいよ、きょう!

きょうはペンテコステ。

歴史的な教会の誕生日に開拓40周年献堂20周年を迎えることができることは神様の不思議な導きであると思います。

ほぼ開拓に近い状態で、しかも結婚直後に主任牧師家族が帰国してしまうという状況は22歳の私にとって正直まったく予想もしていなかったことでした。

すでに教会運営の基盤ができていた母教会では経験したことがないことばかり。

ですから最初からわたし自身が小山牧師に協力的だったかと言えば決してそうではありませんでした。

今考えるとまるでヨブの妻のようなセリフを吐いたこともあります。

でもどんなときでも誠実に主と人々に仕える夫を傍らで見続ける中で、私の心も次第に変えられていきました。

だからこの教会に小山牧師が立てられていることを心から感謝します。

妻としては『今日までお疲れさまでした』と言ってあげたいです。

地上での働きがあとどれくらい私たちに任されているかは分かりませんが、皆さまと共にキリストの体をこれからも建てあげていきたいと願います。

きょうまでありがとうございました。

これからもどうぞよろしくお願いします。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 135篇

「主は、地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される。」(135:7)

聖書の神は大いなるお方、その望むところをことごとく行われるお方。

大自然を創造し、保持される偉大なお方。私たちは、自分のイメージで自分の神を作ってしまっていないでしょうか。

人間が作る神は、「口があってもしゃべれず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、呼吸もしていない」(15-17節LB)神です。

有限な人間が作った神は、有限な人間が考えられる範囲内でしか存在しません。

まことの神、聖書の神は私たちを造られた創造主です。

無から有を生じさせる神です。

たとえ今、暗闇しか見えなくても、「光あれ!」と光を灯すことができる神です。

道が見えなくても、道を造ってくださる神です。

今日は開拓四〇、献堂二〇周年記念礼拝。

今日まで守り導いてくださった偉大なる主の真実に感謝を捧げましょう!

今日はまたペンテコステ。

共に聖霊を求めましょう。