伝道者 9章

「同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行なわれるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。」(3節)

LBではこう訳しています。

「すべての人に同じ結末がくるとは、なんと不公平でしょう。だからこそ、人は正しく生きようとはせず、常軌を逸した道を選ぶのです。待ちかまえているのは死だけですから、希望などありません。」

伝道者の書のキーワードは

「日の下」

ですから、

「この世をすべてと考えると」

という前提があります。

人は死亡率100%ですから、どんなに正しく生きた人にも、どんなに悪く生きた人にも、等しく死は訪れます。

しかし、死から復活されたキリストは、同じ結末ではない、永遠の世界があることを証明されました。そして、永遠の神の国に生きるように人々を招かれました。私たちは日の下に生きながらも、神の国に生きることができます。

伝道者 8章

「王のことばには権威がある。だれが彼に、『あなたは何をするのですか』と言えようか。」(4節)

「ことば」に重みをもたらすのは、「権威」です。裁判官の判決文に重みがあるのは、「権威」を伴うからです。同じように聖書の「ことば」に重みがあるのは、「権威」を伴うからです。聖書のことばはすべて神によっていのちの息が吹き込まれています。(Ⅱテモテ3:16参照)神が語られるのであれば、神はそれを成し遂げられます。神に文句を言うことができる人はいません。神は神です。私たち人間がどんなに理解できなくても、最終的な言葉は神がもっていることを私たちは受けとめる必要があります。ただ、驚くことに、神は私たちを愛しておられ、私たちを気にかけておられるということです。権威ある神のことばはこう言います。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5LB)

伝道者 7章

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。」(21,22節)

LBではこう訳しています。

「人の言うことをすべて気にしてはいけません。時として使用人からのろわれるかもしれません。あなたも、何度も人をのろったはずです。」

自分も何気ない言葉で人を傷つけていることがあります。ですから、何気ない言葉で傷つけられないように、聞き流すことも大切なことです。聞き流すというのは、イエス様がこの地上でなされた行動の一つでもありました。聖書にこういう箇所があります。

「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた」(マルコ5:36口語訳)

私たちも、誰かのことばにいちいち傷つかずに、聞き流すことを学ぶ必要があります。

「だから、正しすぎたり、知恵がありすぎたりして、自滅してはいけません。」(16節LB)

伝道者 6章

「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」(7節)

人はかすみを食べて生きてはいけないので、日々の糧を得るためにも働く必要があります。しかし、どんなに食欲を満たしても、しばらくすればお腹は空き、そのサイクルに終わりはありません。サマリヤの女にイエス様はこんなことを言われました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」(ヨハネ4:13)

伝道者の書のキーワードは「日の下」であり、この世のことに焦点が置かれています。この世のものは、食欲だけでなく、どんな欲も、永遠に満たされるものはないということです。私たちは、そのことを常に意識する必要があります。どんなものを買っても、どんなゴールを達成しても、永遠に満たされるようなものは存在しません。イエス・キリストとの関係だけが永遠に私たちを満たします。

伝道者 5章

「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。」(18節)

LBではこう訳しています。

「生きている限りは、おいしい物を食べ、上等のワインを飲み、置かれた立場を受け入れ、与えられた仕事がどのようなものであれ、それを楽しむことです。」

禁欲主義というのは、ストア派というギリシア哲学の影響であり、聖書的ではありません。与えられえた人生を楽しむことは、聖書的には大切なことです。もちろん、人生は楽しいことばかりではありませんし、時には、神のために自分の楽しみを捨てることも大事なことです。しかし、聖書は言います。

「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17新共同訳)

何よりも神ご自身を楽しむことができますように。

伝道者 4章

「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。」(13節)

この箇所のポイントは年齢ではなく「知恵」です。年を重ねて人の忠告に耳を傾けられなくなってしまった王よりも、経験がなくても学ぶ意欲のある貧しい若者のほうがましだと言うのです。私たち人間は気をつけないと、経験を積んだ分、さまざまなことを知った分、何でも分かってしまったかのように、裸の王様のようになって、聞く耳がなくなってしまう傾向があります。いつも謙遜に聞く姿勢を持たなければいけないというのが、この箇所が教えている知恵です。これは信仰生活にも起こりうることです。信仰生活が長くなると、何でも分かっているかのように錯覚し、メッセージを謙虚に聞けなくなってしまったりする危険があります。謙遜に聞く耳を持つことは大事なことです。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

伝道者 3章

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(1節)

1節から8節まで、相反する「時」が繰り返されているように見えます。

「壊す時、やり直す時、泣く時、笑う時、悲しむ時、踊る時」(3,4節LB)。

しかし、

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(11節)

とあるように、ここでは二つの時を対立させているわけではなく、「神の時」の中で人生の現実がつながっていることに気づかせます。泣く時も、笑う時も、実は、神の臨在はそこにあると言うのです。人生の様々な時、神はそこにおられ、すべてのことを美しくしてくださると。私たちが人生の中で体験する喜びも悲しみも、神の恵みの中では意味があります。

伝道者 2章

「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。」(24節)

もちろんこの箇所も「日の下」という「神の現実を無視すると」と言うメッセージがあります。同時にこの世における人生のバランスの大切さも指摘しています。食べたり飲んだり、仕事を楽しむことも、神の御手の中にあります。LBはこう訳しています。

「そこで私は、食べたり飲んだりすることと、労働を楽しむこと以外に生きがいはない、と結論づけました。しかも、このような楽しみさえ神の御手から来るとわかったのです。というのも、神の世話にならなければ、だれも食べたり楽しんだりすることはできないからです。」

極端になって何でも否定することは聖書が教えていることではありません。

「すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神から来るのです。」(ヤコブ1:17LB)

ということを認めて生きることを聖書は教えています。

伝道者 1章

「私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」(14節)

伝道者の書を読む上で大事なキーワードは「日の下」です。それは、「神の現実を無視すると」と言うことです。もし、「神の現実」を無視してこの地上での歩みを考えるならば、すべてのことが意味を見失い、むなしいことばかりになってしまいます。ですから、神は私たちに「日(sun)の下」ではなく、「御子(Son)の中」で生きるように語ります。イエス・キリストの中に答えがあるからです。この世の知恵には限界があります。伝道者は言います。

「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」(18節)

人類は知識を増やせばあらゆるものが解決できると考えました。しかし現実はまさに「知識を増すことは、悩みを増す。」(LB)聖書が伝えていることは、神を認めることがまず大事だと言うことです。

2テサロニケ 3章

「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」(5節)

パウロの祈りは、神が一人一人の心を、「神の愛」と「キリストの忍耐」に導かれることでした。文脈から考えますと、「神の愛」というのは、

「主のことばが至る所で急速に広まり、あなたがたのところで起きたと同じように、各地で救われる人が起きるように祈ってください」(1節LB)

ということに関係があると思われます。

「キリストの忍耐」は、

「私たちが悪い者たちの手から救い出されるように祈ってください。」(2節LB)

と関係しているように思われます。すべての人が救われるように祈り、伝道していく「神の愛」と、それに伴う数々の試練に耐えていく「キリストの忍耐」とその両方が必要です。

「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたに力を与え、悪魔のどんな攻撃からも守ってくださいます。」(3節LB)

というみことばをしっかり握っていきましょう!