イザヤ書 5:8-8:10

「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(6:8)

聖書のみことば、特に今日の箇所は今から約2500年前、神がイザヤに語られ、記録されたものです。しかし、永遠である神の御言葉は、今の時もなお私たちに直接語りかけています。だからこそ、この一つの御言葉に応答したたくさんの人々がこの御言葉をしっかりと握り、福音を携えて様々な場所に遣わされて行きました。私たちの祈りは

「ここに、私がおります。」

から始まります。神はあまねく全地を見渡して、神のために生きていく人を探しています。神への応答は、若すぎることも、年をとりすぎていることもありません。過去がどうであれ、自分の能力がどうであれ、神の求めに応じる準備ができているかどうかが問われます。

イザヤ書 3:1-5:7

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(3:1)

私たちは、とにかくいろいろなものに依存しようとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。死者を復活させることさえできるお方なのですから。」(Ⅱコリント1:9LB)

イザヤ書 1:1-2:22

「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。」(1:19,20)

当時のイスラエルの問題は、心を頑なにして神を拒んでいたことでした。そんなイスラエルに神は言います。

「喜んでわたしの助けを求め、わたしに従いさえすれば、あなたがたを富む者にしよう。」(LB)

神を求め従うか、神を拒絶するか、そこに人生の分かれ道があります。人類の歴史はアダムとエバに始まって、神に反抗する滅びの道でした。しかし、今、イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順のゆえに、信じる者は聖霊によって神を求め従う、いのちの道に生きることができます。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

ミカ書5:1-7:20

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(6:8)

何が良いことで何を神が求めておられるか。

1.公義を行うこと。

神は義なる神ですから、私たちが不正をすることを望まれません。

2.誠実を愛すること。

「誠実」は英語で「信仰が満たされる」(faith-ful)と書きます。「信仰に生きること」と「誠実に生きる」ことはコインの裏表です。

3.へりくだって神と共に歩むこと。

もっとも、神の方がへりくだり、人となり、私たちと共に歩んでくださいました。神の御子、キリストの十字架のゆえに、キリストを信じる者は、生ける神と共に人生を歩むことができます。自分の力で何でもできると傲慢にならず、へりくだって神と共に歩むことができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!