うめの悲劇

 ワクワクしながら今年も梅の花を眺めていました。毎年教会の駐車場入り口にある小さな梅の木は、特にここ数年鈴なりに実をつけ、婦人会の皆さんと収穫するのを心待ちにしていました。たくさんの梅の花に、今年の収穫を大いに期待していたのですが、何ということでしょう。テントウムシの大繁殖によりたった一つしか実を付けなかったのです。ショックです。でもよくよく考えてみるといつも別段手入れをしていたわけでもなく、今年手入れを怠ったという訳でもなく、一言で言うと『仕方ないな』という所でしょうか。きっとこういうヨベルの年のような時期も必要なのでしょう。人生においても、ものすごく頑張ったのに報われない時、たいしてやってないのにうまくいくときがありませんか。そのすべての「時」が神様の御手の中にあること認めるなら、じたばたせず、かといってあきらめることもなく、主の「最善の時」を希望をもって待つことが出来るのだと思います。葉っぱの上に残ったたくさんのテントウムシの抜け殻を見ながら、そんなことを考えていました。(小山晶子牧師夫人)

詩篇 18篇

「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」(6節)

この箇所は、ダビデが晩年、自分の生涯を回顧して記した詩篇だと言われています。彼の人生は波乱万丈でした。サウル王に命を狙われたり、息子のアブサロムに命を狙われたり。また、ダビデが洞窟の中に隠れていた時に集まった人々は、不満を抱いている人たちでした。しかし、そんな中で彼は人生の秘訣を見出しました。それは、主を呼び求めること、祈ることでした。壁にぶつかった時、クリスチャンは祈ります。祈ることができることは幸せです。苦しみがなくても祈ることは大事ですが、人は追い込まれないと祈れないところがあるのもまた事実だと思います。祈りに追い込まれることは神が本当に生きておられるということを体験するチャンスでもあります。今日は主の日。共に礼拝しましょう。

※ 本日のSSCは、東北や熊本の被災地で活動しているオペレーション・ブレッシング・ジャパン代表トムソン先生がメッセージされます。

詩篇 17篇

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(15節)

LBでこう訳しています。

「しかし、私の関心は富にはなく、私が神を見ているかどうか、また、神と正しい関係にあるかどうかにあります。私は天で目覚めるとき、この上ない満足感にひたるでしょう。神の御顔をじかに見るからです。」

私たちのこの世での人生は、この地上の利得に心を奪われるか、それとも、神を喜びとして生きていくかで、大きく変わっていきます。神を自分の喜びとして生きていくならば、この世においても、もちろん楽しみを与えてくれるだけでなく、やがて、天の御国に着くとき、「この上ない満足感にひた」ります。ジョン・ストット師はこう言います。

「地上には大切な義務がありますが、自分が誰であるか、どこに向かっているのかを忘れるほど、そんなものに心を奪われてはいけません。」

信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離すことがありませんように。

※ 明日のSSCは、東北や熊本の被災地で活動しているオペレーション・ブレッシング・ジャパン代表トムソン先生がメッセージされます。

詩篇 16篇

「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」(7節)

助言を求められた時、まことの助言者である主に求めるように励ますならば、神が語ってくださるという世界を体験できます。加藤常昭師はこんなことを言っています。

「今の若い人たちは聖書を読まないとか、聖書は難しいとか、古い時代の文書であるとか、そう言われているけれども、そんなことはないんだ。今の人たちがなぜ聖書から遠ざかってしまったかというと、今の若者たちに責任があるのではなくて、我々神学者に責任がある。我々神学者がどうしているかというと、『あなたがた素人は、我々専門家が説明をしないと聖書がわからない人たちだ』と言っている。だから、聖書のある箇所を読んでも、そういう考えを植え付けられている人たちは、これについて専門家が語っている文章を読まないとわからない。」

牧師でなくても、専門的な教育を受けていなくても、日々、聖書を開くならば、神は必ず、私たちに語ってくださいます。

詩篇 15篇

「このように行なう人は、決してゆるがされない。」(5節)

詩人は

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」(1節)

と、神に奉仕する者の資格を挙げます。

「それは、責められるところのない生活を送る、誠実そのものの人です。他の人を中傷せず、うわさ話に耳を貸さず、隣人を傷つけたりしない人です。」(2,3節LB)

リック・ウォーレン師はこう言います。

「もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読み、学び、暗記し、黙想し、適用する必要があります。」

