伝道者 9:13-12:14

「もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。」(10:10)

新共同訳はこう訳しています。

「なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。」

無知のゆえに不要な遠回りすることがあります。日頃の学びが人生の助けになります。LBはこう訳しています。

「斧の切れ味が悪くなると、余計な力がいる。そんなときには刃をとぐことだ。」

斧の刃をとぐ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。同じように、学ぶ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。学べば学ぶほど、知らないことに気づき、私たちの生き方にも変化をもたらします。我以外皆師という言葉がありますが、謙遜に誰からも学ぶ姿勢を持つことができますように。

伝道者 7:1-9:12

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。」(7:21,22)

LBではこう訳しています。

「人の言うことをすべて気にしてはいけません。時として使用人からのろわれるかもしれません。あなたも、何度も人をのろったはずです。」

自分も何気ない言葉で人を傷つけていることがあります。ですから、何気ない言葉で傷つけられないように、聞き流すことも大切なことです。聞き流すというのは、イエス様がこの地上でなされた行動の一つでもありました。聖書にこういう箇所があります。

「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた」(マルコ5:36口語訳)

私たちも、誰かのことばにいちいち傷つかずに、聞き流すことを学ぶ必要があります。

「だから、正しすぎたり、知恵がありすぎたりして、自滅してはいけません。」(16節LB)

伝道者 4:1-6:12

「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」(6:7)

人はかすみを食べて生きてはいけないので、日々の糧を得るためにも働く必要があります。しかし、どんなに食欲を満たしても、しばらくすればお腹は空き、そのサイクルに終わりはありません。サマリヤの女にイエス様はこんなことを言われました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」(ヨハネ4:13)

伝道者の書のキーワードは「日の下」であり、この世のことに焦点が置かれています。この世のものは、食欲だけでなく、どんな欲も、決して私たちを満たすことはありません。一時的に満足するかもしれませんが、すぐにまた渇きます。私たちは、そのことを常に意識する必要があります。どんなものを買っても、どんなゴールを達成しても、決して満たされることはありません。イエス・キリストとの関係だけが私たちを満たします。

父の年齢

終戦直後の昭和20年9月に旧満州で生まれた父は今年74歳になります。原爆の日のニュースを聞きながら、74年という時間に思いを馳せました。私が幼いころ、中国残留孤児のニュースに、父は「他人ごとではない、自分がそうなっていてもおかしくなかった」とよく言っていたことなど思い出し、母の叔母たちが長崎の原爆で亡くなったことなどもあって毎年8月は戦争と平和についていつも以上に考えることが多いです。先日訪れた会津若松のコンサート会場の敷地内に『シベリア抑留者慰霊碑』があり、不思議に思って地元の人に尋ねたところ、この地域からも大勢が村単位で満州にわたり、敗戦後シベリアに抑留されていたとのことでした。世界がどんどん平和から遠ざかっているような現在の情勢に、キリスト者としてどう歩むべきかを問われているように感じています。この時代に生かされているキリスト者の存在は、希望の光であり腐敗を止める塩でもあります。イエス様に倣うものとなれますようにと祈らされる日々です。
(小山晶子牧師人)

伝道者 1:1-3:22

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(3:11)

1節から8節まで、相反する「時」が繰り返されているように見えます。

「壊す時、やり直す時、泣く時、笑う時、悲しむ時、踊る時」(3,4節LB)

しかし、

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」

とあるように、ここでは二つの時を対立させているわけではなく、「神の時」の中で人生の現実がつながっていることに気づかせます。人は神の働きの全体を見ることはできません。泣く時も、笑う時も、実は、神の臨在はそこにあるということです。人生の様々な時、神はそこにおられ、すべてのことを美しくしてくださると。私たちが人生の中で体験する喜びも悲しみも、神の恵みの中では意味があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2歴代誌 1:1-17

「その夜、神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」(1:7)

聖書の神は私たちに

「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう」(協会共同訳)

とおっしゃられるお方です。しかし、アラジンのジーニーとは違います。私たちのしもべとなって願いをかなえてくれる都合のいい存在ではありません。神は神であり、私たちの願いをきかなければいけないことはありません。しかし、神は「願え」とおっしゃってくださるお方、祈りに答えてくださるお方です。実際神様は、ソロモンの祈り以上に答えられました。

「あなたが富をも、財宝をも(中略)求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」(11,12節)

1歴代誌 28:1-29:30

「そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。」(29:3)

ダビデは

「全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした」(2節)

だけでなく、喜びのあまりそれに加えて捧げたとあります。神に捧げることは喜びです。私たちは受けるためにではなく、捧げるために生きています。29節にこう書いてあります。

「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。」

捧げることが喜びという世界は、みずから進んで捧げたことがなければ分かりません。ですから使徒パウロもこう言っています。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)

1歴代誌 26:20-27:34

「ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」(27:23)

当時の人口調査の理由は、兵士の数を数えるためです。ですから神が人口調査を禁じた理由は、イスラエルの人々がマン・パワーに依存して、神に頼らなくなることを危惧したからです。残念ながら、人は計算できる範囲内に生きていると、祈りがなおざりになっていく傾向があります。計算できますから、祈っても祈らなくても同じに見えてしまうのです。しかし、自分の頭で計算できない時、私たちは必死で祈ります。祈ることしかできないからです。いつも自分の計算できる範囲内に自分を置くならば、安定はするかもしれませんが、祈りがなおざりになって、霊的な部分が弱くなっていきます。教会も計算できる範囲内で活動するようになると衰退します。計算できない信仰の冒険の世界に挑戦する姿勢も大事です。

1歴代誌 24:1-26:19

「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。」(25:1)

賛美しながら預言するということが、ダビデの時代に行われていたことは明らかです。それはつまり、賛美の中で神が語られるということを意味しています。立琴と十弦の琴とシンバル(ドラム?)とありますから、騒がしい音楽の中で神が語られたことが分かります。賛美の歌には二つの種類があります。神に直接歌う「垂直」の賛美と、預言的な神の言葉を人々に語る「水平」の賛美です。昔からこの両面が大切にされてきたことを心に留めることは大事なことだと思います。賛美を歌う時、神に直接歌うのですが、賛美の歌を通して神が語られることがあります。ですから礼拝の中で賛美の時間と言うのは大事な時間なのです。

1歴代誌 22:2-23:32

「見なさい。私は困難な中にも主の家のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した。また、青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。それに、木材と石材も用意した。あなたが、これらにもっと加えてほしい。」(22:14)

ダビデは何の痛みもなく神殿建築のための資金を用意したわけではありません。

「困難な中にも」

と言います。マケドニヤにあるピリピの教会も、

「困難な中にも」

主のために捧げた教会です。パウロは言います。

「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(Ⅱコリント8:2)

そんなピリピの教会に、神は一つの約束を与えられました。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

「困難な中にも」主に捧げる人に、主は必ず報いてくださいます。