ヨハネ 1章

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(1-8節)

イエス・キリストは闇の中に輝いている光です。バプテスマのヨハネはこの光についてあかしするために来たと言います。私たちもこのクリスマス、一人でも多くの人に光についてあかしすることができますように。

ミカ 5章

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(2節)

ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、旧約聖書ではメシヤはダビデの子孫だと言います。ですから、イエス・キリストがベツレヘムで生まれることには意味がありました。ローマ皇帝アウグストは、自分を力ある神のように思い上がりながら住民登録をせよと勅令を出しました。この勅令のゆえにヨセフとマリヤはベツレヘムに行かなければならず、イエス・キリストはベツレヘムで生まれました。つまりローマ皇帝アウグストでさえも、神の御手の中にあったのです。カオスのように見えるこの世界も神の御手の中にあります。すべてを治める王の王、主の主なる神を見上げることができますように。

イザヤ 9章

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(6,7節)

旧約聖書はメシアが生まれることを予言しました。イスラエルのメシアとは、「平和の君」と呼ばれる存在です。「平和」と訳された単語は「シャローム」。それは、単に「争いがない状態」という意味だけではありません。欠けや隙間がない完全なれんが造りの壁という意味があります。つまり、イエス・キリストは、壊れた関係を修復し、癒し、回復するために生まれました。イエス・キリストは、神との関係、他者との関係に、シャロームをもたらす平和の君です。

ダニエル 9章

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(18節)

祈りは、私たちの善行に土台しません。神の大いなるあわれみに土台しています。あわれみとは何でしょうか?辞書ではあわれみを二通り定義しています。

一つ目は、「罰することを止めること」。

二つ目は、「予期せぬ親切」。

神のあわれみにもこの二通りを見ることができます。赦しの側面と共感の側面です。赦しの側面は、私たちがどんなに罰を受けるのにふさわしくてもそれを控えられること。共感の側面は、予期せぬ親切をもって私たちを助けてくださること。神のあわれみのゆえに、神はあなたが許しを求め、助けを求めるように招かれています。

ダニエル 9章

「あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。」(9節)

この世界は神を裁きの神として描写します。しかし神は、何よりもまずご自身をあわれみの神として現わされます。あわれみは聖書における神の第一のご性質です。神の主権、全知、全能、遍在よりも、怒り、正義、裁きよりも、神の第一の性質はあわれみです。神がモーセにご自身の栄光を現わした時、十戒を与えた時、神はこう言われました。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み」(出エジプト34:6)

まず何よりも主はご自身を、

「あわれみ深く」

と言われています。

「主、主は、正しく、義であり」でも、「永遠であり、全能である」でもありません。まず神は言われます。

「わたしはあわれみ深い神。わたしがあなたのためにするすべてのことは、わたしのあわれみから流れ出ている。」

ダニエル 9章

「私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。」(4節)

神に何かを求める時、私たちは感謝の心をもって求めることが大切です。神の愛と神の約束に感謝しましょう。神のやさしさと信実に感謝しましょう。具体的に、感謝リストを作りましょう。そして、神に何かを求める前に、数分間、神が何をしてくださったかを感謝しましょう。感謝をすればするほど、神のご性質を知ることができます。そして、神のご性質を知れば知るほど、あなたが祈る時、さらに信仰をもって祈ることができます。

スカイツリー

先週金曜日、所用で葛飾まで車で行くことになりました。その場所にはこれまでも何度か行ったことがあり、道順もさほど難しいわけでもありません。ところが、師走のせいでしょうか、トラックの数が非常に多いうえにあちこちで事故も発生し、ナビがいつもとは違う都内を通る恐ろしい道へ誘導しようとするのです。唯一の道しるべは葛飾にほど近い場所にある東京スカイツリー。

「大丈夫、スカイツリーが見えてるから。」

「大丈夫。スカイツリーが近づいてきたから。」

幾度となく確認しつつ、無事目的地にたどり着くことができました。何度もスカイツリーに目をやりながら思いました。イエス様から目を離さないってこういうことなんじゃないか。そこに向かうプロセスには不安や恐れ、事故、渋滞などがあるのですが、イエス様を見失わなければ必ず約束の場所へ到着することができるんだということを。イエス様が見えているかを常に確認しつつ今週も歩んでいきましょう。  (小山晶子牧師婦人)

箴言 8章

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」(17節)

神は私たちが神を捜すことを願っています。神は私たちから隠れているわけではありません。神は私たちが神を見つけることを待っておられると言います。大切な点は、私たちは捜さなければならないということです。捜すと言うことは、簡単に見渡せばいいという以上の話です。焦点を合わせて捜すことに心を集中する必要があります。この箇所で用いられている「捜す」という単語は、熱心に、一生懸命に捜すという意味があります。つまり、「熱心に捜す」という意味は、神を第一にし、答えを得るまで神を追いかけるということです。

今日は主の日。アドベント三週目です。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 15章

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7節)

私たちが神のみことばを知れば知るほど、神の御心の中で祈るようになります。私たちが探している答えの多くは、すでに、神のみことばの中にあります。みことばの中に入れば入るほど、みことばが私たちの中に入れば入るほど、神が私たちに何をして欲しいかだけでなく、神が私たちのために何を約束されたかを知ることが容易になります。神の約束に私たちの信仰を置く時に、奇跡は起こります。