申命記 19:1-20:20

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(19:15)

私たちはどんなことでも、一人の人の意見で判断してはいけないと聖書は言います。たとえその人が、「みんなそう言っている」と言ったとしても、私たちは一人の人の意見で決断をしてはいけないと注意されています。箴言にもこういう箇所があります。

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」

LBではこう訳しています。

「だれの話でも、他の人が裏を明かして、全貌がわかるまではもっともらしく思えます。」(18:17)

ですから、私たちはひとりの証人によって結論を出さないように気をつける必要があります。

申命記 16:21-18:22

「自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」(17:19)

当時イスラエルの国に王はいませんでした。しかし、周囲の国々にならって王を立てるようになることを神はご存知で、14節以下で王の資格を与えます。王は主の選ぶ者としなければなりません。馬を増やさない、つまり、神以外のものに依存するような人ではならない。多くの妻や、財産を増やしてはならない。ソロモン王はこのすべてを破りました。さらにもう一つ、王の資格がありました。それは、聖書を自分の手もとにおき、一生の間、読み続けることでした。ソロモン王が読んでいたかは分かりませんが、晩年、伝道者の書にこう記しました。

「聞き取ったすべての言葉の結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべてである。」

聖書を手離さなければ主に立ち帰ることができます。

申命記 15:1-16:20

「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」」(15:1)

残念ながら貧困の問題は今もなくなりません。富の分配はそんなに容易に解決できる問題ではありません。ですから聖書は言います。

「その人がどうしようもなくなり、主に訴えたら、言い逃れはできません。悪いのは明らかにあなたです。」(9節LB)

私たちは金銭に縛られないように気をつける必要があります。なぜなら、

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:10)

もちろん、依存的な場合は境界線を引くことも大切です。ただ、

「このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。」(10節)

と聖書は言います。

申命記 13:1-14:29

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」(14:22)

「こころのチキンスープ」(ダイヤモンド社)という本で有名になったマーク・ビクター・ハンセンという人が、こんなことを言っています。

「収入の一割を納めた瞬間、世の中全体が自分に向かって開かれる」。

LBでは、収入の十分の一を神に捧げる理由をこう訳しています。

「こうして、いつも神を第一にして生きることを学ぶのです。」(23節)

南米チリにある極度に貧しい農民の教会でこれを実践しました。すると、人々の生活が改善されたそうです。そのことを指導した牧師はこのように言っています。

「どんなに状況が厳しくても、極貧の中にあったとしても、御国の原則は欠乏を豊かさに変えることができるということを学んだのです。」

収入の十分の一を神に捧げることを通して天の窓が開かれるというのは、聖書が教える御国の原則です。

申命記 11:1-12:32

「しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。」(11:11)

榎本保郎先生は、このように記しています。

「信仰の世界には山がある、谷がある。しかし、そここそ天のうるおいの地なのである。」

ナイルの河口に広がる肥沃の地から、山と谷の地へとイスラエルの民は向かっていました。自分の努力だけではどうすることもできない、天からの雨を期待しなければ生きていけない世界へとイスラエルの民は向かっていました。まさに、信仰生活とはそのようなものだと思います。イエス・キリストを信じて生きていく中で、山があり谷があります。自分の努力だけではどうすることもできないことを知ります。主の恵みの雨が不可欠だということを学びます。もっとも、山と谷の地だからこそ、天の養いを体験することができるのかもしれません。

申命記 9:1-10:22

「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(10:12,13)

神が私たちに求めていることは何でしょうか?この箇所はかなり明確に記しています。神を恐れ、神のすべての道に歩み、神を愛し、神に仕え、従うことによって、

「あなたが幸せになること」(聖書協会共同訳)

です。ある青年がイエス様にこんな質問をしました。

「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6:28)

イエス様は答えられました。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(同29節)

神が求められていることは、すべて、イエス・キリストを信じることに含まれると言います。

そして、新年度 

先週日曜日、教会学校の小学六年生3名がとうとう教会学校を卒業してしまいました。みんな幼いころから、もしくは生まれる前から成長を祈りつつ見守ってきた大切な子どもたちで、嬉しくも寂しい気持ちです。先日のリラコンサートの折、私が小学5、6年だった時の教会学校担当だった先生の娘さんがあいさつに来てくださいました。時の流れを感じるとともに、楽しかった分級の時間を思い出しました。あれから30年以上の月日が流れ、今私自身も教会学校の子どもたちの巣立ちを見送る立場となり、先生方がどのような思いで関わって、祈って下さったかということに、当時は知る由もなかった深い愛を感じます。栄シャロームの教会学校を経験した子どもたちも、いつの日か大人になった時にほんの少しでもそのことを思い出してくれたらと心から願っています。最後のおはなしはWWJD(イエス様だったらどうする?)。どのような場面でもイエス様の御心を一番に考える習慣を身につけてくれることを、あっこせんせいは心からお祈りしています。  (小山晶子牧師婦人)

申命記 6:1-8:20

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(6:4,5)

今日の箇所は「シェマア」(ヘブル語で「聞きなさい」の意)と呼ばれ、人間の側の意思表示であることから、ユダヤ教では、唱える時は額に右手を当て、目を覆って、精神集中することが求められています。疑いをもたずに、命がけで、全力で神を愛するように命じられる厳しい内容ですが、聖書の大事な教えの学習という意義も含まれていて、朝に夕に自分で声を出してこれを唱え、その声が聞こえることが必要とされます。ある律法学者がイエス様に、「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)と尋ねた時、イエス様は、この「シェマア」を引用されました。私たちも日々、声を出して信仰告白をすることも大事なことではないでしょうか。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

申命記 4:15-5:33

「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」(4:40)

旧約聖書の律法と言うのは、本来、イスラエルの民が神との契約の中にとどまるためのものでした。律法を守ることを通して、イスラエルの民はしあわせになり、約束の地に住むことができる契約です。しかし、この後のイスラエルの歴史は、神との契約を忘れ、神の律法に背くものでした。どんなに預言者が忠告しても、聞くことはありませんでした。その結果、契約を破ったイスラエルの民は、この地から捕囚されていってしまいます。私たちは今、イエス・キリストにある新しい契約の中に生かされています。私たちは聖霊の律法、聖霊に導かれていくことによって、契約の中にとどまります。

申命記 2:24-4:14

「しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」(3:26)

モーセは、四〇年の荒野の旅を経て、今やっと約束の地を見るところまでたどりつきました。モーセが最後に懇願したことは、目的地である約束の地に入って、その地を見ることでした。しかし、主はその祈りを聞き入れてくださいませんでした。主は彼に、『もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。』と言われてしまいました。ちいろば先生こと、榎本保郎先生はこう言います。

「私たちは主から禁じられるまで祈ったことがあるだろうか。そこまで祈った人だけが、祈りの喜びを味わうことがゆるされるのである。」