イザヤ書 3:1-5:7

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(3:1)

私たちは、とにかくいろいろなものに依存しようとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。死者を復活させることさえできるお方なのですから。」(Ⅱコリント1:9LB)

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