詩篇 50篇

「感謝のいけにえを神にささげよ。」(14節)

神は感謝のいけにえを求めています。

「わたしが求めているのは、真心からの感謝」(LB)

と神は言われます。一八九〇年、アメリカのミシガン湖で、遊覧船が沈没する事故がありました。当時、大学の水泳選手だったスペンサーは、全力で十七人のいのちを救い出しました。長い年月が過ぎたある日、その出来事をトーレー博士が伝道集会でメッセージしました。すると、そこに老人になったスペンサーがいました。説教の後、トーレー博士がスペンサーに尋ねました。「当時、いのちを救われた十七人のうち、何人が感謝を表しましたか。」スペンサーは、ほほ笑みながら答えました。「一人です。」自分のいのちを救ってくれた人に感謝するのは当然なことです。しかし、残念なことに、感謝を忘れて生きている人たちの方が多いのが現実です。神が求めている人は、奇蹟の主人公ではなく、感謝の心をもっている人です。

詩篇 49篇

「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」(15節)

この世の人生が終わる時、イエス・キリストの十字架の贖いの御業のゆえに、神は私を受け入れてくださいます。

「たましいは余りにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。」(8節LB)

しかし、キリストは私たちの身代わりとなって十字架にかかられ「完済した!」とおっしゃられました。ですから、キリストを信じるだけで神が受け入れてくださいます。その日、神は

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

と言ってくださいます。誰かから受け入れられようと努力して一生が終るという人生の選択もあります。キリストのゆえに神に受け入れていただいていることを認識して、感謝をもって生きていくこともできます。

詩篇 48篇

「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」(9節)

神の宮の中で神の恵みを思い巡らすことを、神は私たちにチャレンジしています。私たちは日常の生活の中で、不安や恐れを思い巡らすことはよくあると思います。しかし、神の恵みを思い巡らすことはなかなかないのではないでしょうか。「神の宮」とは、神がおられる場所です。もちろん、教会を意味すると思いますし、日々の祈りの場所など、いろいろ適用もできると思います。大事なことは神の恵みを数えることです。宗教改革の指導者の一人カルヴァンは、歩く総合病院のような人だったそうです。二五種類ほどの病気をもっていたので、体が痛くて夜も眠れなかったそうです。眠れないので祈るしかなく、祈るとインスピレーションをいただき、深い霊性の本を書くことができたと言います。苦痛の中にあっても、神の恵みを思い巡らす時、神の恩寵の世界が必ず開かれます。

詩篇 47篇

「まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。」(7節)

イスラエルの神は全地の王です。王が意味することは、次節にあるように、

「神は国々を統べ治めておられる。」

ということです。人々は自己中心的な統治者たちに疲れ果てていました。人々の願いは、神(ヤハウェ)ご自身が統べ治めること、王となられることでした。イザヤ書にこうあります。

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」(イザヤ52:7)

イエス・キリストが十字架にかかられた時、この預言が成就しました。神は神の御子が十字架にかかり死ぬことを通して王となりました。復活は罪と死の支配が打ち破られたことを証明しました。神を王としてほめ歌を歌うことは、神の御国をこの地に現す大切な方法です。

詩篇 46篇

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(10節)

「やめよ」と訳された単語を、口語訳は

「静まって」、

新共同訳は

「力を捨てよ」

と訳しました。

「戦うのをやめなさい」(TEV)

と訳しているものもあります。いずれにせよ、私たちは日常を離れて、神を見上げる時間が必要です。いろいろな不安をやめる時間が必要です。日常のノイズから離れて静まる時間が必要です。一生懸命がんばっていることをストップする時間が必要です。そして、神が神であることを認める時間が必要です。自分を中心にして世界が回っているのではないことを認める時間が必要です。天地万物を造られ、支配されている神が生きていることを認める時間が必要です。今日は主の日。日々、静まって神を認めることも大切ですが、毎週、共に集まって、神を神として認め、あがめ、礼拝を捧げる時間はとても大切です。人は神を礼拝するために造られたからです。

詩篇 45篇

「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」(6,7節)

今日の箇所はヘブル人への手紙の中で引用されています。

「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」」(1:8,9)

ヘブル人への手紙の著者のポイントは、子なる神、イエス・キリストの神性です。「神よ。あなたの神は」というのは面白い表現ですが、イエス・キリスも、「神」と言うことです。また、他の存在と区別するように、より多くの喜びの油が注がれたとあります。聖書の神は、三位一体なる神であり、その王座は永遠です。

詩篇 44篇

「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。」(22節)

この箇所は、使徒パウロが、迫害の中にある教会の現実を表現するために新約で引用しています。

「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」(ローマ8:36)

この世の権力者たちの前に、「ほふられる羊」のようになすがままの状態のようであるかもしれないと。しかし、詩人とパウロとの間には大きな違いがあります。詩人は、その苦しみの意味を理解することができず嘆きを歌にしています。しかし、パウロは、続けてこう言います。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37節)

イエス・キリストは十字架によって勝利をとられました。私たちはキリストの中で、本物の勝利を体験することができます。

詩篇 43篇

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(5節)

現代社会は私たちを様々なプレッシャーの下に起きます。私たちは経済的に、人間関係に、仕事にもがいています。そして、未来に不安を感じています。プレッシャーをうまく処理できないと、私たちは不安と憂鬱の中に落ちてしまいます。このような状況から脱出する道が見えないとき、私たちの絶望感は大きくなります。ダビデは、そのような絶望感の中で、唯一の解決策を思い起こします。

「神を待ち望め。」

私たちは問題の解決を、自分自身や、他者に求めても、見つけることはできません。私たちはただ、神の中に希望を見いだすことができます。問題ではなく、神に自分の思いを向ける必要があります。神はあなたを愛し、あなたの人生の周りの状況を支配していることを思いだす必要があります。

詩篇 42篇

「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(2節)

私たちの心が求めているのは、生ける神様です。生ける神様との関係によってでしか満たされない渇きが、すべての人の内にあります。ですから詩人は歌いました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(1節)

詩人が伝えたいのは、新鮮な水でなければ満足できないということです。昔の体験、誰かの体験で満足することはできません。私たちは今、自分自身で神様との時間をもつ必要があります。イエス・キリストは過去の偉人というだけではなく、今、生きておられ、私たちは今、御前に出て行くことができます。イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14)

詩篇 41篇

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」(1節)

社会的弱者に心を配ることは意味があるというのが聖書が教えていることです。スポルジョン師は、

「捧げることによって彼らの富が失われると恐れる事は、なんと愚かなことか」

と言いました。イエス様はたとえ話の中で、神の審判の日のことを語っています。その日、王は言われます。

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:35,36,40)

神はすべてをご存じです。