マタイ10:1-31

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(29節)

二羽の雀で売られているという意味は、一羽では値がつかないということです。しかし、そんな一羽さえも、神は気にかけておられると言います。私たちも日々の生活の中で、色々な評価を受けます。自分の存在価値を見失うこともあります。しかし、神の目には高価で貴いということを心に留めたいと思います。

マタイ9:14-38

「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(9:17)

イエス・キリストによってもたらされた新しさを受け入れるために、当時の人々は世界観を刷新される必要がありました。同じように、聖霊なる神様によってもたらされる新しさを受け入れるためには、私たちも刷新され続けられる必要があります。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

マタイ8:23-9:13

「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。」(9:2)

イエス・キリストは、罪人が罪人のままであってよいとは断じて言いません。この箇所でも、「彼らの信仰を見て」と、信仰を前提としています。しかし、この中風の人がイエス・キリストのもとに行くために、みもとに運んできた人たちがいました。私たちもとりなしの祈りをしたり、イエス・キリストを伝えることを通して、イエス・キリストのみもとに人々をお連れする必要があります。イエス・キリストだけが人の罪を赦すことができる救い主だからです。

マタイ7:24-8:22

「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。」(8:3)

「らい病」は、新改訳の第三版では「ツァラアト」と訳されていますが、これはいわゆるハンセン病とは違うため、混合することを避けるためです。感染症のため、誰も、ツァラアトに冒された人に触れることも、近づくこともありませんでした。そもそも、人々が集まる所に来ることも許されませんでした。イエス様は病気をいやすために、必ずさわったわけではありません。この直後の百人隊長のしもべには会ってさえいません。しかし、ここでは、あえて手を伸ばして、彼に触れたところに大きな意味があります。ここにイエス様のみこころがあります。

マタイ6:25-7:23

「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(7:11)

イエス様は、求める者たちに「求めたもの」を下さるとは言いませんでした。「良いもの」をくださると言いました。ですから、ヤコブの手紙にはこう記されています。

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(4:2,3)

神は祈りに答え、「良いもの」をくださる主です。祈り求めましょう。

まどわしの光?

数週間前、教会に一番近い街灯の修繕が行われました。もう半年近く前になりますが、真夜中に交通事故があり(とはいっても自損事故なのですが)街灯がついているポールがぐにゃりと曲がってしまい、全てが撤去されていたのです。この場所で事故があるのはその時で私たちが知っているだけでも3回目。いつも同じような状況で事故が起こるので不思議に思っていました。日頃コンビニの明かりや信号の明かりがまぶしくてこの場所に街灯がなくなったことを喜んでいたのですが、修繕によって更に明るい夜が戻ってきていました。ところが街灯が修繕されてほんの数日で、また同じ場所で真夜中事故が起こったのです。撤去されていた時には一度も起こらなかったのに。事故を引き起こす惑わしの光。私たちもそんなふうにならないよう真理の光に目を向けていきましょう。(小山晶子牧師婦人)

マタイ5:43-6:24

「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(6:10)

御国とは、神が治められる場所です。天は神の領域で、神のみこころが完全に行われています。イエス様は、私たちが生きているこの地上に、天と同じように神のみこころが完全に行われるように、神の完全な支配がこの地に実現するように祈るように求められました。それは、私たち一人一人が、まず、日々の生活の中で神のみこころに生きることを求めています。神のみこころは聖書にあらわされています。一つは、「すべての事について、感謝しなさい。」(1テサ5:18)この年、日々、感謝することに挑戦してみませんか?
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

マタイ5:21-42

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(24節)

神殿に供え物だけしていればいいとはイエス様は言われません。パウロもこう言っています。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18新改訳2017)

憎しみをもったまま主に礼拝を捧げることはできません。赦しと和解は供え物以上に大事なことだとイエス様は言います。

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」(9:13)

マタイ4:23-5:20

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(5:9)

神の子どもは平和をつくる使命があります。平和は単に争いがない状態ということではありません。何も見ず、聞かず、言わずがキリスト者のあるべき姿ではありません。使徒パウロはこう言っています。

「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(2コリント5:18)

私たちは和解の務めが与えられています。人はまず何よりも創造主である神との和解が必要です。神の側は、イエス・キリストの十字架のゆえに「その罪を数え立てずに」(LB)和解のメッセージを委ねてくださいました。私たちは伝える使命があります。

マタイ4:1-22

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」(17節)

 

イエス・キリストの宣教、その中心は「天の御国」です。「天」は神の領域です。神の支配が完全に実行されている領域です。イエス・キリストの宣教とは、まさに、この神の領域がこの地に臨んでいるということです。「悔い改め」と訳された単語は、「考え方を変える」という意味です。ですから、イエス様の宣教というのは、聖書が預言してきたように神ご自身が王としてこの世界を治められるから、人間中心の考え方から神中心の考え方に変えなさいと言うことです。

 

※ 本日のSSCの婦人会はお休みです。