黙示録 7:1-17

「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(7:17)

「小羊」は、イエス様を指しています。新改訳二〇一七ではこう訳しています。

「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」

生ける神、イエス・キリストは、私たちの羊飼いとなって私たちを養い、導き、慰めてくださる。これは旧約聖書エゼキエル書に出てくる神の約束の成就です。

「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。」(34:15)

人間は真の牧者にはなりえません。人間はいつも一緒にいることはできないし、限界があるからです。しかし、イエス・キリストが牧者ならば乏しいことはありません。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

黙示録 6:1-17

「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」(6:2)

白い馬というのは、私たちの中でいいイメージがあると思います。実際19章では、イエス・キリストが白い馬に乗って来られます。しかしこの箇所では、この後戦争や飢饉が訪れるということが記されています。ですからこの白い馬に乗っている者は、偽者のキリスト、反キリストのことを指していると考えられます。反キリストと聞くと、キリストに反する存在と考えますが、正確には、キリストのように見せかけ、人々をキリストから離していく存在です。この人物は「弓」を持っていたとあります。エペソ6:16を見ますと、不信仰の火矢を悪魔が放つことが分かります。反キリストは、イエス・キリストに対する信頼を揺るがせようと不信仰の矢を放ちます。ですから聖書は、「信仰の盾を取りなさい」(エペソ6:16)と命じています。

黙示録 5:1-14

「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」(5:8)

四つの生き物と二四人の長老が何を意味するか、聖書学者の間でも意見が分かれています。しかし、ここで興味深いのは、香が聖徒たちの祈りであるということです。聖書は、キリストを信じる者はすべて聖徒だと呼んでいます。つまり、すべてのクリスチャンの祈りが香として天に立ち上り、天に蓄えられているというのです。この後八章で、この香が地にまかれて結果的にいろいろなことが起こります。つまり、こう適用できると思います。家族のため、友のため、私たちが祈り続けるならば、その祈りは香のように天に立ち上り、蓄えられ、神の時に、神がその香を振りまかれて、神の御業を見ることができると。ですから、私たちは祈り続けることが大事です。神は私たちの祈りを用いられます。

黙示録 4:1-11

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」」(4:8)

イザヤ書にも似たような場面が出てきます。

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」」(6:1-3)

昔も、今も、これからも変わることはありません。万物の創造者であり支配者である神は御座に座しておられます。このお方は、「聖なる、聖なる、聖なる、」と三度繰り返されているように、三位一体なる神です。

黙示録 3:7-22

「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(3:8)

神は私たちが「少しばかりの力」しかないことをご存じです。神は私たちの力のなさを咎め立てているわけではありません。その「少しばかりの力」をどこに向けるかに関心をもっておられます。私たちは「少しばかりの力」を神のことばを守ることに注ぐ必要があります。何があってもイエス・キリストの御名によって生きることに注ぐ必要があります。そうするならば、イエス様が目の前の門を開いてくださいます。そして、イエス様が開かれたら誰も閉じることはできません。

黙示録 2:18-3:6

「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」(2:25)

私たちは理解できないことのゆえに、理解していることを手放す必要はありません。タイヤのビスが一つ外れたからと言って、全部外す必要はありません。この世界には理解できないことがたくさんあります。しかし、だからと言って、イエス・キリストの福音を手放す必要はありません。ナチスの強制収容所の中で精神科医のフランクルはこんなことを学んだと言います。

「どのような状況になろうとも人間にはひとつだけ自由が残されている。それはどう行動するかだ。」

聖書は

「持っているものを、しっかりと持っていなさい」

と言います。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。

キリストを信じる者は永遠のいのちを持っています。

黙示録 2:1-17

「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。」(2:2)

信仰義認。私たちは行いによってではなく、ただ神の恵み、イエス・キリストの十字架の御業によって救われます。しかし、それは、私たちの行いがどうでも良いという意味ではありません。聖書も言います。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(2:10)

問題は、あらかじめ備えられた良い行いに歩むことが、必ずしも容易いこととは限らないということです。備えられた良い行いに歩むために、労苦と忍耐が求められます。それは誰にも評価されない歩みのように見えるかもしれません。しかし主は

「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。」

と言われます。

からだのかなめ

先週火曜日は玉川聖学院でリラとしてクリスマスコンサートを行ってきました。無事コンサートを終え帰宅したのですが、数時間立ちっぱなしで歌っていたせいか腰のあたりに少し違和感がありました。一晩眠れば治るだろうと早々にその日は就寝したのですが、次の日、ベッドから起き上がろうとした瞬間腰にかつてないほどの激痛が走ったのです。少し体を起こした態勢だったので、向きを変えようと思ったのですがとにかく痛くてどこにも身体の方向を変えることができません。その日は一日中ベッドに横たわって痛みに耐えるしかありませんでした。夕方ごろからは熱も出始め、寒気と身の置き所のなさと痛みとでかなりつらい時間を過ごしました。腰を痛めると、何もできないのですね。まさに体のかなめ。そしてこうも思ったのです。{信仰のかなめはイエス様だ。}イエス様がかなめとなっていなければ信仰生活においても本当の意味で何もできない、ということだと思います。私たちの、そして教会のかなめがイエス様になっているかどうかが「要」ですね。(小山晶子牧師婦人)

黙示録 1:1-20

「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(1:8)

「主」は神の名前、「ヤハウェ」のことだと考えられます。出エジプト3章に出てくる「わたしはある」という名前です。英語のBE動詞に当たる単語で、存在を意味します。常に存在するという意味です。昔おられ、今おられ、やがて来られる方と言う意味です。「アルファ」はギリシア語のアルファベットの最初の文字、「オメガ」は最後の文字です。ですから、「はじめから終わりまで存在する方」であることを意味しています。聖書は神の存在証明をしません。なぜなら「ヤハウェ」は「神である」、聖書の神は「存在される方」、自立自存の神だからです。この方は、「万物の支配者」、「全能者」、不可能はない、力ある神です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ユダ 1-25

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」(24,25節)

神は私たちがつまずいたり、倒れたりしないように守ってくださるお方です。しかしだからと言って、私たちの側が何もしなくて良いということではありません。直前の20,21節にこう書いてあります。

「あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。」(LB)