後悔

イースターおめでとうございます。イエス様の復活を思いめぐらすたびに、私の心に湧き上がる後悔。それは24年の月日が流れてもなお、繰り返し繰り返し、心に迫ってきます。
エルサレム滞在が残り数日に迫ったあの日。最後のエルサレムウオークで園の墓に行くことになりました。考古学の学びの中で、「園の墓は聖書におけるイエスの十字架の死と復活の描写から見れば一番それっぽく見えるものだが実際には聖墳墓教会がイエスが葬られた場所としての信ぴょう性は高い。」と聞いていましたので史実でない場所は行かなくてもいいやと思い、せっかくの機会を放棄して旧市街の散策に出かけてしまったのです。聖墳墓教会がぎらぎらに飾られて正直うんざりするほどだったので(いわれのある場所はたいていそんな感じ。日本のお寺に酷似している。)。でも園の墓に行った人たちは口々に「行ってよかった!」と。ここにはおられません、よみがえられたのです、と書いてある板に感激していました。人生選択ですね。かくして私の後悔は続くのです。  (小山晶子牧師夫人)

エレミヤ 30章

「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。」(17節)

私たちが我にかえるために、神ご自身が私たちに痛みを与えることがあります。それは、今日の箇所にあるとおり、私たちを苦しめるためではなく、人生を軌道修正するためです。試練や痛みを通らなければ、なかなか進歩しないところが私たちにあるからです。しかし神は、私たちが神に立ち返るならば、その途上で受けた傷を治し、癒してくださるお方でもあります。メスは私たちを傷つけるためでなく、癒すために存在しています。ですから、私たちは復活の視点からキリストの十字架を見る必要があります。今、たとえ受難の金曜日を過ごしていても、復活の日曜日が必ずやってきます。今日は、復活祭(イースター)。私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたイエス・キリストに共に礼拝を捧げましょう。

エレミヤ 29章

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」(11-12節)

この箇所の前にこのように記されています。

「バビロンに七〇年の満ちるころ、私はあなたがたを顧み」

つまり七〇年と言う期間は訓練の時としてユダの人々が受けなければならない試練の時であったということです。今日の箇所はその後に与えられている主のご計画の約束です。偽預言者はすぐにでも解放されると言って人々を騙していました。しかし、神の約束を手にするために必要な『忍耐』を、バビロンの地で彼らは学ばなければなりませんでした。大事なことは、神は良い神であり、私たちに対する計画は将来と希望を与えるためのものであると信頼することを選ぶことです。

明日は、復活祭(イースター)です!

エレミヤ 28章

「そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。 それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』」 預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。」(15‐17節)

「預言」をどう受け止めるか難しいところがあります。『主はこう言われる』と言われてしまいますと戸惑うと思います。今日のこの箇所は、私たちがバランスをとるために大切な箇所だと思います。預言は、軽々しく語られるべきではありません。神の名前で語ることに対する恐れが必要です。自分が聞きたい『預言』ではなく、神が本当に語られていることに焦点を当てることが重要です。そのためにも、いつも聖書のみことばに照らして吟味することができるように、聖書に親しむことが求められます。

※ 今日は聖金曜日(Good Friday)。イエス・キリストが十字架にかかられたことを覚えます。

エレミヤ 27章

「バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し、――主の御告げ。――彼らを彼の手で皆殺しにする。 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。」(8-9節)

神はユダの人々に対してご計画を持っておられました。それは、バビロンに捕囚されることを通してユダの人々が生き延び、悔い改め、もう一度やり直す、というものでした。しかし一方で偽預言者や占い師は神の御言葉とま逆のことを言って人々を安心させ、完全に滅びてしまう道へとユダの人々を誘おうとしていました。これこそ、悪魔のやり方です。悪魔は甘い言葉で私たちを滅びへと導くのです。私たちは甘い言葉にだまされないように気をつける必要があります。

エレミヤ 26章

「そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」(19節)

エレミヤの預言に対して当時の指導者だった祭司と偽預言者たちは悔い改めるどころかエレミヤを殺そうとしました。しかし、知恵のある何人かが立って人々を諭します。

「神のことばを伝えたと言う理由でエレミヤを殺すなら、神がどんな仕返しをなさるかわかりません。」(19節LB)

神のみことばにどう応答するかが、私たちの人生に大きな影響を与えます。ですから、聖書にはこう警告されています。

「ですから、聖霊はこう警告します。キリストの声に注意深く耳を傾けなさい。今日その声を聞いたら、昔のイスラエル人のように心を閉ざしてはいけません。」(ヘブル3:7,8LB)

エレミヤ 25章

「アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。」(3‐4節)

ユダの人々の問題は、神のことばを聞こうとしなかったところにありました。

「神は何度も、ご自分の預言者を遣わしたのに、あなたがたは耳をふさぎました。」(4節LB)

神が沈黙しているのではなく、私たちが耳をふさいでいるという可能性があります。それは、自分が聞きたいと思うような内容ではないからかもしれません。使徒パウロもこのように警告しています。

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。」(2テモテ4:3LB)

エレミヤ 24章

「また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」(7節)

カルデヤ人の地(5節)とは、バビロン(今のイラク)のことです。ユダの人々は、バビロンへ捕囚されていきました。ユダの人々は、神から離れ、自分たちの目に良いと見えることを優先して生きることを続けていった結果、「捕囚」という結果を招きました。しかし、神は絶望の中にいた彼らに約束の言葉を与えます。

「わたしに対して正しく応答する心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは大喜びで、わたしのもとに帰って来るからだ。」(7節LB)

「わたしが主であることを知る心」、「わたしに対して正しく応答する心」、それは、ペンテコステの日、聖霊が臨まれることを通して実現しました。今、イエス・キリストを信じる者の内に与えられています。

入学式

4月に入り、いよいよ新しいスタート。進級したり、進学したり、就職したりと皆さんの周りでも様々な変化があったのではないでしょうか。祈りつつ送り出す、我が家もそんな日々を過ごしています。さて、先日次男の高校の入学式に出席してきました。次男は2組なのですが、1組に「こやましおん」という名前の女の子がいて驚きました。「こやま」と呼んでも「しおん」と呼んでもどちらが呼ばれたかわかりません。こんなこと初めてでその子の顔を見てみたくなりましたがあいにく前方に正面を向いて座っていたため後姿しかわかりませんでした。先生方はどう区別するのかとちょっと気になります。そう考えると、神様が私たちの名前を呼ぶということは、単に名前を呼ぶ、というだけではないのですね。存在を呼ぶということはその人自身を呼ぶ、ということ。つまり神様の前に同じ「名前」は存在しない、ということだと思います。2組にも「しおん」という名前の女の子もいるのです。さあ、大変。次男の高校生活の名前にまつわる混乱は続くかもしれません。 (小山晶子牧師婦人)

エレミヤ 23章

「いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。」(18節)

23章は偽預言者に対する神のことばが記されています。神は言われます。

「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。」

偽預言者は神の言葉ではなく、「自分の心の幻」を語っていると言います。神は

「むなしい希望を与える偽預言者の言うことを聞いてはならない。」(16節LB)

と言います。彼らの問題を神はこう指摘します。

「彼らのうちの一人でも、神のことばを聞こうと努力しただろうか。」(18節LB)

神のことばを聞こうと努力することは、今、神のみことばである聖書を理解する努力を惜しんではいけないという意味だと思います。

今日は主の日。共に、聖書のみことばに耳を傾けていきたいと思います。