箴言 14:25-35

「力ある拠り所は主を恐れることにあり、それは主の子らの避け所となる」。(14:26)

メッセージ訳では、

「神を恐れることが信頼を築き上げ、あなたの子どもたちのために世界を平和とする」

と訳しています。この世界が必要としていることは健全な神への恐れです。神への恐れの欠如がこの世を不安定にし、混乱をもたらします。自分を創られた神が生きておられ、やがて、神の御前に立つ時が来ることを知っているならば、人は自分の行動に責任を持つようになります。27節にはこう記されています。

「主を恐れることはいのちの泉です。その水を飲めば生きる力がわいてきます。」(LB)

神に対する健全な恐れが、私たちに力を与えます。神を恐れることは、いわゆる恐怖を抱くこととは違います。なぜなら、聖書の神は愛なる神であり、私たちを愛し、私たちの罪のために御子イエス・キリストを与えてくださいました。私たちが求められているのはこの神を愛することです。

詩篇 73:1-14

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」(73:1)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語のGOODにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。詩人が語る土台的真理は「神は良いお方」。私たちの人生には、理解できないことがたくさんあります。この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱し、いっぱいいっぱいになってしまったとしても、この土台的真理‐「神は良いお方」‐を心に留める必要があります。しかし、苦しみの中で、私たちはまったく逆に考えてしまいます。「もし、神様が力あるお方ならば、どうして、こんなことが私に起るのか?」と。詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。「やがて私の体は衰え、気力も弱ります。しかし神は、いつまでも変わらず、心の支えとなってくださいます。」(26節LB)神が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

詩篇 72:1-20

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」(72:11)

すべての王がひれ伏し、仕えると預言された王こそ、メシヤ、キリストです。聖書は言います。

「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:10,11)

ですから、この「彼」こそ、イエス様のことです。

「彼は、身寄りのない者や貧しい者を保護します。弱っている者や困っている者をあわれんで、助けの手を差し伸べるのです。彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできません。彼にとって、このような者たちのいのちはとても大切なのです。」(12‐14節LB)

まさに、福音書に出てくるイエス様の姿がここにあります。イエス・キリストこそ旧約が預言してきた王、メシヤです。

詩篇 71:19-24

「私もまた琴であなたをほめたたえます。わが神よあなたの真実を。私は竪琴に合わせてあなたにほめ歌を歌います。イスラエルの聖なる方よ。」(71:22)

賛美のテーマ、私たちが歌う賛美の主題は、「神の真実」です。「真実」と訳された単語は「アーメン」と同じ単語です。詩人は、神の真実をこのように歌っています。

「あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが私を再び生き返らせ地の深みから再び引き上げてくださいます。」(20節)

神は決して私たちを見捨てることも、見放すこともありません。私たちを引き上げてくださる真実なお方です。詩人は、楽器を奏でて神の真実を歌い、告げ知らせると言います。

「ああ、イスラエルの聖なる神よ。私は楽器を奏でてほめ歌を歌い、あなたがどれほど約束に忠実なお方であるかを、告げ知らせます。」(LB)

箴言 14:15-24

「知恵のある者は慎重で、悪を避けるが、愚かな者は怒りやすく、自信が強い。」(14:16)

悪は気をつけて避けるものだと聖書は言います。自分を過信することから多くの失敗が生じます。LBではこのように訳しています。

「賢い人は用心深く危険を避け、愚か者は自信満々につき進みます。」

イエス様は

「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」(マタイ10:16)

と言われましたが、浅はかにならず、賢く生きることが聖書的な生き方です。聖書は言います。

「わきまえのない人は言われたことを鵜呑みにし、慎重な人は将来をよく考えて行動します。」(15節LB)

考えることは悪いことではありません。信仰的になることと、思考停止は同義語ではありません。自分の歩みを見極めつつ、主に信頼し、信仰の世界を歩むことができますように。

詩篇 71:9-18

「神である主よ私はあなたの力とともに行きます。あなたのただあなたの義だけを心に留めて。」(71:16)

「神である主」と訳された言葉は「ヤハウェである主」、神の名前が用いられています。この節の全体を直訳しますと、こんな感じになります。

「ヤハウェである主の力の中に私は入っていき、あなたの義を私は覚える。ただあなたのだけ。」

詩人は、神の偉大な御業を覚えて、ただ、神の義のゆえに、祈りの中に入って行きました。私たちが受け入れられるのはイエス・キリストの中にある神の義だけです。ですから、イエス・キリストだけを見上げなければ、祈りの中に入ることは困難です。また、神の力ある御業を覚えることが、私たちを祈りの中に導きます。神の力ある御業を語ることも大切です。

「何度、あなたが危ないところを助けてくださったか、数えきれないくらいです。会う人ごとに、あなたの恵み深さと、日々途切れることのない思いやりとを告げましょう。」(15節LB)

教会の変化について

先週から、約二か月ぶりに通常の教会活動が再開しました。本日も第一礼拝から第三礼拝まで行っていますし、ビブリオンや祈祷会などもオープンしています。ただ、飛沫感染を防ぐためマスクの着用をお願いしていますし、賛美の間は窓やドアも開放した状態になっています。会衆との距離を確保するため賛美リーダーは講壇でリードすることとなりました。椅子の並びもジグザグで今までとの違いに戸惑うこともあるかと思いますが、お互いのためにご協力をどうぞよろしくお願いします。花壇の花も植え替えられ、昨年の台風で壊れたラティスも修繕が終わりきれいになっています。自粛期間にぶどうの木の下にズッキーニと唐辛子とミニトマトも植えました。成長を見守ることがわたしの日々の日課となっています。教会の建物の存在に感謝するとともに、やはり教会とはキリスト者の集まりあってのものだということを強く思い知らされる日々でもありました。お一人お一人の存在に心から感謝しつつ、今日も共に、心ひとつに礼拝を捧げていきましょう。   (小山晶子牧師婦人)

詩篇 71:1-8

「私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです。」(71:7)

イエス・キリストを信じて生きていくことは奇跡と思われる人生を歩んでいくことでもあります。LBではこう訳しています。

「あなたの強力な守りのおかげで、私は人々が目をみはるほどの成功を収めたのです。」

自分の能力以上の成功を神は与えてくださいます。イエス様もこう言われました。

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:13)

「わたしの名によって」というのは呪文の言葉という意味ではありません。イエス様との関係の中で求めるということです。つまり、奇跡も成功も、神の栄光のため与えられるものであるということです。恥はわがもの、栄光は主のもの。主を信頼していくことができますように。今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 70:1-5

「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」(70:4)

「神を慕い求める」のは、聖霊がその人の内におられる証拠です。使徒パウロもこう言っています。

「ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(ピリピ3:12口語訳)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、クリスチャンというのは、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神ご自身が願っていることです。

「あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。」(新改訳二〇一七)

神を慕い求める人は、神の偉大さを体験します。神がどれほど大いなるお方かを体験します。

箴言 14:5-14

「愚か者は罪の償いを嘲る。心の直ぐな人たちの間には恩寵がある。」(14:9)

「罪の償いを嘲る」、すなわち、キリストの十字架の御業を嘲る人生は死となる道です。聖書は警告します。

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。笑うときにも心は痛み、その終わりには、喜びが悲しみとなる。」(12,13節)

LBでは今日の箇所をこのように訳しています。

「神の教えに背く者たちは過ちを犯し、神を恐れる者たちは人を思いやります。」

神のみことばを軽んじる人生は死への道です。「神を恐れる者たちは人を思いやります」とあるように、信仰は行いを伴います。メッセージ訳ではこう訳しています。「道徳的な生活は、恵まれている生活です。」