ダニエル 9章

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(18節)

ダニエル書9章のダニエルの祈りは、私たちの祈りの模範の一つです。彼が自分の国のため、同胞のために祈る姿勢を、私たちは学ぶ必要があると思います。彼は私たちが神に祈り求めるのは、

「私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」

と告白します。LBではこう訳しています。

「助けていただくに値する者だからお願いしているのではありません。私たちのどうしようもない罪にもかかわらず、あなたはあわれみに満ちたお方なので、お願いしているのです。」

私たちはただ、イエス・キリストの真実のゆえに、イエスの御名の中で祈ります。

ダニエル 8章

「この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。」(8節)

ダニエルは、再び、これから後に起こることに関する夢を見ました。

「私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。」(5節)

この西からやってきた雄やぎは、アレキサンダー大王を指していると考えられます。彼は、まさに、権力の絶頂で死んでしまいます。そして、その王国は、四つに分けられました。あまりにもこの預言が的確なので、学者たちは、これはダニエルではなく、後世の人がこの預言を書いたのではとさえ言っています。神のみことばは的確であり、神がするとおっしゃられたことは、必ず行われます。

ダニエル 6章

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(10節)

「習慣は第二の天性」と言われますが、ダニエルは、いつも神の前に祈り、感謝していました。この時、ダニエルは八十八歳ぐらいだったと言われます。彼は、何があっても、この習慣を止めることはしませんでした。なぜなら神との関係こそが、彼の人生の強さであり、安定の基だったからです。たとえそれが死を意味しても、彼はこの習慣を隠すことさえありませんでした。ある牧師は、一日十五分で人生は変わると言います。五分聖書を読み、五分読んだ箇所を黙想し、五分祈る。このような聖なる習慣を身につけることは、私たちの力となります。この後、ダニエルはライオンの穴に投げ込まれますが、奇跡的な守りを体験します。聖書はその理由をこう記しています。

「彼が神に信頼していたからである。」(23節)

ダニエル 5章

「あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。」(22節)

ネブカデネザル王の息子、ベルシャツァルが大宴会をしている様子から5章は始まります。彼は、父親がエルサレムの神殿から奪い取ってきた金の器でぶどう酒を飲み、大騒ぎをしていました。そのとき人間の手が現れ、壁に文字を書きましたが、それを解き明かす人がいなかったので再びダニエルが王の前に呼ばれました。王は

「あなたのうちに神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。」(14節)

と言います。つまり、彼は聞いていたのにも関わらず、まことの神を求めようとしなかったのです。その結果、

「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」(25節)

と宣告されてしまったのです。

今日は主の日。主を恐れ、共に、主に礼拝を捧げましょう!

ダニエル 4章

「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」(34節)

ネブカデネザル王は一時期、理性を失っていました。彼が

「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(30節)

と傲慢になっていたところ、神は彼から理性を取り去り、彼は動物のようになってしまいました。一定の期間が終わり、彼が天に目を上げ、神がすべてを治めているという事実を認識した時、理性が戻りました。もし、私たちが自分が成し遂げたこと、自分に栄光を帰そうとするならば、それらが私たちをおかしくさせます。しかし、もし、私たちの目を天に向け、ただ神を礼拝し、賛美するならば、理性は戻ってきます。

ダニエル 3章

「そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」」(24,25節)

神は時として私たちを火のような試練の中を通ることを許されます。ペテロの手紙第一には

「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(4:12共)

とあります。しかし、火は私たちを縛る縄を焼くだけです。もっとも素晴らしい祝福は第四の者の存在です。受肉前のキリストだと言われます。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が共におられます。

ダニエル 2章

「それから、ダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた。彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」(17‐19節)

ダニエルは、自分も自分の同僚たちも殺されるということを知りました。命の危険は迫り、何か行動を起こさなければならない状況でした。ダニエルは同僚のところに行き、共に、祈りました。彼らは特別に教育を受けた、賢い人たちでした。彼らは知っていました。問題の中で一番賢い行動は、祈るということであることを。事実、神は彼らの祈りに答え、ダニエルに啓示を与えられます。ダニエルが私たちに伝えているメッセージはこれです。「パニックになってはいけません。祈りなさい。」

ダニエル 1章

「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」(17節)

少年たちに与えられた能力が、どこから来たかを覚えることは重要なことだと思います。私たちの能力は、すべて神様から来ます。身につけるための努力をする必要がないという意味ではありません。しかし、身につけることができるその環境でさえも神様が与えてくださったと考えるならば、傲慢になることはできないのではないでしょうか。(神様が与えてくださった環境を感謝して、神の栄光のためにその能力を身につけるために努力することは大切なことです。)もし、神からの賜物だと認識することができれば、神にお返しするという意識は当然のことと思います。与えられた能力を、神の栄光のために用いているでしょうか。すべての栄光を神に捧げるため、神は私たちに能力を与えてくださいます。

エゼキエル 48章

「町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。」」(35節)

エゼキエル書の預言は、この新しいエルサレムの町の一番素晴らしい点を指し示すことで閉じられています。それは、

「主はここにおられる。」

ということです。使徒ヨハネも、この新しいエルサレムに関してこのように述べています。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3,4)

聖書の言う「天国」は「極楽」ではなく、この「主はここにおられる。」という現実です。ですから、イエス・キリストを信じることによって、すでに、この現実は始まります。そして、最終的に新しいエルサレムももたらされ、この預言は成就します。

エゼキエル 47章

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」(9節)

この川の源泉は1節、

「水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。」

つまり、神の臨在から流れてくる水だと言います。イエス様はこう言いました。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:38,39)

神の臨在はキリストを信じる者たちが集まって礼拝を捧げるその場所に現されます。主は賛美を住まいとされます。ですから賛美が満ち溢れるそのただ中で、いのちの川、聖霊の川が流れます。賛美の時間はただ歌を歌っているわけではありません。

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。