ローマ12:2にこうあります。

「この世の型にはまり込んでしまわないように気をつけなさい。むしろ、自分の心の態度がすべて変わるように、自分自身を神に造り変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころが良いもので、受け入れられ、完全であることを、あなた自身が身をもって証明するようになるのです。」(フィリップス訳)

詩篇 14篇

「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」(1節)

聖書は

「神はいない」

という態度が、すべての問題の根源だと教えています。

メディアは「宗教」が恐ろしいと洗脳しますが、「神はいない」という思想の下で、多くの血が、中国、ソ連、北朝鮮といった共産圏でも流されてきたことを忘れてはいけないと思います。人間を造られた創造主を否定して、すべてを偶然だと片付けてしまいますと、人間の尊厳も、存在意義も見失われててしまいます。神を恐れない人は、

「人々をファスト・フードのように扱う」(4節MSG)

ことも平気になってしまいます。ちいろば先生がこんなことを言っています。

「私たちは、言葉では『神はない』とは言わないかもしれない。しかし本当に神があるということを『心の中』、いわゆる自分の存在を賭けて言っているだろうか。」

詩篇 13篇

「主よ。いつまでですか。」(1節)

ワーシップ・リーダーのマット・レッドマンがこんな記事を書いています。

「確か、ユージーン・ピーターソン(メッセージ訳の訳者)だったと思いますが、こんなことを言っています。詩篇の七〇%は哀歌で、作者の暗闇の時期に書かれたものです。神に「この状況を、あなたはどうされようとしているのですか?」と泣き叫んでいるものです。詩篇13篇を見ると、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。」と質問に質問が繰り返されています。でも、終わりに彼は言います。「私はあなたの恵みに拠り頼みました。」(5節)彼は、すべて今は順調だと言ったのではなくて、信頼の問題だと言ったのです。自分はよく分からない。この苦しみから自由になりたい、でも、一日の終わりには、主よ、あなたを信頼します。」

詩人は言います。「しかし私はあなたの尽きない愛を信頼します。」(5節NIV)

詩篇 12篇

「主よ。お救いください。」(1節)

ここに力強い祈りの言葉があります。ここで使われている「お救いください」という言葉に「お願いします」という意味の「ナ」を付け加えると「ホサナ」になります。イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城する時、人々は「ホサナ!」と叫びました。これは、「お救いください。お願いします!」という意味があります。「お救いください」とも訳せますが、「主よ。助けてください。」とも訳せます。マタイ14章でペテロが溺れたとき、叫んだ祈りがこの祈りです。

「主よ。助けてください。」

イエス様は、この叫びを聞かれて、「すぐに手を伸ばして、彼をつかん」だとあります。追い詰められた時、「主よ。助けてください。」と主を呼び求める時、私たちは神の現実を体験します。ちいろば先生はこう勧めます。「よく『神様が分からない。神様が分からない』と言う人がいますが、…神様の言葉に聴き従って御覧なさい。」

詩篇 11篇

「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

1節から3節まで、詩人はこの地上の混乱に関して言及します。

「『法も秩序もなくなった。正しい者は逃げるしかない』と、人々は言います。」(3節LB)

しかし、詩人はその視点を地上から天に移します。

「しかし、主は依然として聖なる宮に住み、天からすべてを支配しておられます。地上での出来事をことごとく監視しておられます。」(4節LB)

神は確かに今生きておられ、すべては神の御手の中にあります。そして、神はすべてを正しくされます。たとえ今そう見えなくても、最後には神はすべてを正されると聖書は伝えます。もっとも「正義」という名の下で多くの悲劇が繰り返されてきたことを忘れてはいけないと思います。神の正義が、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様の中にあったことを忘れてはいけません。

今日は主の日。共に主を礼拝しましょう。

詩篇 10篇

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」(17,18節)

リビングバイブルでは、こう訳しています。

「主よ。あなたは謙遜な人の望みが何であるかご存じです。必ずその叫びを聞いて救いの手を差し伸べ、心に安らぎを与えてくださいます。主は、みなしごや虐待されている人たちのそば近くにいてくださるお方です。それで彼らは、地上の者たちから、二度と脅かされることはありません。」

1節では、詩人は神を遠く感じていました。苦しみのときに、神の不在を感じていました。しかし、最終的に神が実はそば近くにいてくださるお方であることを確信します。詩人を確信に導いたのは、「祈り」であることを心に留めたいと思います。