ヨブ記 25章

「どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。」(4節)

ビルダデのポイントは、

「そもそも人間だから正しくない。ヨブに非があるからこれらのことが起こったのだ」

ということです。因果応報の擁護です。しかし、ヨブ以上に苦難を受けられたイエス・キリストは、正しくなかったから苦しみを受けられたわけではありません。そのようにとらえようと試みるヨブの友人たちの声に、私たちは騙されてはいけません。神の御子イエス・キリストは、女から生まれた者となられましたが清いお方でした。神を因果応報の箱の中に閉じ込めておくのは不可能なことです。ビルダデの質問の答えは、イエス・キリストの十字架の御業によって完全に覆りました。聖書は答えます。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

ヨブ記 24章

「今そうでないからといって、だれが私をまやかし者だと言えよう。だれが私のことばをたわごとにしようとするのか。」(25節)

ヨブは因果応報を絶対とするエリファズに対して反論します。

「エリファズさん、あなたは因果応報がいつも絶対だと言うけれども、この世の不条理をどう説明するのですか?嘘をつかないでください。絶対じゃないじゃないですか!」

ヨブ記が私たちに問うていることは、私たちの動機です。もし、ヨブが主張するように、因果応報がこの世において必ずしも絶対ではないとしたら、

「それでもなお、あなたは正しく生きますか?」

「自分が願っていたように扉が開かれなかったとしても、それでもなおあなたは主を信頼し、善を行い続けますか?」

ということです。そもそも、イエス・キリストの十字架は不条理の極みです。しかし、神はこの不条理の極みである十字架の上でご自身を現されました。十字架は悲劇の象徴ではなく、天国の入り口です。

ヨブ記 23章

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(10節)

ヨブは苦難の中で因果応報を越えた神の存在を認めます。単純な「因果応報神学」は崩壊しました。神の御業は人間が計算できるようなものではありません。ただ、ヨブは理解できないことのゆえに、知っていることを手放すことはしませんでした。

「たとえ、わたしが分からなくても、神様はわたしがどこにいるか分かっている。これは試験で、この試験もいつか修了する時が来る。そして、わたし必ず合格する。」

使徒パウロはこんなことを言いました。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

神がどうして試練を与えるか、私たちの理解を超えています。しかし、良い働きをはじめられた方は、完成してくださいます。

ヨブ記 22章

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」(21節)

ヨブ記は三人の友のスピーチとヨブの応答。それぞれ三回ずつ、因果応報が絶対という観点からヨブを説得します。22章はエリファズの三度目のスピーチ。

「罰を受けているのは、あんたが正しいからだろうか。とんでもない。悪いからこそ、罰せられるのだ。あんたの罪は底なしの沼だ。」(4,5LB)

「神様に口答えするのはよしたまえ!いさぎよく仲直りしろよ。そうしたら、気が楽になるぞ。まちがっていたことを素直に認めれば、神様のいつくしみがある。」

エリファズの声は、私たちがどこからか耳にする声でもあります。

「病気になるのは、問題が起こるのは、あなたが悪いことをしたからだ。」

しかし、ヨブ記はそうとは限らないと教えます。

「それでもなお主に信頼し、善を行ないますか」

と問われているのかもしれないと。

今日は主の日。主を礼拝しましょう。

※ 今日は母の日。すべてのお母さんに感謝します。

ヨブ記 21章

「しかし、彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。」(14節)

ヨブの悩みは、信仰者の悩みでもあります。神を追い出し、神にかかわるのはまっぴらごめんだと思っているような人が、栄えているように見える時、私たちの心は穏やかでなくなります。自分の状況がヨブのように良くないのに、

「全能の神様だって?いったいだれのことだい。だいたい、なぜ神様なんかに従わなきゃならんのかね。たいしたご利益もないのに。」(15節LB)

と言う人が裕福な生活をしているのを見る時、誠実に信仰生活を送ることが空しく見えてしまうことがあります。しかし、ここにヨブ記のテーマがあります。私たちの動機の問題です。

私たちはどうして神を信じ、祈るのでしょうか?

思うようなご利益がないならば、祈らないというレベルの信仰なのでしょうか?

本物の信仰者とは何なのでしょうか?

ヨブ記 20章

「私の悟りの霊が私に答えさせる。」(3節)
「私の悟り」というものに対する危うさを理解する必要があります。箴言にこういう箇所があります。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(3:5)
「自分の悟り」に頼る時、問題が起きます。聖書のみことばが「自分の悟り」と違う時に、聖書のみことばを曲解するか、「難しい」と受け入れなくなるからです。ヨブの友人ツォファルは「自分の悟り」が邪魔して、結果的にヨブを攻撃しました。「自分の悟り」ではなく、まず、主を求めることが大切です。主は全知全能の神、すべてをご存知です。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8,9)

ヨブ記 19章

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

ヨブは苦しみの中、驚くような預言的ことばを発します。「だが、わしは知っている。わしを救うお方は生きておられ、ついには地上に降り立つのだ。この肉体が朽ち果てたのち、わしは新しい肉体で神様を見る。」(25,26節LB)旧約聖書には死後の世界に関する言及はありません。しかし、この箇所で明らかにヨブは死後の希望を語っています。ヨブは、この世がすべてではないこと、この世のからだがすべてではないことを理解します。ヨブは、死を越えたところに、永遠のからだに復活する日を確信したのです。私たちは、私たちを贖う方、キリストが死の力を打ち破ってよみがえられ、今、生きておられることを知っています。私たちは、ヨブよりももっと確信をもって、希望を宣言することができます。「私たちを贖う方、キリストは今生きておられる!」

ヨブ記 18章

「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。」(5節)

ヨブの友人ビルダデは、ヨブが悪いと納得させようとします。LBではこのように訳しています。

「あんたが繁栄しなかったとしたら、それはあんたが悪人だったからだ。炎が消えて当然だ。」

これは、苦難の中にいる人に、何の慰めにもなりません。ビルダデは、「因果応報」という自分の人生哲学を守るために、苦難にあえぐヨブをどん底に落としました。自分の人生哲学を貫き通すことと、苦難の中に落ち込む人を慰めること、どちらが大事でしょうか。イエス様は後者を選びました。真理を曲げたわけではありませんが、ビルダデとは違い、共に泣き、とりなすことを選ばれました。聖書は言います。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

ヨブ記 17章

「神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられる者となった。」(6節)

まさに、これこそ、文字通り十字架のイエス様が体験されたことでした。人々はイエス様をあざ笑い、つばきをかけました。ヨブは正しい人でしたが、イエス様は神の子であり、完全にきよいお方でした。

「義人の苦しみ」

こそ、十字架のイエス様の姿でした。どうしてイエス様は、このような苦痛を受けなければならなかったのでしょうか。この世界でヨブの気持ちを理解することができる人がいるとしたら、それはイエス様です。聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

イエス様は私たちを愛されるがゆえに、私たちと痛みを共有するために、苦痛を受けられました。

ヨブ記 16章

「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(19節)

ヨブは、家族からも、友人からも理解されず、彼の唯一の希望は天にて自分をとりなしてくださる存在でした。

「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(21節)

ヨブはその方がよく分かりませんでした。しかし、私たちは今、その方を知っています。聖書は言います。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

私たちは、問題の中で、このお方に目を向けることができます。私たちはその方を知っています。十字架の上で、私たちと同じように神に見捨てられたように感じる時を体験された神の御子が、私たちの思いを理解し、今日もとりなしてくださっています。