箴言 9:13-18

「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。」(9:16)

9章には、

「浅はかな者はみな、ここに来なさい」

という招きが二回出てきます。

一つ目は、4節で、知恵が招きます。もう一つは、今日の箇所で、「愚かな女」(13節)が招きます。つまり、知恵と愚かさは、日々、私たちを招き、私たちは日々選択が迫られているということです。しかも、その私たちの選択がいのちか死へと私たちを導くと言います。

知恵は言います。

「浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい」(6節)。

それに対し、愚かさは言います。

「盗んだ水は甘く、こっそり食べるパンはうまい」(17節)。

結局のところ、その生き方の違いは主を恐れるかどうかということです。ですから、聖書は言います。

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」(10節)

詩篇 45:1-9

「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」(45:6,7)

今日の箇所はヘブル人への手紙の中で引用されています。

「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」」(1:8,9)

ヘブル人への手紙の著者のポイントは、子なる神、イエス・キリストの神性です。「神よ。あなたの神は」というのは面白い表現ですが、イエス・キリスも、「神」と言うことです。また、他の存在と区別するように、より多くの喜びの油が注がれたとあります。聖書の神は、三位一体なる神であり、その王座は永遠です。

ふつうじゃない日々④ 

次男の大学生活は春学期がオンライン授業という形で開始することになりました。このまま夏休みに突入する可能性もある、ということでまさに「想像していたのと全く違う形」でのスタートにもう、なんというか、身を任せるしかありません。今までとは違う、普通じゃない日々がまだしばらく続きそうですね。でも、我が家の猫たちにとっては全く変わらない日々が続いています。新型コロナに振り回されることなく食べて、寝て、寝て、食べての穏やかな毎日。猫たちにとっては私といる日々が幸せなようです。
きょうはイースター礼拝。40年以上の私の教会生活の中で、オンラインのみでのイースター礼拝なんて考えたこともありませんでした。みなさんに卵をお渡しすることも出来ませんし、食事会も出来ません。けれどもイエス様は人類が最も暗闇に満ちたその瞬間、死を打ち破りよみがえられたことを思う時に、今この暗闇に覆われているように感じるこの瞬間こそ、主は必ず素晴らしい勝利をそなえてくださっていることを確信することができるのです。 (小山晶子牧師婦人)

詩篇 44:13-26

「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。」(44:22)

使徒パウロは、迫害の中にある教会の現実を表現するために新約で引用します。

「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」(ローマ8:36)

この世の権力者たちの前に、「ほふられる羊」のようになすがままの状態のようであるかもしれないと。しかし、詩人とパウロとの間には大きな違いがあります。詩人は、その苦しみの意味を理解することができず嘆きを歌にしています。しかし、パウロは言います。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37節)

イエス・キリストは十字架によって勝利をとられました。私たちはキリストの中で、本物の勝利を体験します。今日はイースター。主は確かによみがえられました!

※ 今日はイースター、イエス・キリストの復活をお祝いする日です。YouTubeのライブ配信を通して、共にキリストの復活をお祝いしましょう。

詩篇 44:1-12

「自分の剣によって、彼らは地を得たのではなく、自分の腕が、彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの御腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(44:3)

詩人は先祖たちが語る神の御業を耳にし、神の御手が彼らを救ったことを悟ります。もちろん、旧約聖書を読むならば、先祖たちが剣をもって戦った事実は変わりません。しかし、究極的な勝利は、あくまでも神の御手にあることを詩人は確信します。それで、詩人は祈り、告白します。

「私の王、私の神よ。あなたの民に勝利をもたらしてください。その力と御名の威光によらなければ、敵を踏みにじることはできません。」(4,5節LB)

もちろん、神に導かれて、私たちは為すべき分があります。しかし、究極的には、神が勝利をもたらしてくださいます。私たちはそのことを意識し、すべての栄光を主にお帰しする姿勢が大事です。

※ 明日は、イースター(復活祭)、イエス・キリストの復活をお祝いします。

箴言 9:1-12

「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」(9:8)

LBで7節と8節をこう訳しています。

「人をさげすむような者に忠告を与えても、辛辣なことばで言い返されるだけです。その人のことを思ってしてあげても、恨まれるだけなので、もうかかわらないほうがよいのです。知恵のある人は違います。忠告すると、前以上にあなたを愛してくれます。」

親切心で注意したことが、反感を買ってしまったという経験を誰もがもっていると思います。聖書が教える霊的な原則は、聞く耳のある人には教えることに意味がありますが、そうでない人にはしないほうがいいということです。それはまた、「教えやすい心」(Teachable heart)を持つことの大切さを聖書は教えています。自分以外は皆師であると、学ぶ心がある人こそ、知恵のある人です。

詩篇 43:1-5

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(43:5)

現代社会は私たちを様々なプレッシャーの下に置きます。私たちは経済的に、人間関係に、仕事にもがいています。そして、未来に不安を感じています。プレッシャーをうまく処理できないと、私たちは不安と憂鬱の中に落ちてしまいます。このような状況から脱出する道が見えないとき、私たちの絶望感は大きくなります。ダビデは、そのような絶望感の中で、唯一の解決策を思い起こします。

「神を待ち望め。」

私たちは問題の解決を、自分自身や、他者に求めても、見つけることはできません。私たちはただ、神の中に希望を見いだすことができます。問題ではなく、神に自分の思いを向ける必要があります。神はあなたを愛し、あなたの人生の周りの状況を支配していることを思いだす必要があります。

詩篇 42:6-11

「昼には、主が恵みを下さり、夜には、主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。」(42:8)

詩篇42篇は神と他者に失望した人の歌です。詩人は歌います。

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(11節)

詩人は絶望の中で、それでもなお神をほめたたえることを選びます。人生の中で、私たちが制することができない出来事に遭遇する時、私たちは神に助けを求めます。そして信仰者は神の力を発見します。

「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。」(7節)

たとえ悲しみの洪水が襲ってきても、神は

「日ごとに変わらない愛を注いでくださいます。私は夜通し賛美の歌を歌い、いのちを授けてくださった神に祈りをささげます。」(8節LB)

詩篇 42:1‐6

「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(42:2)

私たちの心が求めているのは、生ける神です。生ける神との関係によってでしか満たされない渇きが、すべての人の内にあります。ですから詩人は歌います。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(1節)

詩人が伝えたいのは、新鮮な水でなければ満足できないということです。昔の体験、誰かの体験で満足することはできません。私たちは今、自分自身で神との時間をもつ必要があります。イエス・キリストは過去の偉人というだけではありません。今、生きておられ、私たちは今、御前に出て行くことができます。イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14)

箴言 8:32-36

「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」(8:34)

日々のデボーション(QT)の重要性を語っている箇所です。日々、見張り、見守るように、聖書のみことばに耳を傾ける人は幸いな人だと聖書は言います。なぜならば、このようにして人はいのちを見出し、主から恵みをいただくからです。これはまさに、いのちと死に関わる重要な事柄です。イエス・キリストを信じると口で告白していても、日々、聖書のみことばを読まなくなると、死んでしまいます。キリスト者と言いながら、力がないのはそういうことです。LBでは36節をこのように訳しています。

「しかしわたしを見失う人は、自分をだめにする。わたしの忠告を退ける人は死を愛しているのだ。」

神のみことばを愛し、神のみことばに生きていくことができますように。