エレミヤ 22章

「彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。―主の御告げ。―」(16節)

人は行いによってではなく、神の一方的な恵みによって救われるというのが、聖書が教えている内容です。しかし、それは、好き勝手な生き方をしても大丈夫という許可証ではありません。この箇所で、神を知ることとは、正義を行うことだと言います。神を本当の意味で知っているならば、不正を行い続けることは不可能です。なぜなら、神は正義の神だからです。LBではこう訳しています。

「彼は貧しい人や困っている人に正義と援助の手が差し伸べられるようにした。それで、何事もうまくいったのだ。このような人こそ、神のそば近くにいることができる。」

貧しい人や困っている人に正義と援助の手が差し伸べられるようにすることが、私たちの人生の祝福となります。

エレミヤ 21章

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(8節)

神は私たちに選択の自由を与えています。この自由意志が両刃の剣で、この世に良いことも悪いことも起こる原因になります。しかし、自由意志がなければロボットと同じになってしまい、そこに愛の関係というものは生じません。いのちの道であるイエス・キリストを信じることを選ぶことに意味があります。キリストのからだであり、キリストの花嫁である教会につながることを選ぶことに意味があります。神のみことばである聖書を、自分の信仰と生活の規範とすることを選ぶことに意味があります。誰一人、イエス・キリストを自分の救い主として信じることを選ぶことなしに、クリスチャンになることはありません。神はすべての人に選択の自由を与えてます。

エレミヤ 20章

「しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。」(11節)

10節でエレミヤは言います。

「四方八方から脅す声が聞こえるので、私はおじけづきます。」(LB)

エレミヤは、人々の笑い者になり、ばかにされ、脅され、

「もう辞めたい」

と思いました。しかし、そのような中で、エレミヤは主に目を向けることによって確信を得ます。

「しかし主は、偉大な勇士のように私のそばに立っています。」(LB)

この視点の転換こそが失望を確信に変える秘訣です。エレミヤは神が側に立っておられることに気づいたのです。使徒パウロも似たような表現を用いています。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

エレミヤ 19章

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」(15節)

当時の人々の問題は、強情を張り、神のことばを聞こうとしなかったことでした。しかし、人間の本質は昔も今も変わることなく、今も強情を張って、神のことばに耳を傾けようとしないという問題があります。信仰は聞くことから始まりますから、聖書のみことばに耳を傾けないことには何も始まりません。自分の思い、自分の考えを優先させ、聖書の権威を認めることができなければ、当時のイスラエルの人と同じ過ちを繰り返してしまうことになります。心をやわらかくして、聖書の権威を受け入れ、神のみことばに耳を傾けることができますように。

エレミヤ 18章

「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ。―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(6節)

「この陶器師のように」とありますが、前半部分にこう記されています。

「『さあ、陶器を作っている者の家に行きなさい。そこで、あなたに話そう。』言われたとおりにすると、陶器師はろくろを回している最中でした。ところが、彼は手がけていたつぼが気に入らなかったので、それをつぶして粘土のかたまりに戻し、初めからやり直しました。」(2-4節LB)

この時、神がエレミヤに語られました。神は陶器師のような方であり、私たちはまさに神の手の中にある粘土のような存在です。これは、絶対的な神の主権を現しています。

神は神であり、人は人である

というこの絶対的な神の主権を認めることは大切なことです。

エレミヤ 17章

「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(10節)

LBではこう訳しています。

「ただわたしだけが人の心を知っていて、隅々まで探り、一番奥に隠された動機まで読み取る。そして、一人一人にそれぞれの生き方に応じた報いを与える。」

神様私たちの心、私たちの動機の部分まで見ておられると聖書は言います。このことをよく現しているのがヨブ記です。ヨブ記は、どうして私たちがこの地で正しく生きようとするのか、その動機は何か?ということがテーマになっています。

ご利益があるから正しく生きようとするのか?

もし、そうならば、

ご利益を失ったら、正しく生きることをやめてしまうのか?

神は、まさに、私たちの動機の部分を見ておられると聖書は言います。結局のところ私たちの動機は、私たちの生き方にも反映します。

ラナンキュラス

新年度の教会学校教材購入のため先週横浜ライフセンターに行ってきました。最近心が沈む出来事が続き、気が滅入っていたので、ちょっと気分を明るくしたいと思い大好きなラナンキュラスという花をライフセンター隣の花の問屋さんで購入し、さっそく我が家に飾ることにしました。色は濃いピンクとさわやかな白。つぼみもかなりついていたのでしばらく楽しめそうです。従妹が青山フラワーに務めているのですが、一度会った折にもらった、一輪のラナンキュラスが見事に開いていく様に感動し、それ以来この花が大好きになりました。神様が創られた自然の素晴らしさにしばし見とれ、パッと華やいだ部屋の様子に大満足。しばらくしてその部屋に戻ると、ジョシュ(うちのねこ)がむしゃむしゃと食べていました、、、。被害を免れたラナンキュラスを教会のあちこちに飾りましたので、是非愛でてやってくださいませ。今週は満開の桜も見られそうですね。春の訪れ、新しい門出に相応しい明るく、希望に満ちた日々でありますようにと祈りを込めて。
(小山晶子牧師夫人)

エレミヤ 16章

「人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」(20節)

LBではこう訳しています。

「神を造ることが人間にできるでしょうか。人間の造る神々は本物の神ではありません。」

人間が造ることができる神々は、聖書的には神ではありません。聖書に出てくる神の名は

「YHWH」

で、それは英語の「BE動詞」にあたり、存在を意味します。

「自立自存」

という意味です。つまり、何か原因があって存在したものは、聖書の定義では神とは呼べないのです。ですから人間が造り出したものは、神とは呼べません。しかし、いつの時代も人間は神々を造ろうとします。自分に都合のよい神々を造り出そうとするのです。しかし、聖書ははっきりと、「そんなものは神ではない」と言います。私たちは、自分の理想の神々を考え出すのではなく、神の言葉である聖書からまことの神を学ぶ必要があります。今日は主の日。主なる神を心から礼拝しましょう。

エレミヤ 15章

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」(16節)

神のみことば、すなわち聖書のみことばは、楽しみであり、私たちの心の喜びです。LBではこう訳しています。

「神のおことばは、私をしっかり支えます。それは、飢え渇いた私のたましいにとっての食物です。私の重い心に喜びをもたらし、楽しみで満たしてくれます。主よ。私は、神の預言者にされたことを誇りに思います。」

確かに、聖書のみことばは、私たちをしっかりと支えます。私たちの日々の糧であり、重い心に喜びをもたらします。エレミヤは

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。」

と言いましたが、私たちも聖書を開いて、神のみことばを味わいましょう。