マタイ11章

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28節)

イエス様は私たちを招いています。イエス様は言われます。

「わたしのもとに来なさい。」

私たちはイエス様のもとに行き、イエス様と時間を過ごす必要があります。

「そうすれば、あなたは人生(いのち)を回復します。」(MSG)

イエス様のもとに行くためには、私たちは静まる必要があります。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46:10)

やらなければいけないこと、不安に思っていること、ひとまずすべてを手放して、心を静めて聖書を読み、祈る。その時、聖霊が臨まれ私たちに回復を与えてくださいます。

マタイ10章

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」(29節)

一アサリオンは当時の労働者の日給の十六分の一に相当します。二羽が意味していることは一羽では値がつかないということです。この世で値がつかない、価値がないとみなされる雀の一羽でも父なる神は気にかけておられると言うことです。残念ながらこの世界は私たちを無価値のように扱うことがあります。私たちが自分の価値をこの世界の価値観に置くならば、平安を得ることは出来ません。私たちは自分の価値を神の国の世界観に置く必要があります。神は言われます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

世界がどんな値をつけようとしても、あなたは神の目には高価で尊い存在です。

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マタイ9章

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」」(12,13節)

イエス様は当時罪人としてはじかれていた人たちと、あえて食事をされました。当時の宗教指導者たちにとって、誰と食事をするかは重要なことでした。なぜなら、穢れた人と共に食事をしたら、自分も穢れると考えていたからです。彼らはいつも自分が正しかったのです。しかしイエス様は、神の愛が必要な人ならだれにでも近づいていき、一緒に食事をしました。食事は、神の国の現れを意味していたからです。神の国は、憐れみ深くなることを通して現されます。自分の物差しで他者を裁き、自分がいつも正しい人は、その食卓に着こうともしません。罪人が罪人のままであって良いという意味ではなく、信仰を前提としています。

※ 明日のSSCの主日礼拝は緊急事態宣言の発出に伴い、10:25からのYouTubeの配信のみで行います。
https://www.youtube.com/channel/UClFWI5CeW9GSoyFA6kK6hhg

マタイ8章

「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8節)

権威者の発言には力があります。一国の首相の発言は、国全体に影響を与えます。百人隊長は自分の部隊を訓練し、戦場へ引率しました。彼らはとても面倒見が良かったらしく、兵士や退役軍人の墓には所属していた百人隊長の名が刻まれています。そんな百人隊長だからこそ、しもべのことを気にかけ、イエス様の発言に、それほどの権威を認めることができたのだと思います。聖書は言います。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10,11)

聖書を読むとき、それほどの権威を認めているでしょうか。主なる神は気にかけておられます。

マタイ 7章

「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」(17節)

文脈でも明らかなように、この発言の背後には偽預言者の問題があります。

「彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。」(15節)

ですからメッセージ訳ではこう訳しています。

「カリスマ性に感銘を受けてはいけない。品性(キャラクター)を捜し求めてください。」

もちろん、品性は木のように一夜にして身につけられるものではありません。使徒パウロも言います。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」(ローマ5:3,4)

日々の歩みの中でどのように生きていくかが私たちの品性を生み出していきます。「偽預言者」に騙されないように、日々主の御言葉に耳を傾けていきましょう。

マタイ6章

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(34節)

メッセージ訳ではこのように訳しています。

あなたの注目の全てを神が今なされていることに向けなさい。そして、明日、起こるか起こらないか分からないことに取り乱してはいけません。神はどんな大変なことでも、それがやってきた時、あなたが取り組むことができるように助けられます。

私たちには理解できないことがたくさんあります。神が何をなされているか理解できないことがあります。時には神の不在さえ感じてしまいます。しかし、神は今も御座に座し、御業を行われています。神は良い神であり、そのなさることは全て良いことです。(詩篇119:68参照)私たちに求められていることは、神を信頼することです。

マタイ5章

「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(48節)

「完全」と訳された単語は「ゴール」とも訳される単語です。ですから、キリストにある「ゴールの民」としてのアイデンティティに焦点があります。メッセージ訳ではこのように訳しています。

「一言で言えば、『成長しなさい』と言うことです。あなたは御国の民です。そのように生きなさい。神が創造されたアイデンティティを生き抜いてください。神があなたに対して生きているように、他者に対して寛大で、恵み深く生きなさい。」

もちろん、キリストを信じたら完全無欠な人間になるということではありません。逆に自分が欠けだらけの人間であることに気がつきます。そして、互いにその欠けを補い合うこと、愛し合うことの大切さを学びます。自分の弱さを認め、他者に対して寛大で、恵み深く生きること、互いに愛し合うこと、これが御国の民のあるべき姿です。

マタイ4章

「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(23節)

キリスト教会は、かしらであるイエス様のこの地上での働きを継続することがその主な役割です。イエス様のこの地上での働きは主に三つありました。

第一番目は聖書を教えること。会堂は聖書の御言葉を朗読し、教えるために存在していました。教会は聖書を教える働きがあります。

第二番目は、御国の福音を宣べ伝えること。「御国の福音」とは「神の統治」を宣言することです。それは、キリストの十字架によって成し遂げられました。教会は十字架の福音を語る働きがあります。

第三番目は、病気の癒しを行うこと。神は言われます。「わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」(出エジプト15:26)神が癒やされます。教会は神の癒しを信じ、祈る働きがあります。

マタイ3章

「そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。」(1,2節)

「悔い改め」とは単に悔いることではありません。「考え方を変える」という意味があります。自分中心の思考から神中心の思考に変えることを意味します。ですからメッセージ訳ではこう訳しています。

「あなたの生き方を変えなさい。神の御国はここにあるから。」

「天の御国」は「神の統治」を意味します。「荒野で叫ぶ者の声」(3節)はイザヤ書40:3からの引用で、その叫ぶ内容は6節以下に出てきます。特に9,10節が中心です。

「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。

『見よ、あなたがたの神を。』

見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。」

天地万物を造られた主なる神を見上げ、その統治を受け入れること、これが、主の道を用意することです。今日は、今年最初の主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マタイ 2章

「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」(23節)

ヨセフとマリヤはそもそもローマ皇帝の勅令でベツレヘムに行かなければなりませんでした。そこで、イエス様は生まれました。そして、それは預言の成就でした。ヨセフとマリヤはヘロデの手から逃れるためにエジプトヘ行きました。当時、アレキサンドリアには大勢のユダヤ人が住んでいたことが知られています。大事なポイントは、それも預言の成就だったということです。その後、ユダヤは危険なのでナザレという小さな町に住みました。それもまた、預言の成就でした。私たちは生きている限り理解できないことがいろいろと起こります。しかし、神は「しまった!」と言うことのないお方です。すべては神の御手の中にあり、私たちはやがてパズルのピースがはまり、神のご計画の素晴らしさを賛美するようになります。